談山神社の蹴鞠の庭から石段を降りて、御幸橋を渡って、談山神社の門前へと出る。この後は、明日香までてくてくと歩いて下っていこうと思い、西の方へ向かう。
歩いていくと道すがらに、古い、昔は談山神社の社家であったのであろう住宅が、何軒か連なる。司馬遼太郎の「街道をゆく24 近江散歩・奈良散歩」に登場する社家は、この辺りなのだろうか?趣のある建物が続く。そこから少し歩くと、ちょっとした広場になっているところがある。
増賀堂と呼ばれるお堂の跡で、小さい祠と建物が立っていたのであろう方形の壇があった。
増賀堂の元になった増賀上人については、平安時代中期の天台宗の僧侶だそうで、生没年は917年~1003年ということで86歳で亡くなり、この多武峰に住したため、多武峰先徳とも言われたそうだ。その最後は、この地で即身仏になったらしい。調べてみると、文献上、一番最初に即身仏となったのが、この増賀である。即身仏は、生きたまま、土中に埋められて、ミイラになるわけで、いくら信仰のためとは言え、よっぽど精神的に強くないと難しいだろうなと思う。途中で挫折するような根性なしは、周りの人々に殺されることもあったらしい。恐ろしい、僕は軟弱者なので、無理ですね。
ちなみに増賀上人のお墓と伝えられる念誦窟(ねずき)と呼ばれる円形の塚が、この奥にあるそうだ。
時間も時間なので、そこは割愛し、西へ向かうと、談山神社の西大門跡があり、そこの石垣の上に、石仏が置かれている。
この石仏は、鎌倉時代に作成されたことがわかる銘文が残っており、仏様は、弥勒菩薩だという。桜井市では最も古い作成年代がはっきりわかる銘文がある石仏であるらしい。
全体の風景はこんな感じ。また、この西大門址の傍らには「女人禁制」と書かれた石碑も残っており、明治時代までは、女性はここまでしか来られないということである。
ここからは、県道を使って、石舞台古墳の方へ降りるつもりが、良助親王冬野墓と書いた石の道しるべがあり、この道を通っても明日香の方には降りられるようであり、以前、談山神社から良助親王墓までの道が印象深いという話を耳にしたことがあるので、当初予定していた県道のルートを変更し、良助親王墓までのルートをたどることにした。この道がかなり険しく大変だったのだが、これは、次回に続きます。
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