彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

屋形船

2007年03月30日 | 彦根城
屋形船から見た白鳥


『国宝彦根城築城400年祭』開催と同時に運行が始まったのが、内堀を進む屋形船です。

赤を主体とした船で、昔の屋形船を再現した作り。
内部は畳敷きになっていますし、モーターの音も揺れも殆どありませんので、正しく江戸情緒を楽しめるモノになっています。

お堀の中から石垣やお城を見上げる様子は、視点が全く変わるので新しい感覚になり、堀を進む事で時間がゆっくり感じられ、ともすればタイムスリップをしたような感覚にすら襲われますよ。

50分をかけて内堀をほぼ半周し、堀沿いの見どころを普段と逆の目線から楽しむことができますので、彦根城にお越しの際は必ず体験していただきたいものの一つです。
しかし、すぐに定員一杯になりますので、最初に玄宮縁前の乗船場でチケットを購入される事をお薦めします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特別展『最強の軍団~井伊の赤備え~』

2007年03月25日 | 博物館展示
彦根城博物館で3月21日~4月20日まで行われている展示が『最強の軍団~井伊の赤備え~』です。
写真はそこで売られていたクリアファイル。

井伊家といえば赤備えと言う風に思いつく方もたくさん居られる事だと思いますが、一概に赤備えと言っても同じ彦根藩主の中でも色々違います。

そんな違いは勿論の事、世子のまま藩主になる事が無かった井伊直滋・直清・直元の甲冑も見る事ができ、且つ有力な家臣の甲冑も目にする事ができるんですよ。

さて、赤備えの話
最初に赤備えを使ったのが甲斐(山梨県)の武田信玄の家臣・飯富虎昌(通称:飯富兵部)で、虎昌の死後に弟の山県昌景に受け継がれたのです。
1582年、武田家が織田信長によって滅ぼされ、その前に長篠の戦いで戦死していた昌景の赤備え軍団も解散を余儀なくされます。しかし、同じ年に起った本能寺の変で信長が亡くなり、甲斐は徳川家康の支配下となりました。

ここで武田軍が再雇用され、家康の直臣・木俣守勝を総大将として井伊直政に預けられたのでした。
この時点では『井伊軍の木俣の赤備え』だったのです。しかし、やがて井伊軍全てが赤で統一されるようになりました。
この事に敬意を表して、井伊直政は“兵部少輔”を私称しています。
赤備えは戦場で目立つ為に、卑怯な行為ができず勇気を試され、大将が戦場で傷を負っても血が目立たないので部下の士気を下げないと言う利点があったのです。

1600年、関ヶ原の戦いでは少数の兵で敵に攻め込んで戦いの口火を切った井伊軍は赤備えに恥じない働きをし、直政自身も命に関わる鉄砲傷を負ってまで戦ったのです。
1614~1615年の2回の大坂の陣では直政の息子・直孝が活躍し“夜叉掃部”という異名まで付けられ、以降、井伊家は『赤鬼』と呼ばれるようになったのです。

ちなみに、戦国時代にはもう1つ有名な赤備えがあります。
直孝が活躍した大坂の陣で敵方として戦った真田幸村の赤備えです。幸村はこの戦いで2度も徳川家康を追い詰めて、『真田は日本一の兵(つわもの) 古よりの物語にもこれなき由』と賞賛されたほどでした。

赤備えは本当にそれに相応しい軍しか使えないモノだったんですよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いよいよ開催

2007年03月21日 | イベント
当日の午前0時に書く話でもありませんが、ついに今日から『国宝彦根城築城400年祭』が始まります。

まずは、3月21日の内容をご紹介
午前8時25分から彦根城表門で開場式が行われます、その内容は、実行委員会会長の北村昌造さんによる開会宣言・テープカットや彦根鉄砲隊の祝砲となっています。

9時からは彦根城能舞台で開会式典が行われる予定となっています。
この開場式と開会式典で国宝彦根城築城400年祭が正式に開催される事になるのです。
ここでは嘉田由紀子滋賀県知事、北村会長、現在の井伊家当主・井伊岳夫さんのごあいさつがあり、徳川宗家の今の当主で財団法人『徳川記念財団』を設立して理事長を務めておられる川恆孝さんの貴重な講演や、5月末まで西ノ丸三重櫓と天秤櫓で『ワダエミの衣装展in彦根城』で衣装を展示されるワダエミさんの出展記念あいさつ、そして獅山向洋彦根市長のあいさつなどが行われます。

この時は、8時から表門橋で、8時半からは彦根城博物館前でそれぞれ赤備えの甲冑を着た「赤鬼家臣団」と「ひこにゃん」、「ひこねお城大使」が来場者を出迎えてくれるそうですよ。

