彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『浮世絵と芸能』講演聴講報告

2011年01月29日 | 講演
ひこね市民大学講座 歴史手習塾
セミナー5『浮世絵から紐解く江戸文化 世界に誇る浮世絵アートを学ぶ!』
3回目の講演として「浮世絵と文学」と題されたお話がありました。

講師は立命館大学教授で立命館大学アート・リサーチセンター長の赤間亮先生。


今回は、最初に浮世絵と文学との関わりでした。浮世絵の関わる文学といえば江戸時代の版本となりますが、最初は活字だけだった本に挿し絵が入り、やがて挿し絵がメインでその周囲に字が書かれる今の漫画のような物も流行るようになったそうです。面白いのはこういった絵がメインの文学は最近まで研究の対象にならなかったことでしょうか。
漫画に偏見があるのは、今の出版物でも江戸時代の出版物でも変わらないようですね。

また天正期より前の人物を描いた武者絵も流行したそうで、兵庫夕照の平清盛は悪役だけど人気があったとか、常磐御前には三人の子どもが付くのが構図だったなどのアイコンが画材には付いていたそうです。
そんな中から『平家物語』『源氏物語』などの絵を鑑賞しながら学ぶ形となりました。

そして最後に質疑応答
(管理人)
今回は、平清盛の扇や、女三の宮は猫がいる御簾がある、などの条件というお話がありましたが、その条件とは、条件が先なのかそれとも描いている間に条件が加わっていくのか、どちらの方が画材としてよくあるのでしょうか?
(赤間氏)
基本的には条件が先にあり描いている中で段々そぎ落とされてきます。ところがそのアイコンはどうしても残り続けます。それがあるから見る側は「これだ」と、読み取ることができるわけです。絵師と受容者との間の無意識の無意識のキャッチボールがあって自然とできあがってきますが、最初にないものが加わることは意外とありません。
(管理人)
では、その条件はどのように広まって行きますか?
(赤間氏)
浮世絵になると大量に生産されるので、出て行くと共通の知識として「前もこうだった、今回もこうだ」と読み取る側が自然と覚えていく物ですが、それ以前は文学の場合は一般市民が楽しめる物ではなかったので、テキストがある物でも文字を読むのではなく読んで貰う形でしたから、その段階では人々が頭の中でイメージを構築していました。そこに絵が入り込むことによって違う刺激を受けます。ですので版本の時代とそれ以前では様相が違うと思います。
肉筆の場合は数が少ないですから、一生それを見ることになります。そすうるとアイコンのような考え方、蓄え積み重ねられていってできる世界は江戸時代にならないと条件がととのはないと思います。
(質問者)
浮世絵は庶民の文化といわれますが、どの程度市民に広がっていたのでしょうか? 彦根の城下で浸透していたのか? 長屋や農民でも見ることができたのか? など知りたいと思います。
(赤間氏)
浮世絵は16文や18文といわれていて安いのです。今の価値でいうと500円くらいです。そうすると子どものお小遣いでも買える可能性があります。武者絵などは大人が買うよりも子どもが買うレベルだと思います。
今は浮世絵はどこにも貼られていませんが、当時は家の至る所に貼られていた可能性もありますし、衝立には普通に貼られていました。柱隠しも家の中に貼るのが目的ですし、掛け物もそうです。掛け物は金持ちの所行だとおっしゃるかもしれませんが、なぜ版画で出しているのかといえば、誰でも買えるレベルの値段で買える物をだして、どこでも使えるということです。
江戸時代の挿絵の中で、家の中に浮世絵が貼られているのはたくさん描かれていますので、貼られていたのは間違いありません。それと同時に貼らない絵は、額に入れて飾る物ではなく手に持って見る物ですので、最後は何枚か溜まると製本屋で一冊のアルバムにしてまた楽しんだりする物だっただろうと思います。
