彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『歴史学習を現代に活かす!』講演聴講記録

2010年12月26日 | 講演
歴史手習塾年末スペシャルとして『歴史学習を現代に活かす!』と題された講演が行われました。

講師は
静岡大学名誉教授 小和田哲男 先生
東京学芸大学教授 大石学 先生
NHKドラマ番組部チーフ・プロデューサー 屋敷陽太郎 氏
でした。

大河ドラマを製作に携わられる特に重要な方々の中の三名と言うことですね。
たぶん、これだけの方々を一堂に会して講演があるのは珍しいのではないでしょうか?


まずはそれぞれの先生が短い講演をされて、

大石先生は、坂本龍馬のイメージ、龍馬の魅力などについて話されました。
龍馬は肉食ではなく140通もの手紙が現存している(龍馬が幕府に追われる身だった事を考えるとその10倍20倍は手紙を書いた可能性もある)、草食男子として描れた『龍馬伝』
土佐人・日本人・国際人として見識を広げていった生き方なども話されました。

小和田先生は、歴史は通説を疑うことが入口と話されました。
歴史は現地を歩いて目で確かめる物であり、時代考証は絵になりそうも無い部分を絵にするものだと言われておられました。

屋敷さんは、大河ドラマが地域に与える影響を話され、篤姫放送後の鹿児島での話や、篤姫の放送によって幾島らのドラマに登場した人々の史料が表に出てくることも話されました。


また三人の鼎談では、大河ドラマの構想や配役が決まるまでの裏話や、時代考証が歴史の新設を多くの方に知ってもらうチャンスになっているとの事でした。
大石先生は「以前は野党だった時代考証が今は与党の中にいる」と言われ、「大河ドラマにおける時代考証はだんだん厳しくなっている」と屋敷さんは仰っておられました。

2011年の大河ドラマ『江』の話も含みながら、番組部チーフ・プロデューサーと時代考証の先生が大河の話をされる貴重な講演。なかなかないチャンスだっただけに聴講できたのはいい勉強になりました。
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越塚御門古墳、現地見学

2010年12月13日 | 史跡
12月11日に明日香に行きました。
目的は新しく発見された「越塚御門古墳」の現地見学です。

新聞で『大田皇女の墓か?』と発表されていた新発見の古墳でした。
現地見学が始まるとされていた朝10時には既に長蛇の列ができていました。

しばらく並ぶと、やっと見学できる場所に行けました。


今回発見された越塚御門古墳に埋葬されているのは大田皇女という人物だそうです。その決め手は、斉明天皇と間人皇女の合葬された古墳が見つかっていて、この二人と一緒に大田皇女を埋葬した記録が『日本書紀』に記載されていたからなのだとか。
ですから、斉明天皇陵ではないかと言われている古墳も近くにあります。




ここが発見された時の現地見学会にも行きたかったのですが、残念ながらその日は行けなかったので、近くにおられた関係者の方に質問をしてみました。

管理人(以下、管)「斉明天皇と間人皇女と大田皇女は同じ時期に埋葬されたのですか」
関係者さん(以下、関) 「ほぼ同じ時期と思っていいと思います」
管「亡くなられたのも同じ時期ですか」
関「斉明天皇の方は早くて、建皇子という孫と一緒に、別の所に葬られていましたが、斉明天皇だけ改葬して間人皇女とここに合葬され、その次に亡くなった大田皇女がここに葬られました」
管「改葬って、当時は火葬がないのですが、どうやって行うのですか?」
関「夾紵棺に入っていますので、あれは腐らず臭いも漏れませんので比較的動きやすいです。ただ石棺になりますとわからないです」
管「では、こちらの方に斉明天皇は移されたと?」
関「最終的にここではないかとも考えられています」
管「では、元の場所はどうなるのですか? 他の天皇でもここにあったモノがこっちに移った時に空っぽになった墓はどうなりますか?」
関「整理される場合もありますが、基本的には荒墓となって放置される場合があります」
管「例えば、斉明天皇陵は高取にあるのではないか、こっちではないかと揉めていますが、向こうに一度移して、こっちにまた埋葬したなどで伝承を残しているとかはありますか」
関「あの事情は、地名を基に決めているので、そのような事はないです」