この日からのイベントとしては、彦根城内では先ほどお伝えしました『ワダエミの衣装展in彦根城』以外にも、彦根城博物館では井伊家の大名道具を展示する『百花繚乱・彦根歴史絵巻~「巻の1 最強の軍団-井伊の赤備え-」~』開国記念館では『井伊家十四代物語』と題した歴代藩主、ゆかりの人物、映画やドラマ撮影などのロケ地の案内などが行われる予定になっています。

また、近江鉄道彦根駅構内や彦根駅前アル・プラザ3階では『はちなか博物館』開催。

それぞれの詳細やその他の情報もここでご紹介しますのでお楽しみに。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西ノ丸三重櫓

2007年03月14日 | 彦根城
彦根城には2つの三重櫓がありました。
一つは山崎曲輪にありましたが現存していません、そしてもう一つが今もその姿を観る事ができる西ノ丸の三重櫓です。

山崎曲輪が築城当時、筆頭家老・木俣守勝の屋敷があった所だと以前に書きましたが、この西ノ丸三重櫓は築城時は守勝に預けられていて、守勝は月20日くらいここで政務を行っていたそうです。
つまり、天守以外の三重の建物は木俣家の管轄下にあった事になります。
江戸時代初期に木俣家が彦根藩内でどれほどの力を持っていたのかを窺い知る事ができますね。

でも、今見ている西ノ丸三重櫓の姿は黒船来航の年の嘉永6(1853)年に土台から替える修理工事が行われたあとの姿なので、その前がどんな建物だったのかははっきりとは解っていないんですがね。


さてさて、彦根城には築城時に近江国内の城から移築してきた建物や資材が使われている話を何度も書いていますが、この西ノ丸三重櫓は浅井長政の小谷城から移築したものと伝えられていました。
しかし、長政の時代にはこのような多聞櫓を持つ形式の建物はなく(移築といっても資材を再活用するだけなので、元の形は関係ないのですが、全く違うのもおかしい)、小谷城落城から彦根城築城まで30年以上の差があることから、もし建物の資材が残っていたとしても使える状態ではないのではないかとも考えられていました。

昭和37年に解体修理による調査を行った結果、西ノ丸三重櫓には移築された痕跡がなく、ここで新築されたのではないか?と言う結果になったのです。


では、なぜ小谷城移築説があるのでしょうか?
実は、井伊家の記録の中に「瓦を小谷の土を使って焼いた」という記録があり、後世になってこれが小谷城移築という話になった可能性が高いと考えられているのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅林

2007年03月09日 | 彦根城
春の彦根城は梅も桜も有名ですが、江戸時代は今ほどにはどちらも植えられていませんでした。

桜のお話はこのブログの最初に書いているのでそちらを参考にして下さい。

梅は、大手門口からすぐにある7400㎡の梅林に600本の紅梅や白梅が咲き誇って訪れた人々の目を楽しませてくれます。しかし、江戸時代のこの場所は17棟の大きな米蔵が立ち並ぶ米の貯蔵庫ともいえる場所で、そこには京都守護の役領として幕府から預けられていた5万俵の米が蓄えられていたのです。

梅林の横の石垣を見ると、隙間が開いている場所があります。その隙間は米を運び入れる場所だったんですよ。

昭和25年に彦根城が観光地百選に選ばれた事を記念して、そんな広大な米蔵跡地に梅を植樹したことが梅林の始まりになっています。

梅も桜も、藩政時代を偲ぶ物ではありませんが、彦根城に春の彩りを添える大切なモノである事には違いありませんので大切にしていきたいですね。


ちなみに、米蔵が建つ前はここに鈴木石見と主馬という親子が住む屋敷があったそうです。
石見は御三家の水戸家に、主馬は彦根城初代城主・井伊直継に従って安中に去ったのですが、主馬の名残からこの一角を“主馬廓”と呼ぶとここの案内板には書かれています(案内板丸写しかも・・・)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月3日、桜田門外の変

2007年03月03日 | 何の日?
安政7(1860)年3月3日、新暦にすると3月24日。桃の節句の言葉の通り桃の匂いが香る春の日になる筈でしたが、この日の江戸は早朝から雪が舞う珍しい一日になったのです。

桃の節句は女性のお祭りでもあるので、祝辞を述べるために江戸在住の大名は登城するしきたりとなっていました。

大老・井伊直弼が総勢60余名の供回りを従えて、井伊家上屋敷から出たのは午前9時の事でした。春の湿った雪に覆い尽くされた道を江戸城桜田門に向かう約500メートルを直弼一行は駆け足で進みました。
これは、もし何か変事があった時に駆け足で登城すると周囲に変事を気付かれてしまうために幕府高官は日頃から駆け足登城が常識だったためでした。

