堀辰雄の「大和路・信濃路」という本に出てくる寺社をたどって、大和路を散策している。もともとは、せっかく歩くんだから何かテーマみたいなのがあった方が楽しいよなというのがきっかけで、堀辰雄の名エッセイ「大和路・信濃路」という文庫本を片手にてくてくと歩くことにしたのである。
東大寺の転害門についても、「大和路」の中で簡単に触れられていて、「天平時代の遺物だという転害門から、まず歩き出して、法蓮というちょっと古めかしい部落を過ぎ、僕はさも気持ちよさそうに佐保路に向かいだした。」と簡単に書かれている。
しかしながら、この転害門、実は大したものなのである。鎌倉時代に補修を受けているものの、奈良時代に創建された東大寺の唯一の創建時から現存している建造物なのである。当然ながら、国宝に指定されている。
建築としては、本瓦葺き、切妻造の三間の八脚門である。天平時代に作られた八脚門で現存しているのは、法隆寺の東大門とここだけなのだそうだ。佐保路がここから始まることから佐保路門とも呼ばれている。東大寺の中心部と少し離れていることから、訪れる人はまばらである。個人的にはそこが良かったりする。
考えれば、奈良坂から奈良に入ってくる街道沿いにあることから、平重衡や松永久秀などの焼討ちなど、多くの戦乱がこの門前で繰り広げられていたはずであるにもかかわらず今に至るまで残っているのである。
転害門という珍しい名称はどこからくるのだろうか?調べてみると、東大寺にある手向山八幡宮の転害会という祭礼の渡御がこの門まで来ることから転害門と呼ばれるようになったらしい。
また、いろいろな伝承があり、平景清という人物が源頼朝を暗殺するために隠れ住んだという伝承から景清門という名称もあるそうだ。
この周辺は、手貝町という地名で、これも転害門から来ているのだそうだ。昔、転害門に妖怪が住んでいたという話があったような気がするのだが、いくら調べてもわからない勘違いなんだろうか???
そして、転害門から佐保路を西へ行くと、聖武天皇と仁正皇太后の陵がある。仁正皇太后と書くと誰のことかと思われるが、聖武天皇の皇后、藤原安宿媛のことである。後に送られた尊号とのことで、正確には「天平応真仁正皇太后」というのだそうだ。
そして聖武天皇ともに佐保山に眠っているとされている。
■聖武天皇陵(法蓮北畑古墳)
聖武天皇陵(法蓮北畑古墳)については、直径13メートル、高さ3メートルの円墳だと言われている。埋葬施設としては、横穴式石室を持っているのではないかとのこと。奈良時代の聖武天皇陵と治定するのには年代の差が明らかではある。
しかしながら、このあたりに、聖武天皇の陵墓の祭祀を行っていたとされる眉間寺という寺院が建てられており、奈良時代から明治まで続いていたとされる。少なくとも現在の聖武天皇陵が存在している佐保山に葬られたという伝承は比較的早い時点からあったのだろうと思われる。
当時の墓制が、薄葬であったことを考えるとこの山のどこかに葬られたのかもしれない。しかし、この辺りは、中世以降多聞山城などの城郭が作られていたそうなので、ちょっとわからないかもしれない。
■仁正皇太后陵
写真を見て、正面から写真を取ることができない地形になっていて、陵自体は、多聞山城の遺構だと言われている。古墳ですらないみたいである。
位置関係から見ると天皇、皇后の陵が寄り添っておかれていることが何とも仲睦まじい気がする。正倉院宝物には、聖武天皇と光明皇后が仲良く使ったであろう道具などが残っている。
聖武天皇が、在位していた頃をピークとして天平文化は、正倉院の宝物に代表されるような非常に国際的な文化として花開くのだが、こういった光の部分とは別に皇位を巡る黒い世界が広がっていたのだけれども。
そして、奈良時代の後半は、皇位継承をめぐる血を血で洗うような生臭い抗争の中で多くの皇族や貴族が命を落としている。それは、聖武天皇の皇子や皇女も例外ではなかった。
天皇陵の陵域を出たところに、佐保川と書かれた石の橋が架かっている。佐保路を歩いているのだなあと何となく思ってしまう。趣深い気がする。