見ているのは、金持ちや武士や殿様ではなく、間違いなく庶民です。お土産としても安価で持ち運びやすく、幕末から明治にかけて東北から北陸では浮世絵を絵紙といって行商の人が江戸のお土産として持ち帰り、各家庭でそれを溜めて、誕生日や節句の催し物の時には家を綺麗にするためにそれらを貼ってお祝い事をする風習もありましたから、大量に日本中に流れていました。そのために初期の頃の発行部数よりも大判錦絵となった1800年代以降は何百倍にもなりましたので、安価に出せるようになりました。ですからありすぎて屑みたいに出回っていました、ですから海外に出回って、今は日本では少なくなってしまったのです。
(質問者)
浮世絵という言葉は当時からあったのでしょうか?
(赤間氏)
いつから出ていたのでしょうね、真剣に調べたことはありませんでした。ただ初期の頃の絵師の落款には“大和絵師”とされていて浮世絵は使われていませんでした。文献的にどこから浮世絵が使われるかは私は調べていませんでしたが、錦絵という言葉は明和2年に出た春信のシリーズ物の包み紙には錦絵と出てきますし、紅絵・丹絵などの言葉が選考してでています。
(質問者)
流通で一儲けした人はあったと思うのですが、全国では店で売られることがあったりとか絵画展のようなことがあったのか、浮世絵師でお金持ちになった人はいたのでしょうか?
(赤間氏)
絵師さんたちは金持ちになろうとしなかったのでしょうね。一枚16文で絵師も版元も彫り師。刷り師もいて紙代も高いので、一枚で幾らの利益があるかと考えると、極限まで利益を下げていたので大きな利益にはならないはずでした。唯一お金持ちになったのは国貞でした。江戸で大きな地震が起こったときに、高井戸にあった国貞の豪邸だけが崩れずに残り、そこが両国の端から見えたといわれています。ただそれよりも売れたと思われる国芳にはそのような話が残っていません。国芳はお金が入るとすぐに吉原で全部使っていたといわれていて、それが次の創作の活力になったと思います。
絵師はそのような感じですし、刷り師・彫り師さんは職人さんですのでその日その日の生活です。プロデューサーに関しては、一番有名なのは蔦屋重三郎です。版元はほとんどはプロデューサーですが、会社のような形ではなく版元のおじさんがいろんな絵師と関係しながらいいのを引っ張り出す編集者の役割をしていますので一代です。代々繋がることは難しく、流行物ですので才能のある代表的な版元はどんどん変わります。天保の改革のあとは、規制が緩くなったので団扇絵の版元が一気にプロデュースし始めます。
売られていた場所は、小売店のような物があります、絵双紙屋という今でいう駄菓子屋のような雰囲気です。大きな版元は自分のところで大々的に売りますが、絵双紙屋は狭い間口の奥に積み上げて、店頭に洗濯バサミのような物で売り出し中の作品を、上からぶら下げて並べていたのです。地方がどうなっていたのかはわかりませんが各地方に出店が遭ったかもしれませんし、江戸のお土産として参勤交代できた武士が大量に持ち帰ったかもしれませんし、江戸店が支店の場合はその番頭さんが江戸から持って帰り広がったと思います。


今回は管理人以外にも多くの質問が出て、聞き応えがありましたよ。
赤間先生は、好きなことを楽しく話される先生でした。余談の中にも学ぶべきことが多くあったのが印象的でした。
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『浮世絵と芸能』講演聴講報告

2011年01月22日 | 講演
ひこね市民大学講座 歴史手習塾
セミナー5『浮世絵から紐解く江戸文化 世界に誇る浮世絵アートを学ぶ!』
2回目の講演として「浮世絵と芸能」と題されたお話がありました。

講師は立命館大学教授で立命館大学アート・リサーチセンター長の赤間亮先生。


今回は、最初に浮世絵に歌舞伎がどのように描かれているのかのお話があり、最初は屏風や役者絵として描かれた物の中にメインではない形で舞台が描かれたり、常磐津の演奏の絵がメインでその中に一緒に出演していたために人形浄瑠璃の様子がわかる浮世絵が描かれたりしていたそうです。
それがやがて、舞台全体を描く物や、舞台の裏側、出演者のプライベートなどを描く物もでてきたり、一枚で物語の重要な場面を一度に描く方法もでてきたりしたそうです。
また、絵で描かれた物が歌舞伎になるという形もあったそうです。

後半は『仮名手本忠臣蔵』や『菅原伝授手習鑑』の浮世絵を見ながら物語をしる話となり、場面によっては歌舞伎の映像と比較しながら浮世絵のパターンを見るようなこともありました。


管理人のイメージでは、浮世絵は映画のパンフレットに似てるようにも感じました。

そして《質疑応答》
(管理人)
『仮名手本忠臣蔵』五段目、中村仲蔵のお話の時、私が知っている限りでは、仲蔵は急に勝手な演出をして、蓑か何かを濡らして水飛沫を散らしながら走ってきたような話を聞いたことがあるのですが、そのように舞台の途中で急に演出が変わったときに、話題になったりすれば、その時点で新しい役者絵ができあがったりはするのでしょうか?
(赤間氏)
中村仲蔵が新しい演出をしたときは、まだ興行ごとに新しい浮世絵がでる段階ではありませんでした。新演出がでますと予想が付きませんので、そのときに新しい浮世絵がでることはありませんでした。その次から新しく加えた演出で行うとわかったときに浮世絵に描けます。ですから、本当にその演出がされたときよりも絵としての記録は少し遅れます。
絵よりも文字としての記録の方が正確に残る方が多いです。文化文政以降の歌川派の時代になると新しい情報の方が売れますので、情報収集力のある絵師が勝ちます。そしてわからないことも描く時代になりますので、絵師が描くのが先か演出されたのが先かを判断するのは難しくなりますし、新演出があった興行から絵が残っている場合もあります。

また、天保の改革以降は改印という、その絵をだしていいのかを検査しいて判子が押されるようになるのですが、そこには干支と月が付くようになりますので、月が記された以降は、その絵が舞台の前に作られたのか、舞台を見てから作られたのかがわかるようになります。その辺りで新演出ができたかどうかがわかることもあります。

役者さんとしては、新演出のサプライズでお客さんをびっくりさせたいわけですから、自分で新しい演出を考えた場合には隠します。また衣装も主役級の場合は自分で作りますのでここから情報が漏れることはないので、サプライズを起こすこともできます。


今度は1月29日に『浮世絵と文学』のお話があります。
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『浮世絵の歴史と名品について』講演聴講報告

2011年01月16日 | 講演
1月15日に、『ひこね市民大学講座 歴史手習塾』
セミナー5「浮世絵から紐解く江戸文化 世界に誇る浮世絵アートを学ぶ!」
第1回目の講座として「浮世絵の歴史と名品について」が開かれました。

講師は、立命館大学教授で立命館大学アート・リサーチセンター長 赤間 亮 先生


浮世絵が、日本ではお高いイメージがありますが、海外では今でも浮世絵のビジネスで生計を立てる方がおられるくらいに身近な物なのだそうです。
西洋画と浮世絵の大きな違いの一つに、「西洋画は日常の風景を描くが、浮世絵は名品・名物・名所という特徴がある物(名勝)を描いている」とのことでした。確かにその通りですね。

また、ヨーロッパで『北斎漫画』が見つかったのは、和本をバラバラにして包み紙にしていた物を、しわを伸ばして製本したイメージですが、実際には本がそのまま荷物の隙間を埋める押さえに使われていたことや、当時の浮世絵は十六文(蕎麦一杯の値段程度)で買えるほどメジャーな物だった事。
ヨーロッパや北米で浮世絵が流行り、韓国や中国では流行らなかったイメージがありますが、実は中国にもコレクターがいたことなどが話されました。

作品の写真を見ながら、菱川師宣・鳥居清信・鈴木春信・写楽・歌川豊国・葛飾北斎などの特徴や見方の一端が垣間見え、簡単ながら浮世絵の歴史を眺めて行ける講義でした。

浮世絵は、明治の西洋化や写真の登場で先細りになってしまった歴史があります。また幕末は政治史が面白い為に浮世絵は注目されませんが、幕末から明治にかけて色んなジャンルに広がった浮世絵にも面白さがあるとの事でした。



