「国宝・彦根城築城400年祭」の頃から井伊谷での井伊家を調べていた私は、井伊直親が暗殺された後に鳳来寺山に逃れることとなった虎松(のちの直政)に同行し幼い虎松を守っていた者こそが六左衛門であったと思い込んでいた。大河ドラマ『おんな城主直虎』でも直虎が井伊家後見人となったときに中野直之と六左衛門が青年として登場する。しかし『侍中由緒帳』に「六左衛門十六歳之時直政様江被召出候」と記されている。これは直政が徳川家康に仕えた天正3年(1575)のことであり直政は15歳だった。つまり六左衛門は直政より1歳年上のほぼ同年代であったこととなる。鳳来寺山への同行も直政と六左衛門は主従関係ではあるが同時に共に幼い頃から苦楽を共にした同志であったのではないかとも考えられる。もちろん場合によっては六左衛門が直政の影武者として身代わりになる可能性も否定できない。
天正3年(1575)、直政(虎松から万千代に改名)は小野玄蕃の息子朝之(万福)と共に徳川家に仕官する。この時点で井伊家と小野家は対等の立場であるため六左衛門が再興した井伊家初期の家臣となり、六左衛門は直政と共に歩み続ける。また中野直之の娘を正室に迎える(ドラマの2人は同年代に見えるが実は義理の親子)ことで井伊谷以来の家臣団で閨閥を作る。この行為は祖父朝利と同じ政治感覚を見ることもできる。
関ヶ原の戦いでは侍大将として戦い、大坂の陣にも参戦した六左衛門は彦根藩内で二千石の所領と中老の地位を与えられ、藩祖直政の外戚としての家格も得た。
元和の彦根城築城二期工事で六左衛門が総奉行に任じられた大きな要因は、再興井伊家最古参の重臣であったためと推測する。工事中の六左衛門に対して目に付く逸話が残っていないことからも工事を円滑に進めるための無難な責任者であったのだと推測できるのだ。
藩の期待通り無事に工事を終え、7年後に六左衛門は亡くなる。その後奥山家には不幸が続き七百石まで減封となるが、明治維新まで家を残すのだった。
時は流れ昭和の頃、京都に「おく山」を号とする店が記録されている。祇園の御茶屋と平安神宮近くの旅館である。御茶屋おく山で育った奥山はつ子(奥山初)が祇園を去った後に営んだのが旅館おく山であったらしい。「はつ子が祇園第一の美妓、従つて又京都を代表する美人」と女性を観ることに長けた谷崎潤一郎が『京羽二重』(『谷崎潤一郎全集』中央公論新社)に書いている。そして同作の中ではつ子自身が「自分の親たちは彦根の生まれで井伊家の一族である」とも話している、はつ子は六左衛門が先祖であることを他でも話していて、谷崎文学の読者に奥山の名を記憶させる一翼を担うのだ。
奥山家墓所(ただし六左衛門の墓石はない)