日本武尊白鳥陵から、北へ向かって、田んぼの中をのんびりと歩いていく。こういう風景の中に身を置くというのはいいなあと思う。
やがて、右手に御所市の市民運動広場があり、そこを右に曲がり、秋津鴻池病院の横をする抜けるように進む。道は、徐々に上り坂になっていく。
結構な山の中を歩いていかないといけないのかなと少し不安を感じながら登る。
数分歩くと、予想に反して登り道の終わりが見える。もう少しの辛抱だ。
登り道を登りきると突然のように古墳の前方部の姿が眼の中に飛び込んでくる。あまりに不意に出てくるので驚くと同時に掖上鑵子塚古墳の迫力のある姿に圧倒される。
道が三叉路に分かれる所に説明板が立っていた。
掖上鑵子塚古墳は、墳丘長約150m、後円部径100m、前方部幅90mの巨大な前方後円墳の古墳である。後円部の大きさに比べて、前方部がかなり短くなっており、そのため頭でっかちなちょっとバランスの悪い感じの古墳である。築造は5世紀の中頃と考えられている。
もともとは周濠があったらしいのだが、現在は埋め立てられて田畑になっている。
また、後円部の裾の所にも説明板があった。
という事は墳丘までは近づくことはできそうなのだが、ちょうど前の田んぼをトラクターで作業されていたので、ちょっと遠慮をし、遠巻きで眺めるだけにした。
後円部には埋葬施設があり、竪穴式石室でその中には長持型石棺が収まっているようなのだが、正式に調査をされていないので詳細はわからない。また、出土品として、冠帽形埴輪や水鳥形埴輪、家形埴輪などの形象埴輪がある。
前方部側に回り込んでみる。後円部と比較するとかなり低い感じがする。
よくわからない、いろいろなものが置かれた向こうに古墳らしきものが見える。これが鑵子塚南古墳で、周濠との切りあいからこの古墳の方が鑵子塚古墳より古いと考えられている。
ただ、これだけ近い所にわざわざ造っているので、この二つの古墳について何らかの関係があったと考えるべきなんだろうな。
しかし、なぜこんな隠れたような場所にあったんだろう。この古墳は、室宮山古墳、屋敷山古墳の次に造られたもののようである。葛城氏の衰亡と関係があるのかも。
とにかく、掖上鑵子塚古墳は、古墳が登場するまでのロケーションが素晴らしい。ここは、古墳だけではなく、ここに至るまでの道のりも併せて素晴らしい。箸墓古墳、行燈山古墳、ウワナベ古墳とともに、掖上鑵子塚古墳、私の好きな古墳です。
この後は元の道に戻ってから、孝安天皇陵に向かうことにしよう。
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