彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

東京2020オリンピック 聖火リレー滋賀県二日目

2021年05月28日 | イベント

滋賀県の聖火リレー2日目。


1日目は酷い雨だったため、人出は少なかったのかもしれず(それでも近江八幡市は密を感じました)、天気が落ち着いた2日目の人出は予測できませんでした。

どちらかと言えば1日目はJR沿線、2日目は近江鉄道沿線だったようでしたので時刻表を見てもあまり移動の時間もなく、今回は豊郷町と彦根市を見に行きました。


豊郷町では旧豊郷小学校近くでトーチキスポイントにしました。






見学者はあまり密にならず、スポンサーも一社だけが静かに記念品を配るだけでした。たぶん人口が少ない町なのでスポンサーが軽視したのでしょうが、だからこそ密の危機が減ったのかもしれません。


トーチキスも見れました。




ここで聖火を受けた男の子は集合時間の前にランニングをしていたやる気いっぱいの明るい子でした。


通過後、豊郷駅から近江鉄道に乗り彦根口まで移動。


のんびりキャッスルロードまで歩いていると通行止が始まりつつありました。

彦根ではキャッスルロードから彦根城内を聖火が走ります。

内濠には緊急事態に備えてダイバーを乗せた屋形船も浮かんでいました。

その地点は彦根城天守も一緒に映せるビュースポットの筈でしたが、市役所としては天守と聖火が一緒に映せる方向の観覧を禁止していてメディアや自宅前にいる人も反対側に道を渡らせていました。

たぶんスポンサー車の方向に合わせたのでしょうが、彦根城をアピールするチャンスを自ら捨てる行為です。


そして、スポンサー車が城には合わない賑やかさで通過。


記念品もいろいろ受け取りましたが、日付は2020年。



その中で、コカコーラのタオルは地域毎に作っていたみたいです。

各地用を作ったのは凄いけど、公道開催中止になった地域の物はどうなったのでしょう?



聖火ランナーも元気に通過。


彦根市でも、場所によっては密にならなかったみたいでした。


二日間の聖火リレー観覧を経て感じたことは、温度差です。

現地にいる聖火ランナー、警備関係の方々は本気でこのイベントを成功させようと努力されていました。

対して、知事はただの自己満足でしかなく、多くの議員さんたちは自粛を行った(上層部から命じられた)とのことでした。


コロナ禍の中で行われたイベントを見なかった方々は、このイベントが原因でパンデミックが起こったときにどんな経験値から対策するのでしょうか?

心配です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京2020オリンピック 聖火リレー滋賀県一日目

2021年05月27日 | イベント

東京オリンピックは誘致段階から反対意見を持っています。

それでも開催が決まり、その頃体調が悪かった僕は「東京オリンピックは観れないと思う」と嘯いていました。


体調は良くなり、なんだかんだで世間がオリンピックムードになっていることにはちょっと距離を置いてみていましたが「積極的に応援しないけど、やるなら好きにすれば」との意見を持っていたのですが、コロナ禍においての開催には反対しています。


そんな東京オリンピックの聖火リレーだから反対なのか?と言えば、そうでもなく市民レベルの思い出作りには楽しいイベントだと思っていました。

コロナ拡大までは…



2020年のオリンピックはコロナ禍で一年延期。

たった一年で解決するのか疑問に感じていましたが、延期した時よりも酷い状態になっています。

そんな中で強行された聖火リレーを応援はできません。ただ地域によっては公道開催を辞めて一定の会場を周回するものになっていました。


僕自身、聖火リレーを反対している訳ではなく公道開催で県民にコロナ拡大危機の可能性を与えるより、皇子山球場や希望ヶ丘などでの周回開催の方が安全だと思っていました。


でも、今の三日月滋賀県知事は民主党派閥だった筈が自民党寄りの政策を示す人物であり県民の健康を度外視しても公道で聖火リレーを行う選択をしたのです。



そして1日目(5/27)、朝から土砂降りの雨。

それでも中止にはならず、警備の警察官やボランティアの皆さんは冷たい雨に打たれながらコースに立たれていました。


僕が向かったのは琵琶湖大橋。



自転車で聖火リレーに参加されるという情報と、琵琶湖の上を聖火が通過するのは面白いかも?という理由。

琵琶湖大橋のピーク部分にはさすがに人も少なくて密の心配はありませんでした。


悪名高いスポンサーの車は静かに過ぎて行き。







自転車での聖火リレーはあっという間に過ぎて行きました。


それならばと、近江八幡市に移動。

日牟礼神社からスタートするランナーを鳥居の下で待ちました。




観覧者は密になりつつありました。


ここはスポンサー先導車より後方だったために何もわかりませんでしたが、日牟礼神社のランナーを見送ったあとでゴール付近の市役所に移動すると大音量でスポンサー車が通り記念品を配って密を故意に作っていました。





それでも雨が降ったり止んだりでまだ人は少なかったのかな?