答えにくい質問もしましたが、丁寧に教えて下さりありがたかったです。

そしていよいよ越塚御門古墳へ…





古墳自体は盗掘に遭っていて石棺の蓋は壊され、副葬品も遺体も無かったそうですが、石棺に続く見事に敷き詰められている石や、石棺自身の姿にも建造者の想いが見える気がしました。
この古墳を建造したのは、大田皇女の父である天智天皇だったそうです。
弟の大海人皇子に二人の娘を嫁がせた天智天皇が、大津に遷都する前に亡くなった娘の為にこの古墳を作り、斉明天皇・間人皇女も一緒にここに葬ることで一族の女性に囲まれて寂しくなく眠れるという親心が感じられます。

“大田皇女の墓から斉明天皇陵を見るとこれほど近い”

大海人皇子との間に生まれた大津皇子が、謀反の罪で殺害される悲劇的な最期を考えると、どうしても不幸が付き纏うイメージが残る大田皇女ですが、せめて父親の愛情が感じられる墓を見れたのはホッとしました。

先ほども書きました通り、この古墳を作った後に、天智天皇は大津への遷都を行います。娘や母を置いて行く天智天皇の胸中はいかほどの物だったのでしょうか?
そこまでして遷都した大津京での生活に、ここはどのように関わってくるのでしょうか?
滋賀県民の歴史から見る越塚御門古墳は、そんな風にも見てみたくなりました。
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150年前:ヒュースケン暗殺(12月5日)

2010年12月05日 | 何の日?
萬延元年(1860)12月5日、アメリカ公使館の通訳官ヘンリー・ヒュースケンが芝薪河岸中の橋付近で薩摩藩士の伊牟田尚平らに襲われ翌日亡くなりました。享年28歳。

ヒュースケンはアムステルダムで生まれたオランダ人で、両親と共にアメリカに帰化した人物でした。オランダ語や英語は勿論の事フランス語やドイツ語にも優れていて、アメリカ総領事としてタウンゼント・ハリスが来日する際に通訳として同行したのです。

当時の通訳は、日本語→オランダ語→英語という流れで行われているものだと思っていたハリスの抜擢でした。
しかし、いざ日本に来てみると、ヒュースケンのオランダ語は日本人との会話にはあまり適さなかったのです。

その理由は、日本人が話すオランダ語は鎖国当時のオランダ語で、ヒュースケンのオランダ語はその当時最新の言葉を話していたからでした。同じオランダ語でも220年近い誤差があったのです。今の日本人が江戸中期から後期にかけての言葉を聞いてすぐに理解できない可能性が高いのと同じ状況だったのです。
この為、日本語→古いオランダ語→オランダ語→英語というワンステップ余計な物が加わり、220年の差を埋めるためにヒュースケンの猛勉強が始まったのですが、その分だけ日本語の習得が遅れてしまいました。
この間に、日本人の方が英語を理解するようになり、日米間の通訳はオランダ語抜きで行うことができるようになったのです。

それでも、開国初期段階から日本に滞在し、日本人の女性ともそれなりに遊んでいたヒュースケンは、日本語を片言でも操るようになっていて安政6年(1859)5月から江戸麻布のアメリカ公使館で通訳官を務めていました。
オランダ語以外にも多くの言葉が話せたので、諸外国の代表からも引く手数多の人望を集めていたのです。

そんな人望がヒュースケンの命を奪うこととなりました。
今の東京都港区三田に赤羽(北区とは別)という地名があり、そこの外国人接遇所にプロシア使節に呼ばれて出掛けたヒュースケンは、夜に馬に乗って帰宅の途に就きました。その帰路で伊牟田ら7名の日本人武士に襲われたのです。馬上にいたヒュースケンの腹に刀が深く突き刺されました。
ヒュースケンの傷は癒えずに翌日に絶命するのです。

この事件に怒った諸外国の代表は幕府に抗議し、16日にイギリス・フランス・オランダ・プロシアの代表が江戸から横浜に大退去する外交上幕府の面目の潰れる事件が起こる事となりました。


この後、ヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を幕府が支払ったといわれています。
ここで謎なのは、この1万ドルの姿です。
当時、日本でのレートでは1両=4ドルでした。しかしアメリカでは1両=12ドルで取引され、この三倍の利鞘を稼ぐために外国人は来日し、日本から金が流出して不景気を生んでしました。
もし日本レートで1万ドルを支払うなら2500両、アメリカレートなら約834両になります。日本の金で支払われてヒュースケンの母には1万ドル銀貨で渡されたなら、この事件で2万ドルを不正に着服した人物がいたかもしれないのです。
この支払を含め、幕府は何度か賠償金のようなものを支払っていますが、その帳簿はどうなっているのでしょうか?


余談ですが
この事件の後で犯人の伊牟田尚平は、清河八郎に助けを求めその屋敷に逃げ込みました。
これがきっかけで清河は幕府に目を付けられて逃げるのですが、そんな男がすぐに将軍警護の浪士隊を募る策を幕府に献策するあたり、幕末の不思議な場面でもありますね。
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安土イルミネーション点灯式

2010年12月04日 | イベント
今年で11回目を迎える(らしい…)安土駅前のイルミネーション点灯式を見学に行きました。

夕方、少し陽が残っている頃に安土駅前に到着。
らんまる君のお出迎えを受けました。

安土駅前はまだ点灯されていませんでしたが準備が着々と進み、駅に近くではイベントも行われていました。

信長の像も夕日をバックに映えています。


点灯式は17時から行われ、市長をはじめとする4名の方のあいさつがあり、17時25分ごろに点灯のスイッチが入りました。


こうして安土駅前はクリスマスカラーに染まりました。

信長公も輝いています。

安土駅の裏でもイルミネーションが点灯しています。

こうして夜が輝く季節になると一年間の総決算が始まった事をますます認識しちゃいますね。
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12月2日、太陰暦最後の日

2010年12月02日 | 何の日?
明治5年(1872)12月2日、翌日が太陽暦(グレゴリオ暦)1873年1月1日になり。この日から日本でも太陽暦を採用する事が決定していた為に、暦を28日早めて大晦日となりました。

暦変更自体が23日前の11月9日に急に発表されたものでしたから、日本国内は大いに混乱した様子がうかがえます。
でもこれは首都圏や大都市の話で、地方では明治6年になった後で通知が来たところもあったそうです。


特に問題が起こったのは金銭的な事でした。
まずは、当時は大晦日にツケを集金する風習があり、大晦日を乗り切るとしばらく集金から逃れられた為に、回収に回る人々の準備が遅れた事。
それに月払いの給料の事も問題となりました。たった二日しかないのに1ヶ月分の給金を支払う必要があるのか?大きな問題となったのです。
元々太陰暦から太陽暦になった理由は、列強に合わせる意味もありますが、太陰暦では閏月があると年に13ヶ月になる年もあり、月給制(明治4年より役人は月給制・それ以前は年棒)の役人では場合によって1ヶ月分多く給料を支給しなければならなかった事。日本では1と6の付く日を休日にしていたので、西洋の1週間7日方式になれば休日も減らす事ができる事。といった利点があったのです。

ちなみに明治6年を太陽暦で始めたのは明治5年12月と明治6年閏6月の2ヶ月分の月給を払わずに済むからだったといわれています。
そんなお金にケチな政府の考え方で暦が変わりますから、2日だけで1ヶ月分の給料が出る方向に向かうはずもなく、大抵の場合はこの2日をただ働きとするか、明治6年1月分の給料に少しだけ色を付けて支給する形式になったようです。


何がともあれ、この日で太陰暦は旧暦となってしまうのです。


暦の会会長の岡田芳朗氏が、NHKの番組で紹介した話によると。

改暦後七年もたった明治十三年の暮れの『江湖新報』には、五畿内の某県下(恐らく滋賀県)では、改暦後二、三年は新暦の一月一日を正月としたが、其後は年々旧暦に服し、一月に日の丸を懸けるのは戸町役場と学校ぐらいで、年賀の式を行う者はいないありさまとなった。県庁ではこれを憂いて、郡役所に内命し、今年から一月を正月とすべしとお触れを出すとともに、二十八日に至って正月に食べる雑煮を搗くように命じ、実際に餅搗きをしたかどうか郡の役人に村々を巡回して検査させた、という記事が掲載されています。(『NHK知るを楽しむ 歴史に好奇心』テキスト2008年1月分より)

とのことです。滋賀県だけではなく、地方ではしばらく旧暦を重んじる風潮が残っていたのではないでしょうか?
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