そして恒例の質疑応答
(管理人)
 明治時代辺りになると絵葉書に写真のも物と絵の物が出てくると思います。お話を伺っているとあの辺りが浮世絵から写真に変わっていく転換期辺りだと思うのですが、写真の比率が大きくなっていくのはどれくらいの時期ですか?
(赤間氏)
 なかなか難しいですが、比較的一気に変わって行きます。面白いのは、明治には九代目市川團十郎・五代目尾上菊五郎ともう一人の名優(“團菊左”の市川左團次か?)が、明治36年頃に亡くなります。そうすると描いて絵になる役者がなくなります。これくらいまでが役者絵が残っている時代で、それ以降は消えて行きます。消えて行く頃に舞台写真が多くなります。
浮世絵は、需要はあったのですが描く人がいなくなり、浮世絵のような豪華な物ではなく、気軽に手に入る絵葉書ということになりますので、明治44年に帝国劇場ができて時代が変わった雰囲気ができて切り換ります。
ただ、浮世絵は役者絵だけではありませんので、その辺りはもう少し早い時期から始っているかもしれません。


次回は1月22日『浮世絵と芸能』の講座が開かれます。
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浅井・江のドラマ館オープニングセレモニー

2011年01月15日 | イベント
1月15日より、長浜の『江~姫たちの戦国~』関連の展示が始まります。
そのメインとなる3会場でオープニングセレモニーが行われましたが、その中でも一番早い時間に行われた浅井ふれあいの里での「浅井・江のドラマ館オープニングセレモニー」を見てきました。

少し雪が降る中で、来場者はセレモニーが始まるのを待っていました。
まずはYOSAKOIの特別演舞が行われました。

最初に登場したのはゆるキャラ“ながまちゃくん”


“おいちごちゃん”


そして、準備されたステージの上に、長浜市長・滋賀県知事・NHK会長・時任三郎さんが登られます。

やはり一番の注目は、浅井長政を演じられた時任三郎さんですね。

管理人は、早々と会場に入り、時任さんのほぼ目の前の場所を陣取っていたので、結構いい感じで見学できました。

浅井家の家紋をバックにするとまた絵になります。


市長や知事・会長があいさつをされた後で、マイクの前に立つ時任さん。

「今日は寒い中みなさんが待って下さると思うと、手短にあいさつをしたいと思います。ありがとうございました」
と、話してマイクから離れられたので、爆笑と共に「えー」と声が上がり、戻ってこられました。
そして「一言と言われたので、一言で終わっていいのかな。ここまでみなさんが頑張られておめでとうございます」と話され「これで終わっちゃいけないですよね」と、しっかりトークのつかみを行われてから話を続けられました。

「浅井長政を演じましたが、第一話で自害してしまい、もう死にました。自分で演じる時に小谷に訪れ、浅井長政に演じるにあたってのエネルギーを感じました。それをとてもしあわせに思っていますし、この場所に呼んでいただいて地域活性のお役に少しでも役立てるのもしあわせに思います」
といった感じのあいさつをされておられました。
面白い方ですね。

そしてテープカット

時任さんも決めポーズ

テープは無事に切られ博覧会が始まりました。

12月4日まで、今年一年の滋賀県でのメインイベント。多くの方が来て下さるといいですね。

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日本100名城「小谷城」訪問記

2011年01月09日 | 日本100名城と続100名城
今日から『江~姫たちの戦国~』が放送になるので、その前に小谷城に行ってきました。
でも、この時期の小谷周辺は雪である可能性がめちゃくちゃ高いです。

…というか積もってました小谷城(笑)
この為に、番所跡から本丸まで登って引き返すだけの簡単なコースだけにして、季節が落ち着いてから再び訪問する事にしました。



…というわけで、番所跡のすぐ近くにある場所に車を停めて出発です。
まずは、朝倉義景が陣を張ったとされる金吾丸

番所より外側なのは、どんな意味があるのでしょうか?
そして番所跡へ

けっこう広いく曲輪でした。

ここから御茶屋敷跡までの間に琵琶湖が見える場所があります。

江は幼すぎたでしょうが、お市や茶々はこの景色を楽しんだのでしょうね。
そして御茶屋敷前も通り

ここからまた進むと馬洗池に到着、ここに馬場があったそうなのですが、こんな山の中に馬を何頭も連れてくるのは、当時では普通だったのでしょうか?