近江八幡市最後のランナーは笑顔でゴールしてくれました。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彦根城総構え400年(7)

2021年05月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2022年は彦根城築城第二期工事が終了して400年の記念年。彦根城総構え400年であることから昨年より総構えに関わる話を記している。あるとき「昔の城下は職業ごとに集まった町ができていたと聞きますが、同じ職業が集まると不都合の方が多いのではないですか?」との質問を受けた。

 歴史的に当たり前と思っていたことが、現在の常識から外れていることもある。と、私が思い知らされた瞬間であり城下町に関わる大切な事項であるためこの機会に紹介してみたい。

 城下町において同じ職業の人々が集まり、彦根城下でも「鍛冶屋町」「桶町」「左官町」「八尾屋町」「魚屋町」などを見ることができる。この中で「鍛冶屋町」「左官町」などの職人が住まう地域は協力して大きな仕事を行うときに便利であるとも考えられるが、商人たちはどうであろうか? 例えば「魚屋町」と聞いて現在の感覚を重ねるならば何軒もの魚屋が店を並べてそれぞれに客を迎えるイメージではないだろうか。こうなると立地・値段・鮮度・珍しさなどを売りにして店同士で生き残りを賭けた激しい争いが起こすことになると想像してしまう。魚屋町は彦根城下に「上魚屋町」と「下魚屋町」があり、現在の彦根市本町二丁目(上魚屋町)と城町一丁目(下魚屋町)の辺りだった。この範囲で40軒近い魚屋があったとされているのだ。普通に考えるならばその40軒が城下町の方々に散った方が各店で繁盛すると思われる。なぜ一か所に集まっていたのだろうか? この答えには私たちの常識を壊す必要がある、それは江戸時代初期に店舗という考え方がなかったということである。

 「店」はもともと「見世」が語源であり、室町時代に大きく発展した市で筵などに商品を並べて見せて販売する形だった。市は八の付く日(八日市)四の付く日(四日市)など一か月に数日だけ開かれるだけであり商人は行商が基本的なスタイルだったのである。特定の場所に店舗を構えて日常的に商品の販売を行えるようになるのは18世紀初頭の元禄文化まで待たねばならない。それまでは商売をする人々が必要な物を持って声をかけながら歩き回っている。朝食の時刻に合わせるように納豆売りや魚売りが長屋近くを通り、夜になると落語でよく登場するような屋台のそばやうどん、江戸では日中に寿司屋や天ぷら屋も出ていたが彦根城下ではどんな屋台が出ていたのかいずれは調べてみたい課題でもある。

 魚屋町で店を構えて来客を待った訳ではなく、各地から仕入れた魚が行商によって城下町に広がって行くのである。彦根藩では魚市が行えるのは上下の魚屋町に限られていた。現在の感覚で考えるならば魚屋町という卸売市場に魚が集まりキッチンカーで調理販売されていたということになるのかもしれない。これが業種ごとに存在したのである。


旧魚屋町への案内石柱(彦根市本町二丁目)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彦根城総構え400年(2)

2021年05月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 大河ドラマには大きな功罪がある。通常では注目されない人物をも描くことで世の中に周知される功。その反面、ドラマに登場しなかったために重要性が失われる誤解を招く罪。近年では『麒麟がくる』が後者であり、『真田丸』は前者だった。
 平成29年(2017)の大河ドラマ『おんな城主直虎』も前者に属するドラマであり多くの人物が世の中で知られる存在となる。その代表は小野政次だったが、中野直之と奥山六左衛門も知名度が急上昇した。
 ドラマ以前に奥山六左衛門を知っていたのは熱心な彦根藩研究家か谷崎潤一郎作品の愛読者くらいであったと考えられるため、拙著『井伊家千年紀』の加筆の様になるが奥山家について掘り下げてみたい。
 奥山家は、井伊家から分かれた家であり、井伊家にとって重要な家臣の一家であったと考えられる。ただし彦根藩主となる井伊谷井伊家が常に遠江に広がる井伊領をまとめ続けていたと断定することはできないため、もしかすると奥山家の方が支配権を握っていた可能性も否定はできない。過小評価するとしても井伊谷より北西部の広大な領域を治めていた領主であり井伊谷井伊家も一目置いていた。井伊直虎の父・直盛が当主だった頃、奥山姓の家臣が数名記録されている。特に朝利(親秀とも)と孫一郎の名が知られる。二人の関係は分かっていないが一族であることは想像できる。朝利は今川義元から命を狙われていた井伊直親(亀乃丞)が信濃から帰国する際に娘を娶らせて直親の後ろ盾になった人物である。その他にも小野玄蕃(小野政次の弟説有)・中野直之・鈴木重時(井伊谷三人衆の一人)や後に彦根藩重臣となる西郷正友などに朝利の娘たちが嫁いでいて、朝利の妹は直虎の伯父・新野左馬助の正室でもある。このことからも奥山家の井伊家家中における閨閥の深さや地位の高さがうかがえる。
 孫一郎は桶狭間の戦いで直盛が討たれたときに直盛の遺言を井伊家に報じたとされているがその他の記録はなく、私自身は井伊直親の正当性を主張するための架空の人物ではないかと考えている。桶狭間での奥山一族の被害は大きく、奥山彦一朗・六郎次郎・彦五郎の名を見ることができる。このときに朝利の息子である朝宗も生まれたばかりの男児を残して討死。奥山家でも井伊家同様に家を支える当主を失っていたのだ。
 桶狭間の戦いの約半年後、朝利は小野政次に殺される。玄蕃(桶狭間で討死)の正室を奥山家から迎えているため、小野家にとっても朝利は大きな後ろ盾にもなる人物だった可能性もあるが、井伊家の中で大きすぎる交友関係が今川義元を失ったばかりの今川氏には脅威に見えたのかもしれない。朝利の死によって奥山家に残された当主はまだ生まれたばかりであり確実に力を失速させることとなる。そして実父の死から約二か月後に朝利の娘は井伊直親の嫡男・虎松を生んだのだった。

