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全くけったいな天気である。カンカン照りかと思ったら、滝のような大雨が降る奇妙な一日であった。ちょうど神泉苑を訪れた時は雨の勢いが一番強い時であった。京のまちには、雨が良く似合う。特に池の水面に雨が落ちる風景は割と好きだったりする。
■法成池の東側(水煙が立っている。)
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そういえば、学生時代、毎日のようにこの神泉苑の前を京都の市バスに乗って通っていたのだが、実際に足を踏み入れたのは多分初めてではないかと思う。小さい水たまりのような池なのかと思っていたのだが、思いのほか大きくてびっくり。これでもかなり小さくなったようで、この場所が一番栄えていたであろう平安時代には、東は大宮、西は壬生、北は二条、南は三条と東西二町、南北四町という広大な地域を占めていたという。(一町は、約109m)
そして、平安京の禁苑となっており、この地で、天皇・貴族たちの遊宴が行われていたそうだ。
林屋辰三郎氏の名著「京都」によると、数万年前の太古の昔、京都の地は、湖であったという。神泉苑はその名残なのだという。本書では、「神泉苑の水は、京都を生み出した湖底からの湧泉で、旧賀茂川のながれの大きなよどみとなり、さらに苑池となって、こんにちまで太古の湖水をとどめているところなのである。」と述べられている。
池中には、善女竜王が祀られており、祈雨の霊験で知られる。弘法大師が、この地で雨乞いをして、見事雨を降らせた伝説が残っている。
■池にかかる法成橋、池の中の浮島に善女竜王が祀られている。
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また、平安時代、貞観年間に神泉苑で行われた御霊会が、祇園祭の始まりだとも言われている。
■法成橋からさらに奥を眺める。
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平安時代、天皇や貴族たちは、この神泉苑に、龍頭鶏首の船を浮かべ、管弦詩歌に遊んだのだろう。写真に映る池の奥にある船は、その故事にならったものなのだろう。
中世以降、神泉苑は次第に荒廃していく。決定的なのは、二条城の築造であったという。苑池の北側の大半が削り取られ、そして、太古からの湧泉も二条城の苑池に取り入れられたという。そして、人家に浸食され、現在の半町四方になっている。また、近世以降は、仏地となり、東寺の所属となり今に至っている。
そういった地理的歴史的な背景を持って眺めてみると、趣きを感じる場所である。約1200年前の貴族たちの姿が見えるような気がする。林屋氏の「京都」では、神泉苑から、京都の地理的な特徴である「夏の蒸し暑さ」あるいは「冬の底冷え」に湖底的風土として話をつなげている。そして、京都の人は、夏と冬を諦める代わりに、春と秋の美しさをその代償として得ているという。そして神泉苑を、「夏と冬の激しさの根源であると同時に、春と秋のおだやかさの母胎であったと言いかえることも出来そうである。」と述べておられる。う~ん、深いなあ。
■神泉苑の入り口
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神泉苑の前の通りを御池通という。この御池という名前は、この池に由来すると言われる。平安の昔は貴族の庭園ではあったが、次第の京都の人々のものとして親しまれてきたのかもしれない。
境内を出るときは、雨が上がってきた。妙な縁を感じつつ、この地を後にした。ちなみに、この神泉苑は、国の史跡になっている。
■法成池の東側(水煙が立っている。)
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そういえば、学生時代、毎日のようにこの神泉苑の前を京都の市バスに乗って通っていたのだが、実際に足を踏み入れたのは多分初めてではないかと思う。小さい水たまりのような池なのかと思っていたのだが、思いのほか大きくてびっくり。これでもかなり小さくなったようで、この場所が一番栄えていたであろう平安時代には、東は大宮、西は壬生、北は二条、南は三条と東西二町、南北四町という広大な地域を占めていたという。(一町は、約109m)
そして、平安京の禁苑となっており、この地で、天皇・貴族たちの遊宴が行われていたそうだ。
林屋辰三郎氏の名著「京都」によると、数万年前の太古の昔、京都の地は、湖であったという。神泉苑はその名残なのだという。本書では、「神泉苑の水は、京都を生み出した湖底からの湧泉で、旧賀茂川のながれの大きなよどみとなり、さらに苑池となって、こんにちまで太古の湖水をとどめているところなのである。」と述べられている。
池中には、善女竜王が祀られており、祈雨の霊験で知られる。弘法大師が、この地で雨乞いをして、見事雨を降らせた伝説が残っている。
■池にかかる法成橋、池の中の浮島に善女竜王が祀られている。
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また、平安時代、貞観年間に神泉苑で行われた御霊会が、祇園祭の始まりだとも言われている。
■法成橋からさらに奥を眺める。
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平安時代、天皇や貴族たちは、この神泉苑に、龍頭鶏首の船を浮かべ、管弦詩歌に遊んだのだろう。写真に映る池の奥にある船は、その故事にならったものなのだろう。
中世以降、神泉苑は次第に荒廃していく。決定的なのは、二条城の築造であったという。苑池の北側の大半が削り取られ、そして、太古からの湧泉も二条城の苑池に取り入れられたという。そして、人家に浸食され、現在の半町四方になっている。また、近世以降は、仏地となり、東寺の所属となり今に至っている。
そういった地理的歴史的な背景を持って眺めてみると、趣きを感じる場所である。約1200年前の貴族たちの姿が見えるような気がする。林屋氏の「京都」では、神泉苑から、京都の地理的な特徴である「夏の蒸し暑さ」あるいは「冬の底冷え」に湖底的風土として話をつなげている。そして、京都の人は、夏と冬を諦める代わりに、春と秋の美しさをその代償として得ているという。そして神泉苑を、「夏と冬の激しさの根源であると同時に、春と秋のおだやかさの母胎であったと言いかえることも出来そうである。」と述べておられる。う~ん、深いなあ。
■神泉苑の入り口
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神泉苑の前の通りを御池通という。この御池という名前は、この池に由来すると言われる。平安の昔は貴族の庭園ではあったが、次第の京都の人々のものとして親しまれてきたのかもしれない。
境内を出るときは、雨が上がってきた。妙な縁を感じつつ、この地を後にした。ちなみに、この神泉苑は、国の史跡になっている。
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