東大寺戒壇院には、奈良女子大学の前を通って、奈良坂の方へ抜ける県道の方から入った。ちょうど、修学旅行の学生たちが、宿屋から固まって出てきているところだった。県道から戒壇院の方へ向かう道は、人通りも少なく、古くは、別荘地だったのだろうか、個性的ではあるも落ち着いた佇まいであった。大勢いた修学旅行生も戒壇院は素通りで、みんな大仏殿の方に向かって歩いていた。
そして、戒壇院には、長い石段を登っていかなければならない。
石段を登っていくと戒壇院の門が見える。戒壇院と言いつつも独立した一つの寺のような感じだ。
戒壇院について、「大和路」では、人が少なく、また松林に囲まれていると書かれている。大仏殿などは観光客でごった返しているのだが、ここら辺りは本当に訪れる人が少ない。拝観する人も数名であった。戒壇院というと、正式な僧侶になるには、「戒」を授ける受戒という儀式が必要であった。そのため、奈良時代、唐の僧鑑真が仏教の戒律を伝えるため、幾多の苦難を乗り越えて来日し、戒壇院を開いたその場所がここである。その鑑真の渡日について小説にしたのが、井上靖の「天平の甍」である。この小説は、僕の好きな小説の一つで、何回も読み返している。読むたびに、新しい学問を取り入れて、命の危険も顧みず、できたばかりの日本という国家を建設していこうという遣唐使たちの時代精神に胸を打たれる。そして、この受戒という儀式は、現在にまで伝わっているのだそうだ。
奈良時代、この戒壇院には戒壇堂の他に、講堂や僧房、経蔵などが建てられたそうなのだが、何度か焼失し、現在の建物は江戸時代享保年間に再建されたものである。ただし、建物の位置は変わっていないらしい。
それでも、裳階のついた立派な建物である。
戒壇院の見ものは、天平彫刻の代表作である四天王像である。
「大和路」では、こう書かれている。
『がらんとした堂のなかは思ったより真っ暗である。案内の僧があけ放してくれた四方の扉からも僅かしか光がさしこんでこない。壇上の四隅に立ちはだかった四天王の像は、それぞれ一すじの逆光線をうけながら、いよいよ神々しさを加えているようだ。
僕は一人きりいつまでも広目天こうもくてんの像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視している貌かおを見上げていた。なにしろ、いい貌だ、温かでいて烈はげしい。……
「そうだ、これはきっと誰か天平時代の一流人物の貌をそっくりそのまま模してあるにちがいない。そうでなくては、こんなに人格的に出来あがるはずはない。……」そうおもいながら、こんな立派な貌に似つかわしい天平びとは誰だろうかなあと想像してみたりしていた。』
そして印象的なのは、次の一節である。
『「この天邪鬼というのかな、こいつもこうやって千年も踏みつけられてきたのかとおもうと、ちょっと同情するなあ。」
僕はそう言われて、はじめてその足の下に踏みつけられて苦しそうに悶もだえている天邪鬼に気がつき、A君らしいヒュウマニズムに頬笑みながら、そのほうへもしばらく目を落した。……』
奈良時代の彫刻らしい、厳しい凛とした表情をして、多宝塔を中心に戒壇の四隅に立って、仏の世界を守護している四天王の足元で身をかがめて押さえつけられている天邪鬼の姿を見ているとそんな気がする。そりゃあ、長年踏み付けられりゃ、隙を見て、抜け出していたずらの一つもやってやれという気にもなるわなと思ったりもした。
ただし、記録によると、当時は金銅の四天王像であったそうで、現在の四天王像は土で作られた塑像である。おそらく、どこからか運び込まれたのであろう。
戒壇院を出ると少し雨が降ってきた。小雨の奈良も良いものだと想いながら帰ることにした。
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そして、戒壇院には、長い石段を登っていかなければならない。
石段を登っていくと戒壇院の門が見える。戒壇院と言いつつも独立した一つの寺のような感じだ。
戒壇院について、「大和路」では、人が少なく、また松林に囲まれていると書かれている。大仏殿などは観光客でごった返しているのだが、ここら辺りは本当に訪れる人が少ない。拝観する人も数名であった。戒壇院というと、正式な僧侶になるには、「戒」を授ける受戒という儀式が必要であった。そのため、奈良時代、唐の僧鑑真が仏教の戒律を伝えるため、幾多の苦難を乗り越えて来日し、戒壇院を開いたその場所がここである。その鑑真の渡日について小説にしたのが、井上靖の「天平の甍」である。この小説は、僕の好きな小説の一つで、何回も読み返している。読むたびに、新しい学問を取り入れて、命の危険も顧みず、できたばかりの日本という国家を建設していこうという遣唐使たちの時代精神に胸を打たれる。そして、この受戒という儀式は、現在にまで伝わっているのだそうだ。
奈良時代、この戒壇院には戒壇堂の他に、講堂や僧房、経蔵などが建てられたそうなのだが、何度か焼失し、現在の建物は江戸時代享保年間に再建されたものである。ただし、建物の位置は変わっていないらしい。
それでも、裳階のついた立派な建物である。
戒壇院の見ものは、天平彫刻の代表作である四天王像である。
「大和路」では、こう書かれている。
『がらんとした堂のなかは思ったより真っ暗である。案内の僧があけ放してくれた四方の扉からも僅かしか光がさしこんでこない。壇上の四隅に立ちはだかった四天王の像は、それぞれ一すじの逆光線をうけながら、いよいよ神々しさを加えているようだ。
僕は一人きりいつまでも広目天こうもくてんの像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視している貌かおを見上げていた。なにしろ、いい貌だ、温かでいて烈はげしい。……
「そうだ、これはきっと誰か天平時代の一流人物の貌をそっくりそのまま模してあるにちがいない。そうでなくては、こんなに人格的に出来あがるはずはない。……」そうおもいながら、こんな立派な貌に似つかわしい天平びとは誰だろうかなあと想像してみたりしていた。』
そして印象的なのは、次の一節である。
『「この天邪鬼というのかな、こいつもこうやって千年も踏みつけられてきたのかとおもうと、ちょっと同情するなあ。」
僕はそう言われて、はじめてその足の下に踏みつけられて苦しそうに悶もだえている天邪鬼に気がつき、A君らしいヒュウマニズムに頬笑みながら、そのほうへもしばらく目を落した。……』
奈良時代の彫刻らしい、厳しい凛とした表情をして、多宝塔を中心に戒壇の四隅に立って、仏の世界を守護している四天王の足元で身をかがめて押さえつけられている天邪鬼の姿を見ているとそんな気がする。そりゃあ、長年踏み付けられりゃ、隙を見て、抜け出していたずらの一つもやってやれという気にもなるわなと思ったりもした。
ただし、記録によると、当時は金銅の四天王像であったそうで、現在の四天王像は土で作られた塑像である。おそらく、どこからか運び込まれたのであろう。
戒壇院を出ると少し雨が降ってきた。小雨の奈良も良いものだと想いながら帰ることにした。
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