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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

恭仁宮 第98次発掘調査現地説明会

2019-01-25 00:19:50 | 現地説明会
 平成31年1月19日(土)
 奈良時代の都の一つ恭仁宮の発掘調査の現地説明会があった。恭仁宮にはこれまでに一度も足を踏み入れたことがなかったのだが、今回上手く日程が合い行ってみることにした。恭仁宮へは、関西本線加茂駅から30分ほど歩くか、コミュニティバスに乗っていくかだが、1月とはいえ、風もあまりなく、天気も良かったことから、宮跡まで歩いていってみた。田園風景の中歩いていくのは非常に気持ちが良かった。

 聖武天皇の時代の天平12年(740年)平城宮から恭仁宮に遷都され、その後、天平16年(744年)に難波宮に遷都するまでのわずか4年間、この地が日本の中心であった。周りの風景を見ていると、まさか、このようなところに都があったということは考えにくいロケーションではある。

 発掘調査の現地説明会は、宮跡の南側の広場、すぐそばを国道が走っているような場所で行われた。
 
 今回の発掘調査では、昨年度行われた発掘調査で確認された朝堂院の北端と考えられる柱穴をもとに、朝堂院とその北側で接すると考えられる大極殿院の回廊があると想定して発掘調査が行われたものである。


 【第1トレンチ】
 
 

 大極殿院の回廊の南西隅にあたる場所を発掘したが、回廊の遺構は検出されなかった。

 【第2トレンチ】
 
 

 大極殿院の南門北西部と考えられる場所を発掘したが、これも特に恭仁宮にかかわる遺構は検出されてなかった。

 【第3トレンチ】

 

 大極殿院の南門南東部にあたる場所を発掘したが、これも特に恭仁宮にかかわる遺構は検出されていない。いつくか見える柱穴は現代のものであるらしい。

 【第4トレンチ】

 

 これが大発見!東西方向に連なる5つの柱穴を検出。この柱穴は、約3m(10尺にあたる)間隔で一列にで並んでおり、昨年度検出された朝堂院の柱穴の真西にあることから、大極殿院の南面と朝堂院の北面との塀であると考えられている。しかも、基壇や礎石等はないため、どうやら平城宮のような大きな南門や築地塀があったわけではなく、また、雨落ち溝等もなく瓦等も出土していないことから、簡素な掘立柱塀であったようである。

 

 また、南門も作られなかったか、あったとしても非常に簡素なものであったと考えられている。

 

 さらに、説明会の場では、大極殿院も回廊も、第1トレンチの場所で検出されていないことから、途中までしか造られていなかったのではないかとのことであった。
 恭仁宮の全貌については、あまり知られていなかったのだが、少なくとも大極殿院の南側では、平城京のような大きな南門や格式の高い築地塀ではなかったと考えることができるとのこと。理由としては、財政的に困難であったか、急な遷都であり、施設の建設が間に合いそうになかったため、急ごしらえの施設となったのではないかということであった。

 今も昔も宮仕えは大変なのだなあと思う。ただ、思うに南側の築地塀があると想定された場所に何もなく、少しずれたところにあったということは、もしかしたら、近い将来きちんとした塀や門を作るつもりでずらしたのかもしれない。確証はないけれどもね。

 

 恭仁宮の中枢施設、大極殿跡は、向こうに見える平屋建ての小学校の裏にある。こののどかな風景の地に、遥かな昔、都があったのである。不思議な感じである。
 説明会のあとは、恭仁宮跡を見て回った。それは、この後で。

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