彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:イギリス艦隊薩摩湾投錨(6月27日)

2013年06月27日 | 何の日?
文久3年(1863)6月27日、イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に投錨しました。

生麦事件の賠償金を幕府からは受け取ることに成功したイギリスでしたが、実行犯である薩摩からは賠償金の支払いも犯人の引き渡しも行われませんでした。
ジョン・ニール代理公使は、薩摩にイギリス艦隊を見せつければ交渉の席に上がってくるだろうと思い、ゆーりアラス号を旗艦として、薩摩が交渉に来た時に会話ができるように通訳のアーネスト・サトウも引き連れて6月22日に横浜を出て鹿児島に到着したのです。

こうして薩摩藩に交渉を行うのかの回答を24時間以内に求めたのですが、薩摩藩からの返事は得られなかったのでした。
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映画『タイムスクープハンター 安土城最後の1日』

2013年06月16日 | イベント
6月9日に、8月31日から公開となる映画『タイムスクープハンター 安土城最後の1日』を観ました。
本当の意味での初公開です。それだけに伝えるのが責任重大です。


『タイムスクープハンター』はNHKで放送されている番組で、タイムスリップができるようになた未来からジャーナリストが派遣されて歴史の中の一部分をアーカイブで残すことを目的とした作品です。
要潤さんが演じられている沢嶋雄一が自らカメラを持って取材している形をとっているので、テレビでの沢嶋の登場は限られたものになります。


映画版でも本来はその形から始まりました。
1582年6月13日の京都。本能寺の変の影響で無法地帯と化した京都だったのですが、天皇が住む御所ならば助かることもあるだろうと民衆が集まっていたのです。
織田家家臣として禁裏の警護を命じられていた矢島権之助の救民のあり方が取材対象だったのです。そんな矢島の許に一人の武士が助けを求めます。織田家の村井貞勝の家臣だったその武士は、足に怪我を負いながらも博多商人島井宗叱を連れていて、織田家への最後の方向として島井を博多まで送るように依頼したのです。
こうして取材の対象が博多までの旅へと変わったのですが、その途中で沢嶋・矢島・島井の三人は戦国時代には存在しない武器で襲われるのです。

歴史上突然姿を消す貴重な宝。それを奪う大きな組織があり、今回は島井が本能寺から持ち出した楢柴肩衝が狙われたのです。
楢柴肩衝が無くなることは歴史の歪みを生じさせることであり、歴史の修正のために沢嶋には細野ヒカリと言う新人女性が付けられて楢柴肩衝を追ったのでした。

そして、歴史の歪みを戻した後に起る事件によって沢嶋とヒカリは安土城が消失する6月14日に安土城へ潜入することになったのです。
安土城がなぜ焼け落ちたのか? 安土城最後の日城内では何が起こったのか?
楢柴肩衝を奪おうとした人物の正体は?
多くのピースが散らばった安土城へのタームスクープが始まるのです。

タイムスクープハンターの沢嶋は、歴史的な大事件を追うのではなく、あくまで歴史に記録されないような民衆にスポットを置いた取材をする立場です。
それが、巻き込まれる形で安土城焼失の謎を追うことになります。
一部ちょっとツッコミどころがありますが、本能寺の変の後の京都周辺の情勢を丁寧に描いていて安土城が燃えるまでを一気に描いています。
その原因についてはそれぞれに観てほしいですが、タイムスクープハンターらしい原因解明だと思います。
いつものような沢嶋目線ではなく、沢嶋を第三者視線で追っているのもこの番組の形としては珍しかったですね。それだけに長年のファンには賛否があるかもしれません。


ごちゃごちゃ書きましたが、いい作品なので観てください。
そして映画公開に合わせて、等身大沢嶋を探すイベントも行われます。

イベントも楽しんでくださいね。
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『ベートーヴェンと三人の女たち』

2013年06月15日 | イベント
先月、西村雅彦さんが彦根にお越しになられたました。
その時にチケットを購入しました公演がひこね市文化プラザで行われました。


『ベートーヴェンと三人の女たち』
恋多き音楽家であったべートーヴェン。彼の残した恋文の中に「不滅の恋人」への宛名のない手紙があります。
ベートーヴェンが特に愛した3人の女性
・初めての恋の相手エレオノーレ
・結婚を申し込んだジュリエッタ
・最後の熱烈な恋の相手ヨゼフィーヌ
彼女たちへ送った熱烈なラブレターを読み解きながら、ベートーヴェンの曲と共に不滅の恋人がどのような相手なのかを読み解いていこうとする物語でした。

西村雅彦さんのエピソード紹介と手紙の朗読
そしてベートーヴェンの音楽の数々
どちらか片方がメインなのではなく、どちらもが大切な演出であり、そして音楽をバックにしながら行われる手紙の朗読は不思議なくらいに重なっていました。


後半は、ベートーヴェン以外の音楽を楽しみながら、西村さんがオーケストラ・アンサンブル金沢のメンバーにいろいろ質問していくトークのコーナーでした。

西村さん、本当に面白いです。
余韻を残して、もう少し聞きたいなぁという腹八分目の絶妙な加減で「もう一度行ってみたい」と思わせてくれる公演でした。
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150年前:緒方洪庵死去(6月10日)

