彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊家千年の歴史(16)

2017年02月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 許嫁が行方不明だったあしかけ11年という時間はあまりにも長かった。少年だった亀之丞は20歳の青年となり直虎の前に現れた、井伊直盛は娘が還俗して亀之丞と結婚し夫婦で次代の井伊家を継いでくれるように願ったが、直虎は拒否した。その理由は分かっていないが出家の時と同じく頑なに拒否を続けた娘の意志を尊重し、直盛は井伊家分家で有力な家臣である奥山朝利の娘を亀之丞の妻に迎えて元服させ直親と名乗らせ養子として迎えたのだった。五年後、桶狭間の戦いで直盛は討死する。その翌年には直親の嫡男・虎松が誕生するが直親は今川氏真に殺害された。井伊家は直虎の曽祖父・直平が当主となるが、直平も殺害され、3歳の虎松のみが井伊家の男子となり、その虎松が元服するまでの繋ぎとして嫡流の娘である直虎が井伊家の当主となったのだった。出家して次郎法師と名乗っていた女性がどの段階で直虎と名乗ったのか、明確な時期は分からない。現段階では永禄11年(1568)に次郎直虎と記された古文書が一枚あるのみで、井伊家の記録にも直虎という名は伝わっていない。ただ、この古文書の存在によって井伊谷の差配ができた直虎という人物がいたことは歴史にはっきり刻まれたのだった。
 井伊家当主としての直虎は、今川氏真から突き付けられる無理難題を回避し、虎松の安全を守ることに専念する日々となった。そしてついに氏真の要求を回避しきれなくなり井伊谷に徳政令が実地され領主としての資質を問題視されて城を追われ、龍潭寺山門近くにあった母の住まいである松岳院に入ったと考えられている。今川家の支配下にはいった井伊谷だったが一か月後には井伊谷三人衆といわれる武将たちの先導で徳川家康が侵攻し今川家を滅ぼして遠江国を治めるが、直虎が家康のもとで井伊家当主として領主に返り咲くことはなかった。その後武田信玄の侵攻により井伊谷は山県昌景によって壊滅し龍潭寺も燃えて井伊家の大切な記録などは失われたが、この時に直虎が井伊谷の地頭ではなかったことが命を長らえることになる。そして虎松の実母が再婚した相手である松下清景の弟常慶が早くから家康に仕えていたことに着目して松下家や南渓和尚と協力し、15歳になった虎松を家康に引き合わせて井伊家の徳川家への仕官が成功したのだった。虎松は万千代との名を与えられ家康に近習するようになり手柄を立て続け着実に出世してゆく、天正10年(1582)本能寺の変直後の神君伊賀越えの功績で孔雀の羽の陣羽織を与えられのが直虎が聞いた最後の手柄だったのではないだろうか?
 本能寺の変から三か月弱の後、直虎は松岳院で亡くなったとされている。法名は「妙雲院殿月泉祐円大姉」男として生きることを余儀なくされた次郎法師直虎はやっと女性の名を得て、井伊家系図にも「女」とのみ記される存在になったのだ。

2016年妙雲寺で発見された直虎の位牌
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『井伊家千年紀』

2017年02月02日 | 書籍紹介
毎月第四日曜日に、滋賀県の湖東湖北地域の読売新聞に折り込まれる地域情報紙の『DADAジャーナル』で僕が連載している「湖東湖北ふることふみ」から井伊家千年の歴史だけをまとめた『井伊家千年紀』が本日、遂に形になりました。


入手方法は、
1.著者である管理人を捕まえる。
2.日曜日からは、繖山の石馬寺に置いています。
3.DADAジャーナル編集部に注文する。

が確定です。
今からもしかしたら方法が増えるかもしれませんのでその時はお知らせします。

また
3の場合、680円切手と送付先のメモを書いた紙を入れて、
〒522-0064
彦根市本町2-2-3
DADAジャーナル編集部
にお送り下さい。

50ページ強の冊子ですが、まえがきを井伊谷龍潭寺のご住職が書いて下さっていますし、表紙は墨絵師・御歌頭さんの『井伊直虎』です。
定価は税込500円ですが、たぶんこの二点だけでも定価以上の価値ある気がします。
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