艸墓古墳から安部文珠院へ向かう途中に、住宅街の中を北の方に向かって奥の方へ入っていくと、土舞台と書かれた看板があり、階段を登っていくと、丘の上をきれいに平らに整地された場所に出た。
土舞台と呼ばれるところで、日本の芸能発祥の地と伝えられるところである。
解説によると、推古天皇の頃、百済から渡来した味摩之という人物が、呉に学びて、伎楽の舞を得たと聖徳太子に言ったところ、太子が桜井の地で子どもたちに伎楽の舞を習わせた場所と伝わる。日本最初の国立劇場であり、国立演劇研究所であるとのこと。これはちょっと盛り過ぎな気もするが、桜井市って結構○○の発祥の地が多い気がする。相撲やミカンがそうである。
土舞台については、特に遺構があるというわけではなく、広い場所に、文芸評論家の保田與重郎氏がこれを顕彰し、石碑を立てたものが残っている。
この故事を由来として、毎年、この地で篝能が土舞台顕彰会主催で行われている。
ただ、この場所をよく観察してみると、もしかしたら中世に山城の跡かもしれないと思い、調べてみると、安部山城というのがこの場所にあったようで、曲輪の痕が残っているらしい。そこまで明確な遺構は見つけなかったなあ。ちなみに、安部山城は、梟雄松永久秀の居城であり、筒井順慶などとこの地で戦ったそうだ。
奈良県は、意外と中世の山城などには冷淡なので、詳細はわからない。古墳やら宮跡など、ゴロゴロしているから山城などには手が回らないのかもしれないね。
土舞台から、元来た道を戻って安部文珠院へ。境内には、駐車場から入った。これが一番ポピュラーな入り方で、実際の表山門は別にある。
安部文珠院について、簡単に説明をすると、飛鳥時代の豪族阿部氏の氏寺として建立されたと伝わる。開基は、乙巳の変の後、左大臣となった阿部倉橋麻呂と言われる。この時の阿部寺は、別の場所にあり、現在は史跡公園として保存されている。
鎌倉時代に入り、阿部寺の別院であったこの場所に移り、戦国時代には、兵火に遭い、堂宇が全焼するも、江戸時代に入り、本堂等が再建され、今に至っている。
本堂には、国宝の快慶作木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像が安置されている。拝観すると、抹茶とらくがんをいただくことができる。中々ないサービスなのでちょっと嬉しかったりする。(特にこの日はよく歩いたので、一層喜びは増します。)
ただ、何度も来ている割に、なぜか印象がないお寺なのである。境内にある古墳の印象が強いのかなあ。あるいは、浮御堂やコスモスの迷路などいろいろとありすぎて全体の印象が薄まっているのだろうか?不思議である。
浮御堂の前には、阿部一族の阿部仲麻呂の歌碑がある。
歌碑には、当然百人一首で知られた「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」の歌が書かれている。
最近は、安倍晴明ブームに乗っかって、晴明堂を建立したりしている。阿部氏の裔なんだろうから、全く関係がないとも言えないのだろうけど、こういった商売上手(?)なところが見え隠れするなあ。(笑)いや、サービス精神が旺盛とも言えそうだな。
さあ、いよいよ文珠院西古墳の登場ですね。
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