彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

4月16日、丹羽長秀死去

2008年04月16日 | 何の日?
天正13年(1585)4月16日、織田信長の二番家老で「織田四天王」の一人だった丹羽長秀が胃癌の為に亡くなりました。享年51歳。


織田信長に天下を取らせた「織田四天王」は通常、柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀を指します。
この中で信長の譜代の家臣は一人も居ないのですが、丹羽長秀は織田家の主筋でもあった斯波家から信長に主を変えて成功した人物だったのです。

長秀の名前がよく登場するのは稲葉山城攻めの頃からでしたが、その後も多くの合戦で活躍しているのですが、他の四天王に匹敵するような目立った武功話は世間に知られて居ないのです、ですが当時は“鬼五郎左”と賞されるくらいの猛将だったんですよ。
その代わりに丹羽長秀という武将に付くイメージは文官や官僚としてのモノでした。
このため一番家老の柴田勝家の武功と、二番家老の丹羽長秀の政治が織田家を支える事となり、この二人に憧れた木下藤吉郎が二人の姓を貰って“羽柴”という姓にしたという話まで生まれたのです(もちろん歴史的にはありえない話ですよ・・・)。

信長が妹婿の浅井長政を滅ぼしてその居城・小谷城を羽柴秀吉に与えると、浅井氏の出城の一つだった佐和山城を長秀に預けます。
信長は安土城が完成するまでこの佐和山城を近江における居城としていて、その城を預けられるくらいに長秀を信頼していたのでした。


そんな安土城築城を指揮したのも長秀だったのです。
武将・丹羽長秀のイメージは、官僚・丹羽長秀に変わり、賞される言葉も“鬼五郎左”から「何でも器用にこなし、無くてはならない存在」という意味の“米五郎左”に変わります。
織田家臣団の中で必要に応じて転身を遂げる事ができた唯一の存在でした。


もし本能寺の変が起きていなければ、天下統一後に厄介払いのために静粛されるか海外侵略に利用されるしかなかった柴田・滝川・明智・羽柴の諸将に比べれば信長の元で活躍したのでしょうが、本能寺の変が全てを狂わせてしまったのです。
この時、長秀は信長の三男・信孝と共に大坂城で四国攻めの準備中でした。
本能寺の変の情報を受け、共に大坂城に居た信長の甥(弟・信行の息子)で明智光秀の娘婿だった津田信澄を信孝と共に殺害し、中国大返しで戻ってくる秀吉軍に参加したのです。
この後の清洲会議や賤ヶ岳の戦の手柄から越前・加賀のうちから123万石を与えられて前田利家の監視役となった長秀は、いつの間にか秀吉の一家臣の立場に甘んじるしかない自分に憤りを感じたとも言われています。


そして天正13年4月16日に胃癌で亡くなったのです。
その最後は主君である織田家の遺児をないがしろにする秀吉への反発で満ちていて、一説には諫言の為に切腹し、自ら患部を引きずり出して三方に載せ、これを秀吉に届けるように遺言を残して亡くなったとも言われています。


この丹羽長秀が、何故彦根の話に登場するのかといえば、やはり佐和山城主だったという点ですよね。
佐和山城を私たちがイメージするようなお城にする基礎を築いたのは丹羽長秀だったのではないでしょうか?
織豊城郭と呼ばれる本格的な形までは作らなかったでしょうが、信長の近江拠点として恥ずかしくない物は作っていたのではないかと考えられます。

ちなみに佐和山城は主を不幸にする城なのですが、丹羽家の場合は石高を下げながらも織田四天王の中で唯一江戸期に大名として残る事ができた家なんですよ。