談山神社の広い境内には、万葉歌碑がいくつか置かれている。そのうちの二つを紹介したい。
一つは、談山神社に登ってくる途中にあった東大門の横に置かれている。
門の後ろにこじんまりと置かれており、気づかずに行ってしまってもおかしくないような感じだった。
歌碑には、柿本人麻呂の歌で、「久方の 天ゆく月を 網にさし わが大君は きぬがさにせり」とあり、歴史小説家山岡荘八氏の揮毫によるものである。
歌意は、空に出ている月を網を張って捕らえて、わが主君は蓋にしていらっしゃるというもので、長皇子が狩猟に出たときに宴席で、空に出た月を背景に立っている長皇子の姿を見立てたものである。
長皇子は、天武天皇の皇子、母は天智天皇の娘、大江皇女である。一品の位を授けられているので、天武天皇の皇子の中でも有力者であったのだろう。事績としては特に目立つものは伝わっていない。ちなみの、百人一首の文屋康秀とその子の文屋朝康は、この長皇子の子孫である。
柿本人麻呂とつながりがあるというのは、今回調べてみて初めて知った。ちょっと意外だった。
山岡荘八氏は、残念ながら全く読んだことがない。ただ、親父の書架に「徳川家康」(全26巻)がずらっと並んでいて子どもながらに壮観であった。
もう一つが、けまりの庭の端にある万葉歌碑である。
かなり字が読みにくくなっていた。揮毫は狐狸庵先生こと遠藤周作氏。
歌は、談山神社の祭神である藤原鎌足の「吾はもや 安見児得たり 皆人の 得かてにすといふ 安見児得たり」というものである。
この歌は、結構知られている歌で、天智天、本来は臣下との婚姻を禁じられていた采女(安見児)を賜り娶ることができたことを喜んで歌にしたものである。
歌意としては、私は采女である安見児を得ることができた。誰もが得難いものにしている安見児をを得たというものであろう。安見児を2回も読み込んでいるところに、鎌足の喜びの大きさを見て取れる。大化の改新の功臣である鎌足であるからこその特別な待遇であったのだろう。
鎌足と安見児との間に子どもがあったかどうかは伝わっていない。
この歌碑の前には、神廟拝所があり、その上には木造十三重塔が立っている。
万葉歌碑は、あと一つ、駐車場のところにもあるそうなのだが、この時は気づかなかった。歩いて登って来たから、駐車場にはいかんもんね。
最後に、拝殿に登る階段のわきに桜井市のライオンズクラブがたてた、平安末期の歌人、紀伊守藤原成経の歌碑がある。
歌碑には、「花ごろも、風荒山に色かへて、もみぢの洞の 月をながめよ」とある。もみぢの洞は、紅葉の名所、多武峰のことである。『玉葉和歌集』所収のものであるとのこと。
この後は、いよいよ多武峰、談山神社を下山することになるのだが、思いもよらぬことが待ちうけていたのである。(笑)
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