これまでのコースとは別に、平城宮跡の発掘調査の現地説明会に参加した後、平城宮の大極殿の北の方の山々を眺めていると、一つだけポツンと古墳らしき高まりを見つけることができる。
これが市庭古墳と呼ばれる古墳である。一見、円墳のように見えるが、平城宮跡の発掘調査により、奈良時代平城宮を造る際に削平された前方部が検出され、墳丘長253mの堂々たる、巨大前方後円墳であることが判明している。
平城京の造営時には、多くの古墳が破壊されている。大極殿の下にも、神明野古墳と呼ばれる全長100mほどの前方後円墳が埋没している。
なお、市庭古墳については、現在は、残っている後円部のみを、平安時代の天皇平城天皇楊梅陵として、宮内庁が管理している。
市庭古墳については、宮内庁が管理しているため発掘調査は行われていないが、周辺から出土した円筒埴輪などにより、古墳時代中期(5世紀中頃)に築造されたと考えられている。
また、築造時には墳丘の周りを周濠が取り巻いていたと考えられており、平城宮跡の中に、列石で市庭古墳の周濠の端が示されている。(航空写真を見てみると、古墳が、前方後円墳であったという名残を見ることができる。)
ここから、後円部を眺めるとかなり距離があり、築造時の古墳の大きさを偲ぶことができる。
市庭古墳が、築造された時期と同時期に築造された古墳としては、百舌鳥古墳群の百舌鳥ミサンザイ古墳や古市古墳群の仲津山古墳、誉田山古墳などが同じ時期に築造されたと考えられている。それらの古墳にも負けない堂々たる規模の古墳であったようだ。(ただし、大王墓ではなさそうだ。)
平城宮跡から、市庭古墳の拝所に向かったのち、周辺を歩こうと思うも、残念なことにギリギリまで民家が立て込んでおり、古墳の全体を目にすることはできなかった。
これらのことを考えると、なかなか平城天皇の御陵と考えるのは難しいようだ。ただ、平城天皇は、即位後わずか3年ほどで弟の嵯峨天皇に皇位を譲り、、奈良の古京で隠棲していたが、薬子の乱に敗れた後、都に帰ることなく、奈良の地で静かに生涯を閉じた人物である。
平城天皇の御陵については、江戸時代では、同じ佐紀盾列古墳群のコナベ古墳とかんがえられていたこともあったようだ。その後の文久年間修陵事業の時に現在の場所が治定されている。
市庭古墳を離れて、北の方にあるハジカミ池を再訪する。ハジカミ池(八上池ともいう。)については、人工的に造られた灌漑用の池ではあるのだが、珍しく池の中に浮島が二つある。
この辺りは、奈良時代松林苑と呼ばれる庭園があった場所ではあるので、その一部であった可能性もあるようだ。このような光景を見ていると、そういった話もさもありなんという気がする。
ハジカミ池の東側は低地となっていて、そこには、水上池と呼ばれる、これも人工的に造られた池が存在する。
このほかにも、周辺には人工池がいくつかあり、それがいつ築造されたのか興味深い所ではある。このハジカミ池が不思議なのは、次のような光景があるからである。
池の水面から潜望鏡のようにニュッと突き出ているカーブミラー。
一体何のために置かれているのかよくわからない。
道路から見ると、ガードレールと同じ位置にあるので、道路側からは鏡面は見えない。
何のためにこんな場所に設置されたのだろう。ネット等で検索しても全くわからない。設置された理由は、歴史の波間に消えてしまうのだろうか?
もし、理由を知ってる方がおられれば、情報提供をお願いします。
とにかく、首をかしげながらも、家に帰ることにした。
そして、次からは、佐紀盾列古墳群の東群を中心に紹介していくことにしたい。
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