いよいよ峯塚古墳の石室に潜入することになる。この古墳の石室に入るためには懐中電灯かライトを手にして入っていく必要があるのは言うまでもない。
石室の入り口の辺りは少し土砂が流入して狭くなっているが、そこだけ用心すればあとは少し身を屈めるだけで進んでいける。
羨道部は、長さ6.65m、幅2.28mと長く、側壁は、一石を並べて構成されている。
羨道を抜けると玄室の広い空間に出る。
玄室は、両袖式になっており、長さ4.46m、幅2.58m、高さ2.4mを測り、立ち上がっての見学が可能である。
玄室は、側壁、奥壁ともに2石を積み上げて構成されており、目地がきちっと通っている。岩屋山式の石室である。最初、この空間に入った時、精巧な石室の造りにちょっと圧倒される雰囲気がある。
側壁は、下の段は2石で、左側は、上の段に長い大きな石を一石載せている。(右側は2石である。)
石も表面は加工されており、平滑になっている。石材は花崗岩なのだそうだ。ちなみに天井石は3石用いられている。
なお、石室の目地には漆喰が使われているそうで、目地の隙間を眺めてみるとそれらしきものが確認できる。
峯塚古墳については、石室の大きさが岩屋山古墳と同規模であり、石室の造りも同様のものであることから、岩屋山古墳を造った技術者集団と何らかのかかわりは想定できそうである。ただ、技術は岩屋山古墳の方が数段上だとは思う。(なお、橿原市の小谷古墳とは同一設計とも言われている。)
古墳の周辺を見ると、背後には丘陵を切断している堀切があり、おそらく、古墳の周辺を平坦に整地して築かれたのだろうと想定される。
墳丘を眺めてみると、葺石がいくつも見つかる。
加工されているような感じもある。
墳丘をタイル状に敷き詰められた葺石がぐるりと囲んでいたと考えられている。ちなみに墳丘は3段築造であるとのこと。竹の繁殖が凄くて、墳丘の形がわからなくなっている。
ちょっと遊んでモノクロ写真を撮影してみた。わりといい感じである。
峯塚古墳については、終末期の古墳、7世紀の前半から中頃に築造された古墳であると考えられており、先に紹介した塚穴山古墳に続く、物部氏の首長墓であり、587年丁未の変で物部氏の主流が滅んだ後に築かれた古墳であると考えられる。そうなると物部氏は、物部守屋などの主流が滅んだ後も、それなりの勢力を維持していたと言えそうである。
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