彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

知立古城訪問

2019年04月29日 | 史跡
平成最後の史跡訪問で、最後の訪問場所となったのは知立古城でした。



刈谷市歴史博物館で水野勝成展を観て、刈谷城を訪問。
昨年末に近隣の緒川城などの水野氏史跡を訪れている(そういえば報告書いてない)ため、この近辺での水野勝成史跡のメインになりそうな場所はここになります。

知立は知立神社から取られた地名ですが、神社近くの池から鯉や鮒がよく獲れて名物になったことから「池鯉鮒」の地名が使われるようになりました。
戦国期でも「池鯉鮒」の地名の方がよく知られた感があります。
関ヶ原の戦い直前、この地(別説あり)で一つの事件が起こりました。
堀尾吉晴が加賀井望重を連れて水野忠重を訪問し旧知の三人の酒宴となります。
しかし突然望重が忠重に斬りかかり殺害、吉晴は驚いて望重を殺してしまったため、異変に気が付いてやってきた水野家家臣と闘うことになり命からがら逃げ延びたのです。
後に、望重の懐から徳川家康か徳川家重臣の殺害を命じた大谷吉継の書状が発見され吉晴の無実が証明されます。
また、この事件を受けて家康は勝成を池鯉鮒に向かわせて水野家を継がせたのです。

一年半ほど前に堀尾吉晴の調査で訪れたことがあり、今回が2回目の訪問になりました。
東海道の宿場町でもあった地だけに、城の重要性は高く、家康が早くに勝成を派遣して水野家中を落ち着かせる必要があったことはよくわかります。

ちょっと残念な本陣跡の碑

これにより、水野家の軍勢を率いることができた勝成は関ヶ原の戦い当日に大垣城を監視し、戦いの後に大垣城攻めを行なって城を落としたのでした。


関連地:知立市
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西尾城訪問

2019年04月29日 | 史跡
刈谷に続いて行ったのは西尾城。

10年ぶりくらいに行きましたが、以前より整備された気がします。
再建された辰巳櫓や本丸跡、近衛邸が時代を感じさせます。




ここにくるたびに井伊直之が治めた時の資料を探すのですが見つからないのが残念です。

西尾の勧める家は大給松平氏、享保の改革を行った松平乗邑(ただし西尾藩時代ではない)、大給乗全(大給恒の祖父)などを押していました。
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刈谷城訪問

2019年04月29日 | 史跡
平成最後の史跡訪問として愛知県に行きました。

刈谷歴史博物館が三月に開館して、水野勝成展を行なっていることでしたので興味がわきました。


水野勝成は徳川家康の従兄弟ですが、父忠重の怒りを買い若いうちに水野家を追い出され浪々しまいた。
佐々成政や黒田長政にも仕えていますがあまり長くは一人に仕えていません。
関ヶ原の直前に忠重が西軍の加賀井望重に殺害されたことから家康の命で水野家に戻り家督を継ぎ、関ヶ原の戦いでは大垣城を攻め落とします。
その後、島原の乱まで戦い抜き、福山藩の基礎を作った人物でした。

戦国最後の傾奇者とも称されたり、鬼日向、ろくでなし、とも言われている興味深い人物の資料がよく集まっていました。

またGW期間中には正子公也さんの作品が展示されていました。
勝成はもちろんのこと、

井伊直虎などもありました。

博物館内の四ヶ所で押すことで完成するシヤチハタが最近販売した浮世絵のような色のつけ方をするスタンプラリーも行われていたり面白い取り組みもありました。


近くの刈谷城は遺構から城を感じるのは少ないですが、憩いの場になっていました。





関連地:刈谷市
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肥田城水攻め(前編)

