船岡山の周辺の火葬塚をいくつか紹介したが、もう少し範囲を広げてみると、さらにいくつか火葬塚を見つけることができた。
まず後冷泉天皇の火葬塚を見学した後、一条天皇、三条天皇の火葬塚を訪ねるために千本通りを北上し、佛教大学の構内を横切っている道路を西へ行き、団地を抜けていくと、少し土が盛り上がった堤防のようになっている所があった。
これが、近世、豊臣秀吉によって作られた御土居の遺構である。(この場所に行く予定はなく、偶然に通りかかった。)
御土居は、総延長約23kmに及ぶ土塁を、東は賀茂川、北は鷹峯、西は紙屋川、南は九条に巡らせて造られたものである。外部との交通は、京の七口と呼ばれる粟田口、鞍馬口、丹波口などに限定し、それ以外の外部との交通は遮断されることとなった。平安京では、周囲をぐるっと羅城で囲むことができなかったが、御土居によってそれが実現したと言われる。
しかし、御土居が何のために造られたかは諸説あり、はっきりはしていないようだ。
この御土居史跡公園のある場所は、北西の隅にあたる。土塁のすぐ下を紙屋川が流れており、谷のようになっている。
ここでは、実際に御土居の上に登ることができる。ここに登ると、西側の紙屋川を挟んでかなり段差がある。紙屋川が濠の役割をはたしていたと言われるが十分に納得できる光景であった。
京都の市街の大改造を担った御土居も近世以降徐々に破壊され、現在残っている所は、この史跡公園も入れて10か所も残っていない。特に昭和以降、土取りや宅地開発でかなり破壊され消滅してしまった。
この御土居史跡公園から、紙屋川を渡って西へ行くと、川沿いに一条天皇、三条天皇の火葬塚がある。
両天皇共に、平安時代、藤原道長の時代の天皇である。
ちなみに一条天皇の皇后が藤原定子であり、中宮が藤原彰子とである。そして、定子には、枕草子の作者、清少納言が、彰子には、源氏物語で知られる紫式部が仕えており、王朝文化華やかりし時代であった。
三条天皇は、一条天皇の後を受けて即位している。百人一首には、「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」という歌が採録されている。
この時代、皇統は、冷泉天皇の系統と円融天皇の系統の両統迭立のような状態であった。三条天皇が、一条天皇の皇子後一条天皇に譲位した後、皇位は、円融天皇の系統に伝わっていくことになる。
一条天皇も三条天皇も火葬はされているのは事実なのだが、ここがその場所かと言うと少し疑問がある。一条天皇については、特に場所は伝わっておらず、三条天皇は、船岡山の西石陰で火葬されたとされる。船岡山の西と言うには少し距離があるような気がする。
実際、この場所に立ってみると、すぐ後ろに紙屋川が流れており、その堤防の一部分のような気もしないでもない。
大きな塚はあるのだが、周囲を濠が巡っているわけでもない。
ちなみに、一条天皇も三条天皇も陵墓自体、中世以降所在が不明となっており、特に三条天皇については、文久の修陵時でも確定できず、最終的に明治22年に現在の場所に治定されている。
古代天皇だけでなく、平安時代の天皇も陵墓の治定はかなり怪しいものがありそうである。
この後、金閣寺周辺にもいくつか火葬塚などがあるので、そちらへ向かうことにしたい。
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