しかし、直弼一行が江戸城に辿り着く事はありませんでした。
もう少しで桜田門に到着するという直前、直弼の行列の先頭に一人の男が太い声で「お願いの儀がございます!」と叫んで近づいてきたのです。
行列の先頭にいた日下部三左衛門と沢村軍六がこの男を静止しようと近寄った瞬間に男とその仲間によって斬り殺されたのでした(日下部は藩邸の運ばれた後に死亡)。

そして、一発の銃声が鳴り響いたのです。
この銃声を合図に17人の水戸浪士と1人の薩摩浪士が行列に襲い掛かりました。
応戦するべき彦根藩士は、雪の為に雨合羽を着用し、刀には柄袋を被せていた為にサッと刀を抜く事が出来ませんでした、その間に18人の浪人たちが彦根藩士を次々に斬って行ったのです。
浪士たちが直弼の乗る駕籠に近づく間、直弼は駕籠から出てきませんでした、最初の銃声の時に左腿を撃たれて下半身の機能を失って居たとも言われています。

やがて、駕籠の傍を守っていた河西忠左衛門が倒れると直弼周りに彦根藩士が居なくなったのです・・・
寒さと出血で意識が遠くなる直弼の横に刀が突き刺されますが、この一撃をかわしたのでした。
直弼は自ら流派を起こすほどの居合の名人だったため、無意識の意識の中で自らを守ったのかも知れません。

しかし、次に背中から突かれた一撃は、直弼の身体を貫き、その切っ先は胸の前に突き出たのです。
その後も何回も直弼は突き刺されたのでした。

ここで薩摩浪人・有村次左衛門が駕籠の引き戸を開けて直弼を乱暴に外に引っ張りだしました。
鉄砲傷と突き傷で動く力も無くなっていた直弼に対して、浪士たちがまた何度も斬り付けた後、次左衛門が直弼の首を斬り落としたのです。
銃声が聞こえてから直弼の首が切り落とされるまで当時の記録で「喫烟ニ服」。
今の時間に直すと3分とも10分とも言われています。

その頃、井伊家上屋敷に居た直弼の側役・宇津木六之丞に桜田門外での異変が伝えられました。
六之丞が急いで現場に駆けつけた時には既に直弼の首が持ち去られ、雪の中胴体が無残に転がっていたのでした。そしてその着物から
“さきがけし 猛き心の花ふさは 散りてぞ いとど香に 匂ひける”
という死を覚悟した辞世の句が出てきたのです。

直弼は、登城前に浪人たちの襲撃を知らせた匿名の文を受け取っていたと言われています。しかし、そうでありながらも幕府最高権力者として逃げる訳にはいかなかったのでした。

彦根藩邸にいた藩士たちは、現場に駆けつけた後、悲しむ気持ちを押し込めながらも現場の処理を行い、1時間後には後片付けが終わっていたそうですが、現場に散乱していたのは無残に斬られた指や鼻や耳だったそうです。
80名近い武士たちが狭い場所で闘っていた為に残った激闘の名残ともいえますね。


直弼暗殺は、今で言うなら内閣総理大臣よりも絶対的な権力をもった人物が大勢のニートに囲まれて袋叩きにあって殺されるような事件でした。
しかもその主張は、「お前の政治が悪いから俺らが働けないねん」くらい身勝手な主張と変わらなかったのです。

直弼の死はしばらく伏せられていて、病として幕府に届出があり、幕府から形ばかりの見舞いの使者も出たのです。
そして約2ヵ月後の閏3月晦日にやっと死が発表されたのでした。


結局この事件は幕府の権力が失墜した象徴となり、この後幕府は坂道を転がり落ちるように倒れていくのです。


ちなみに、彦根藩がこの後に白昼で藩主の首を取られた不名誉で10万石を減らされます。このため名誉回復の為に働き回った事は『雛と雛道具』の項でも少し触れましたが、桜田門外の変の2年後には彦根で政変が起こって、直弼の側近だった長野主膳や宇津木六之丞が斬首になります。
そして同じ年に桜田門外の変の時に無傷で藩邸の戻った数名の藩士が斬首になっているのです、藩は武士としての名誉をも必要としたのですね。
これらの努力が認められたのか、後に5万石が幕府から戻されたのです。

そして、彦根藩では上巳の節句を祝う事が無くなり、今でも彦根市内の一部の旧家ではその伝統が続いているそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする