2012年の大河ドラマ『平清盛』に関わるお話
治承4年(1180)12月28日、平重衡が奈良の寺院を焼き討ちにしました。
この年の10月23日、平家は富士川の戦いで鳥の羽音に驚いて戦わずに逃げ帰るという醜態を晒します。この少し前には、近江では近江源氏による反平家活動に寺社勢力が加担し寺社勢力の代表とも目されていた園城寺(三井寺)は5月27日に平家によって焼き討ちされますが、その近江での動きに奈良の興福寺も同調していたのです。
興福寺の活動は、富士川の戦いに敗れた平家にとっては脅威に映りました。そして和平の使者も受け入れようとせず、大きな毬打ちの玉を平相国(清盛)の頭と呼んで打ったり蹴ったりしていました。
それでも清盛はもう一度使者をつかわし、その使者に「相手がどのような態度に出ても武装するな」と命じて行かせます。興福寺方はこの使者一行を捕えて首を刎ね、猿沢池の畔に並べたのです。
清盛は怒って、五男の重衡に4万の兵を与えて奈良に攻め入りました。
興福寺勢力7000は歩兵であるのに対し、平家は騎兵だったために、平家が有利に進めました。卯の刻(午前6時頃)に始まった戦いでは奈良坂と般若寺の2か所を城塞化していた興福寺勢力に平家が攻めかかる形でしたが、1日で決着がついてしまったのです。
夜になって般若寺の門前に立った重衡が火を付けるように命じます。
その火が風に乗って類焼し、千人近い民衆が逃げ込んでいた東大寺大仏殿まで焼いてしまったのです。大仏は身体が溶けて首が下に落ちたのでした。
そして興福寺も火に包まれたのです。
この時に犠牲になった人は4500人余りであったといわれています。
翌日、重衡が帰京し清盛は喜び、後白河法皇や高倉上皇などは「たとえ悪僧でも、寺院を破壊していい物ではない」と嘆いたのです。
これが『平家物語』に記されている南都焼討の概要です。
元々は大仏殿まで焼く予定ではなく、あくまで武装した僧たちが籠る場所のみを焼く予定だったようですが、乾燥した時期だったこともあり、予想以上の被害になったと考えられるのです。
こののち、一ノ谷の戦いで源氏に捕えられた重衡は、鎌倉に送られ平家滅亡後に南都勢力によって引き渡しが要求され、拒みきれなかった源頼朝は引き渡しに応じたために、不破の関で首を斬られるのです。
治承4年(1180)12月28日、平重衡が奈良の寺院を焼き討ちにしました。
この年の10月23日、平家は富士川の戦いで鳥の羽音に驚いて戦わずに逃げ帰るという醜態を晒します。この少し前には、近江では近江源氏による反平家活動に寺社勢力が加担し寺社勢力の代表とも目されていた園城寺(三井寺)は5月27日に平家によって焼き討ちされますが、その近江での動きに奈良の興福寺も同調していたのです。
興福寺の活動は、富士川の戦いに敗れた平家にとっては脅威に映りました。そして和平の使者も受け入れようとせず、大きな毬打ちの玉を平相国(清盛)の頭と呼んで打ったり蹴ったりしていました。
それでも清盛はもう一度使者をつかわし、その使者に「相手がどのような態度に出ても武装するな」と命じて行かせます。興福寺方はこの使者一行を捕えて首を刎ね、猿沢池の畔に並べたのです。
清盛は怒って、五男の重衡に4万の兵を与えて奈良に攻め入りました。
興福寺勢力7000は歩兵であるのに対し、平家は騎兵だったために、平家が有利に進めました。卯の刻(午前6時頃)に始まった戦いでは奈良坂と般若寺の2か所を城塞化していた興福寺勢力に平家が攻めかかる形でしたが、1日で決着がついてしまったのです。
夜になって般若寺の門前に立った重衡が火を付けるように命じます。
その火が風に乗って類焼し、千人近い民衆が逃げ込んでいた東大寺大仏殿まで焼いてしまったのです。大仏は身体が溶けて首が下に落ちたのでした。
そして興福寺も火に包まれたのです。
この時に犠牲になった人は4500人余りであったといわれています。
翌日、重衡が帰京し清盛は喜び、後白河法皇や高倉上皇などは「たとえ悪僧でも、寺院を破壊していい物ではない」と嘆いたのです。
これが『平家物語』に記されている南都焼討の概要です。
元々は大仏殿まで焼く予定ではなく、あくまで武装した僧たちが籠る場所のみを焼く予定だったようですが、乾燥した時期だったこともあり、予想以上の被害になったと考えられるのです。
こののち、一ノ谷の戦いで源氏に捕えられた重衡は、鎌倉に送られ平家滅亡後に南都勢力によって引き渡しが要求され、拒みきれなかった源頼朝は引き渡しに応じたために、不破の関で首を斬られるのです。