2019年04月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 六角氏と京極氏の境目の城として時には攻撃を受けながらも、高野瀬氏は肥田城で着実に基盤を築いてゆく。そして宇曽川の水運を利用した発展を遂げ肥田城周辺には城下町も形成されていた。
 戦国時代、北近江の京極氏は浅井亮政に実権を奪われ保護下に入る。亮政の子久政は六角義賢に従うことで北近江の安定を図り息子に六角氏重臣平井定武の娘を迎えさせて義賢から名を貰い「賢政」と名乗らせるほどだった。しかし賢政はそんな父親のやり方に反発して妻を平井家に追い返し六角氏からの独立を宣言する。義賢は都での覇権を巡って摂津国(大阪府北中部)の三好長慶とドロ沼の戦いを繰り返している最中であり、賢政に怒りながらもすぐに北近江に出兵することができなかった。その隙をついて賢政は六角氏との境目を治める国人たちを調略した。
 永禄2年(1559)肥田城主高野瀬秀隆は目加田氏や八田氏と共にまだ初陣も済ませていない浅井賢政を支持して六角氏から離れることを宣言し肥田城に立て籠もった。
 肥田城は美濃国主斎藤義龍に賞賛されたこともある城であり、平城でありながら堅固な軍事施設であったことは間違いない。しかしあくまで国人の居館を兼ねた城でありどれほど多く見積もっても兵が千人も居たとは思えないが、そんな肥田城に対して六角義賢自身が嫡男義治(義弼)と共に1万5千の兵で出陣し肥田城を囲んだと言われている。当主親子が総力を引連れて出陣したとなると肥田城や周辺の国人たちの城を落とすためだけとは考えられず一気に小谷城まで攻め浅井賢政を降伏させる作戦であり北近江の不安定さを早く収めて都に向かうための総力戦だったと推測される。そうならば小城である肥田城など大軍で一斉に攻めれば簡単に落ちたに違いない。そもそも斎藤義龍が称賛した堅固さは宇曽川を利用した北からの攻撃に対する防御であり六角氏のように南から攻める場合には肥田城の堅固さにも疑問符を付けざるを得ない。しかし六角軍はここで予想外の城攻めを始める。
 「肥田城水攻め」と後の世に伝えられる城攻めを発案した人物が誰であるのかは記録に残っていないが、六角義賢はその策を採用し実行させたのが現在の定説である。
 永禄2年4月3日、観音寺城を出た六角軍は肥田城の近くに布陣し肥田城を囲む形で幅12間(約23メートル)長さ58町(約6.3キロメートル)の堤防を築き、宇曽川と愛知川(現在よりも北を流れていた)の水を引き込んで水攻めとした。彦根藩士源義陳が寛政4年(1792)に編纂した『近江小間攫』には「本朝(日本)水攻ノ最初ハ此時ナリ」と記している。実際には七六年前に河内国(大阪府東部)若江城で畠山義就が行った若江城水攻めが日本最初の水攻めであるが、しっかりとした堤防を築いた水攻めとしては肥田城が最初であり、羽柴秀吉の備中高松城水攻めより23年前の出来事だったのだ。
 そして2019年は、肥田城水攻めから460年になる。

肥田城跡の碑
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地域通貨「彦」

2019年04月24日 | その他
今年の地域通貨「彦」とひこにゃんエコバッグ。

ひこにゃんの登場も危ぶまれる事態まで市政がぐちゃぐちゃになり、平成から令和へと時代が移る瞬間に政策的予算がまったく出せない暫定予算で市政が行われている彦根市で、来年の地域通貨はまともに予算立てされるか?
との一抹の不安も残しながら、今回も交換してきました。
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九品院四百回忌

2019年04月18日 | 何の日?
元和6年(1620)4月18日、彦根藩士青木五郎兵衛の妻が亡くなりました。
つまり平成最後の年が四百回忌になります。

戒名は九品院殿智海妙恵大姉。没年はわかりませんがまだ十代後半だったと考えられます。

青木五郎兵衛家は江戸時代の間に断絶していますし、もし残っていたとしても彦根藩士青木家も妻の九品院も有名な人物でもなければ、地元の偉人というわけでもありません。
ただ、九品院は想像を膨らませるのに楽しい女性ではあります。
父親が真田信繁(幸村)なのです。

信繁には九人の娘がいたとされていて、その四女が九品院です。
先ほど、没年が十代後半書きましたが、兄大助幸昌が慶長6年(1601)に誕生し、妹で五女阿梅(片倉重綱室)が慶長9年に生まれていて、この兄妹の間に三女あぐりと四女九品院(本名不明)が居るからです。



ですから、数えでも17歳から20歳の間に亡くなったことになります。
九品院がどの様な経緯で彦根藩士に嫁いだのかはわかりませんが、若い女性が敵地に嫁ぐ苦労は偲ばれます。
若く亡くなった九品院は、青木家の墓地である少林禅寺に2人の人物と共に埋葬されましたが、その墓石は歴代住職と向かい合う形になっていていつまでも仏の庇護を受けているようにもみえるのです。


関連地:彦根市 少林禅寺
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