池の奥は馬舎があったそうです


そして、本丸直下の赤尾屋敷へ…

雪が行く手を遮りながら、それに逆らって進むとあります。

赤尾屋敷は、浅井長政が自害した地でもあるのです。

長政もまさか娘が大河ドラマの主人公になるとは思わなかったでしょう。

そして本丸を目指します。

千畳敷と呼ばれる大広間では、長政とお市の婚礼が行われました。またこの曲輪のどこかで江が誕生したとも言われています。



ここのは石垣が積まれた場所があり、この上に何らかの建物があったとも推測されるようです。




本来はこれより先がメインになるとも言えるのですが、雪の為今回は断念。
大堀切で引き返しました。

次の機会に登りたいと思います。

また、清水谷からも攻めて行きたいですね。

余談ですが、大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』では小谷城落城の際に、炎上する場面は最小限に抑えられていました。実際も炎上した痕跡は見つかっていないそうです。
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1月6日、藤堂高虎誕生

2011年01月06日 | 何の日?
弘治2年(1556)1月6日、藤堂高虎が近江国犬上郡藤堂村で誕生しました。

藤堂高虎が誕生した藤堂村は、八幡宮があり、そこの藤の花が立派であった為に、藤があるお堂という意味で“藤堂”という地名だったといわれています。

この為、高虎の生誕地もこの八幡宮を指定していたのですが、近年地名からの研究で、八幡宮のすぐ近くが生誕地として指定されました。

ちなみに、現在は藤堂という地名ではなく、この辺りを“在士”と呼びます。それは、井伊家がこの地を領するようになった時、徳川家康からの信頼も厚い立派な武士である藤堂高虎の氏をそのまま地名に残すのは比例と考えた井伊直孝が、「立派な武士が出た(在った)村」ということで“在士”と村の名前を変えたからだとされています。

さて、そんな藤堂高虎ですが、藤堂氏は高虎の父である虎高の時代では小さな地侍程度の武士だったといわれています。

この地は、南の六角氏と北の京極(もしくは浅井)氏の勢力が何度も戦っている地域で、その度に北と南のどちらに付くかの選択を迫られ、その過程でだんだん支配地を削って行かなければならなかった事情が伺えます。

そして高虎自身が戦えるようになると、浅井長政に従いました。
元亀元年(1570)の姉川の戦いでは目覚ましい活躍があり、長政から感状を受けたといわれています。
その後、小谷城落城の時には織田信長に従っていた様子があります。そして旧浅井長政家臣で織田信長に降伏して大溝城主となっていた磯野員昌の家臣となり、大溝城主が信長の甥の津田信澄に代わるとそのまま仕えましたが信澄とは合わなかったようで出奔しました。
羽柴秀吉の弟の秀長は、高虎の人材を見込んで自分の家臣とします。秀長は自分の家臣で有能な人物は兄の秀吉の直臣に推挙していましたが、高虎は自分の右腕として近くに置き、和歌山城の築城も任せ、家老として優遇するようになったのです。
磯野家に仕えた頃から知己があり、秀長家臣として共に仕えたのが小堀正次で、その息子が小堀政一(遠州)です。
秀長の没後に、跡を継いだ秀保に仕えますが、秀保も若くして不審死を遂げ(十津川で溺死と言われている)、その後は高野山で出家するのです。


こうして、藤堂高虎は戦国武将としての生き方を終えて、静かに余生を過ごすはずでしたが、世の中はそれを認めませんでしたが、それはいずれ機会があれば書きたいと思います。


藤堂高虎に関わるゆるキャラも各地でたくさん活躍しています。
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