休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

恭仁宮跡(山城国分寺跡)

2019-01-27 23:25:45 | 史跡を歩く
 恭仁宮の発掘調査の現地説明会を見学したのち、恭仁宮跡へ行った。
 初めに、聖武天皇のこのころの動きをまとめてみたい。
 恭仁宮は、聖武天皇の頃、天平12年(740)に平城京から遷都してきた。この頃は、聖武天皇が平城京を出て、いろいろなところに彷徨していた。
 直接のきっかけは、同年に起こった藤原広嗣の乱であったと言われる。藤原広嗣の乱が集結する頃、平城宮から東国へ行幸を行い、同年恭仁宮への遷都を方針を打ち出した。その後天平14年(742)に紫香楽宮の造営が始まり、紫香楽宮へ行幸をする。さらに天平16年(744)に今度は、難波宮へ遷都を行い、翌年の天平17年(745)に再び平城京へ遷都している。
 平城京→恭仁宮→紫香楽宮→難波宮→平城京という流れになるのかな。

 では、恭仁宮跡では、目立った遺構としては、恭仁小学校の北側にある大極殿跡と恭仁宮が廃都されたのち山城国分寺とされた後、建設された塔跡の二つである。広大な敷地の中、最初に目に着くのは、国分寺の塔跡の基壇と礎石であろう。

 

 恭仁宮は、難波宮遷都後、当時、全国的に国分寺が建設されていたことから、大極殿は、山城国分寺に施入され、金堂として再利用されることとなり、新たに七重塔が建てられた。現在、基壇の上には、15個の礎石が残っている。

 

 礎石の中心がちょぼっと浮き出ているのが、東大寺の講堂跡の礎石と似ているような気がする。

 塔跡から西にある恭仁小学校の北側に大極殿跡があり、当時の基壇と礎石が残っている。

 

 恭仁宮の大極殿は、平城宮の大極殿を移築したものであり、恭仁宮の発掘調査で得られたデータを参考に、現在復元された平城京の大極殿が建てられたという。

 

 ちなみに基壇の大きさは、東西60m、南北30m、高さ1mとなっている。発掘調査では、礎石の痕跡穴や正面の階段などが見つかっている。国分寺となった名残なのか、基壇の上に小さなお堂と石塔が建っている。

 

 大極殿跡に建っている石碑の一つは、史跡山城国分寺跡となっている。はじめ昭和32年に山城国分寺跡として史跡指定を受けたからだろうか?

 

 そして、大極殿跡の北側に内裏があったと考えられ、大極殿跡から北へ少し行った田畑の中に内裏跡をしめす説明板が置かれている。

 

 最後に恭仁宮跡の東南の隅に、小さな石碑が建っている。
 
 

 「例幣使料碑」と呼ばれる江戸時代の石碑で、江戸時代、この辺りが例幣使の派遣費用をまかなうための例幣使料とした土地の境界を示したものである。

 

 何気なく歩いていると石碑を見過ごしそうになってしまう。

 恭仁宮跡は、北側に山がそびえているが、周りは田園地帯であり、季節によっては様々な姿を見せてくれそうである。しかし、のんびりとした農村風景を眺めていると、遥かな昔、この地が政治の中心地となって、政争の地となっていたということが、なかなか想像しがたいものがある。

 なお、宮跡のすぐそばに「くにのみや学習館」があり、宮跡から出土した瓦などの遺物を展示している。

 
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 恭仁宮 第98次発掘調査現地... | トップ | 「万葉の旅」をたどる⑮ ~恭... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

史跡を歩く」カテゴリの最新記事