平成最後の史跡訪問で、最後の訪問場所となったのは知立古城でした。
刈谷市歴史博物館で水野勝成展を観て、刈谷城を訪問。
昨年末に近隣の緒川城などの水野氏史跡を訪れている(そういえば報告書いてない)ため、この近辺での水野勝成史跡のメインになりそうな場所はここになります。
知立は知立神社から取られた地名ですが、神社近くの池から鯉や鮒がよく獲れて名物になったことから「池鯉鮒」の地名が使われるようになりました。
戦国期でも「池鯉鮒」の地名の方がよく知られた感があります。
関ヶ原の戦い直前、この地(別説あり)で一つの事件が起こりました。
堀尾吉晴が加賀井望重を連れて水野忠重を訪問し旧知の三人の酒宴となります。
しかし突然望重が忠重に斬りかかり殺害、吉晴は驚いて望重を殺してしまったため、異変に気が付いてやってきた水野家家臣と闘うことになり命からがら逃げ延びたのです。
後に、望重の懐から徳川家康か徳川家重臣の殺害を命じた大谷吉継の書状が発見され吉晴の無実が証明されます。
また、この事件を受けて家康は勝成を池鯉鮒に向かわせて水野家を継がせたのです。
一年半ほど前に堀尾吉晴の調査で訪れたことがあり、今回が2回目の訪問になりました。
東海道の宿場町でもあった地だけに、城の重要性は高く、家康が早くに勝成を派遣して水野家中を落ち着かせる必要があったことはよくわかります。
ちょっと残念な本陣跡の碑
これにより、水野家の軍勢を率いることができた勝成は関ヶ原の戦い当日に大垣城を監視し、戦いの後に大垣城攻めを行なって城を落としたのでした。
関連地:知立市
刈谷市歴史博物館で水野勝成展を観て、刈谷城を訪問。
昨年末に近隣の緒川城などの水野氏史跡を訪れている(そういえば報告書いてない)ため、この近辺での水野勝成史跡のメインになりそうな場所はここになります。
知立は知立神社から取られた地名ですが、神社近くの池から鯉や鮒がよく獲れて名物になったことから「池鯉鮒」の地名が使われるようになりました。
戦国期でも「池鯉鮒」の地名の方がよく知られた感があります。
関ヶ原の戦い直前、この地(別説あり)で一つの事件が起こりました。
堀尾吉晴が加賀井望重を連れて水野忠重を訪問し旧知の三人の酒宴となります。
しかし突然望重が忠重に斬りかかり殺害、吉晴は驚いて望重を殺してしまったため、異変に気が付いてやってきた水野家家臣と闘うことになり命からがら逃げ延びたのです。
後に、望重の懐から徳川家康か徳川家重臣の殺害を命じた大谷吉継の書状が発見され吉晴の無実が証明されます。
また、この事件を受けて家康は勝成を池鯉鮒に向かわせて水野家を継がせたのです。
一年半ほど前に堀尾吉晴の調査で訪れたことがあり、今回が2回目の訪問になりました。
東海道の宿場町でもあった地だけに、城の重要性は高く、家康が早くに勝成を派遣して水野家中を落ち着かせる必要があったことはよくわかります。
ちょっと残念な本陣跡の碑
これにより、水野家の軍勢を率いることができた勝成は関ヶ原の戦い当日に大垣城を監視し、戦いの後に大垣城攻めを行なって城を落としたのでした。
関連地:知立市