奥山氏居館跡(浜松市北区引佐町奥山)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『歴史資料でたどる大津事件』

2021年05月21日 | 博物館展示

令和3年(2021)5月11日に事件発生から130年を迎えた大津事件。

この資料が6月6日まで展示されているとのことでしたので、大津市歴史博物館に行ってきました。


ここは、以前からニンテンドーDSを使った常設展示ガイドがあるので面白いのですが、今回DSを持って行くのを忘れてしまいました(大津事件は特別展なのでDSガイドはないです)。ちょっと残念、また行かねば。


さて、大津事件については以前に書いているので、そちらを参照してもらうとして、今回は展示についてです。

展示用に漫画も用意さていて、事件の概要がわかるようになっています。

主に、加害者である津田三蔵の資料が多いのは、やはり事件として司法が関わっていることの証拠ですし、130年といえば歴史の話になりますが、やはり明治は近代化された政治だったのだと改めて感じました。


展示では、

津田三蔵の志願書


三蔵の履歴書


や、事件のときに三蔵がニコライに斬りかかったサーベル




そして、ニコライの血を拭ったハンカチ



手当のときにニコライが座った座布団



サーベルを落とし、取り押さえられた三蔵の傷の報告書(サーベルの写真の矢印にある刃毀れは三蔵が斬られてついた物)



三蔵を取り押さえ時の人となった車夫のブロマイド



事件を聞いた旧彦根藩士青木平輔の短冊



などをじっくり観れます。

漫画の最後に、治療のために事件後にニコライが休息した店がロシア人の聖地になったとの話があり、今も昔も文化を問わずに聖地巡礼があったのは血生臭い事件のなかでちょっとクスッと笑うオチでした。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

垂井頓宮

2021年05月14日 | 史跡

文和2年(1353)、京都に足利直冬と南朝の軍勢が侵攻し、北朝の御光厳天皇は足利義詮に伴われて美濃へと逃れます。


足利尊氏は、弟直義との戦いのために鎌倉に出陣し直義の死後も鎌倉に留まったままだったのです。

その隙を突かれる形になったため、尊氏も慌てて西に進むことになりました。


美濃に入った後光厳天皇は、東山道の垂井にあった長屋氏屋敷を仮御所にしました。









その後、すぐに揖斐川沿いを北上し小島頓宮に移動します。


その後、後光厳天皇は垂井に戻り、長屋氏屋敷の垂井頓宮で尊氏と合流。

死病に蝕まれつつあった尊氏の養生ののちに京都へと進軍したのです。

大河ドラマ『太平記』で足利尊氏最後の戦と紹介されていた戦いでもありました。


そんな垂井頓宮は、後の垂井城とほぼ同じ場所とも言われています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんじゃもんじゃと杜若

2021年05月07日 | 史跡

安土の沙沙貴神社になんじゃもんじゃを観に行きました。


GWの頃に盛りを迎える木で、本来は対馬と木曽川沿いでしか見れないそうなのですが、なぜか沙沙貴神社でも楽しめます。


で、観てきました。





















この時期だけの御朱印もあるのですが、昨年とはデザインが違うのですね。

(2021年)



(2020年)まさか同じ日に寄ってたとは…





御朱印を受ける時、杜若のことを教えて貰いました。


福知山藩朽木氏所縁の『鷲の尾』とのこと、こちらも綺麗でした。



限定御朱印もありました。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする