慶応3年(1867)4月24日、江戸幕府が外国総奉行を新たに設置しました。
安政5年(1858)6月19日に日米修好通商条約が締結されると、幕府と外国との交渉事が出始めたために、幕府は外国奉行を新たに設置して、諸外国との交渉にあたらせていました。
当初は5人だった奉行なのですが、諸外国との問題が多く発生して、そのたびに外国奉行の人数を増やしていたので、外国奉行をまとめるための役職が必要となったのです。
それが外国総奉行でした。
しかし、外国奉行を纏めるためだけに仕事をするわけにもいかず、若年寄などとの兼任になっていたのでした。
そんな外国総奉行ですが、設置から半年後の10月14日に大政奉還が行われて、幕府が崩壊してしまったために、すぐに廃止されることになり、実質そのような仕事だったのか?実際にどんなことを行ったのかは、ほとんど世に知られていないのです。
唯一といっていいほどの歴史に残る事例が、大政奉還後の12月に外国総奉行に就任した堀直虎という人物が翌年1月17日に江戸城内で突然自害して果てたことです。
安政5年(1858)6月19日に日米修好通商条約が締結されると、幕府と外国との交渉事が出始めたために、幕府は外国奉行を新たに設置して、諸外国との交渉にあたらせていました。
当初は5人だった奉行なのですが、諸外国との問題が多く発生して、そのたびに外国奉行の人数を増やしていたので、外国奉行をまとめるための役職が必要となったのです。
それが外国総奉行でした。
しかし、外国奉行を纏めるためだけに仕事をするわけにもいかず、若年寄などとの兼任になっていたのでした。
そんな外国総奉行ですが、設置から半年後の10月14日に大政奉還が行われて、幕府が崩壊してしまったために、すぐに廃止されることになり、実質そのような仕事だったのか?実際にどんなことを行ったのかは、ほとんど世に知られていないのです。
唯一といっていいほどの歴史に残る事例が、大政奉還後の12月に外国総奉行に就任した堀直虎という人物が翌年1月17日に江戸城内で突然自害して果てたことです。