2013年06月10日 | 何の日?
文久3年(1863)6月10日、蘭方医で教育者でもあった緒方洪庵が亡くなりました。享年54歳。


緒方洪庵といえば、大坂で適塾(適々斎塾)を開き、現在の大阪大学医学部まで繋がる教育機関の基礎を築いた人物で、ここからは、橋本左内・大村益次郎・大鳥圭介・福沢諭吉・佐野常民などの有能な人材も輩出しています。

適塾での緒方洪庵は、塾生の特徴をしっかり把握していて、けっして大声で怒ることがなく、微笑みながら生徒を諭す様子は怒られるよりも恐ろしかったそうです。


そんな教育者の一面以外にも、蘭方医として大坂で牛痘種痘法を行った先見性のある医者でもありました。
このことから晩年になって幕府に招聘されて、奥医師兼西洋医学所頭取として幕府に仕えることとなったのです。この時に塾生の手塚良仙らが洪庵に推挙されて幕府歩兵頓所付医師になっています。この良仙の曾孫が手塚治虫です。

江戸に招聘され幕府の中に組み込まれた洪庵でしたが。その半年後に突然血を吐いてそのまま窒息死したのです。洪庵は肺結核に冒されながら江戸で孤軍奮闘した末の過労死でした。
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150年前:徳川家茂離京(6月9日)

2013年06月09日 | 何の日?
文久3年(1863)6月9日、将軍徳川家茂が京を離れました。

大坂巡察ののち京都へ戻った家茂でしたが、幕府内では老中格の小笠原長行が1600の幕兵を率いて6月1日に大坂に入りそのまま淀へ向かって淀城に入ったのです。
この行動に朝廷が驚いていると、そのまま上洛して将軍に天下の大事を進言するというクーデター計画が持ち上がったのです。

3日に松平容保が説得に当たりますがうまくいかず、6日に朝廷が家茂に対して小笠原を罰するように命じたのです。
これを受けた家茂は、自ら説得にあたるために6月9日に淀城に赴きました。
この場で小笠原と面会し、小笠原は老中格罷免と江戸への帰還が命ぜられたのです。

家茂はこのまま大坂をめざし、13日に江戸へ向けて出港したのです。
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150年前:平井収二郎ら切腹(6月8日)

2013年06月08日 | 何の日?
文久3年(1863)6月8日、土佐勤王党の平井収二郎・間崎哲馬・広瀬健太が切腹させれれました。

土佐勤王党は、山内容堂の進める公武合体に反対し、容堂以前の藩主経験者である山内豊資を土佐藩の実力者にするための行動を行っていました。
そのために青蓮院宮との交流を図ったのです。

この動きを上京してから知った容堂は怒り、平井らの捕縛と土佐勤王党の自粛を命じたのでした。
この事件を青蓮院宮令旨事件といいます。
土佐勤王党の党主である武市半兵太は平井らの助命嘆願を容堂に行いますが聞き入れられず、平井らは土佐藩の牢で切腹させられたのです。

平井収二郎の妹の加尾は、坂本龍馬の土佐での恋人とも言われている人物で、この事件と龍馬との関わりもよく描かれる題材です。
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6月2日、横浜開港記念日

2013年06月02日 | 何の日?
安政6年(1859)6月2日、前年に締結された『安政の五カ国条約』(『日米修好通商条約 』など5ヵ国との条約)によって、横浜港と長崎港が開港されました。

なぜ6月2日という中途半端な日になったのかと言えば、当時の調印をグレゴリオ暦で行ったからでした。
管理人の家には、『日米修好通商条約』の資料ではなく、『日露修好通商条約』の資料しかありませんが…

この第三条に

「下田長崎箱館港の外次にいふ所の場所を左の期限より開くへし」
として
「神奈川 午七月より十一ヶ月の後より 千八百五十九年七月一日」
とあります。

日米の条約では長崎の開港についても同断としていますが、日露について長崎で交流が始まっていたことから、特に記されなかったと考えられます。
(ちなみに、長崎では鎖国中も出島で交易を行っていたことから、この日を開港とする意識はあまりないようです)

こうしてグレゴリオ暦1859年7月1日にあたる安政6年6月2日に開港されたのです。
しかし、開港の条件は神奈川であり横浜ではありませんでした。
これは、神奈川が東海道五十三次の宿場町であり、交通の要所であったことが大きく関わっていて、人の往来が多い場所に外国人がウロウロするのは、様々な問題を招くとして、当時は寒村だった横浜村に埋立地を作り、港も整備したのです。
外国人の動ける範囲を制限したために、長崎の出島とあまり変わりない対応でしかありませんでした。
そして、神奈川開港と言いながら横浜を開港したこと(関西では兵庫と神戸)が問題となり、明治政府は横浜を神奈川県の一部とし、神戸を兵庫県の一部とすることで開港を条件を無理やり満たしたのです。
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150年前:アメリカ軍艦の報復(6月1日)

2013年06月01日 | 何の日?
文久3年(1863)6月1日、アメリカが長州藩の攘夷に対して報復を行いました。

5月10日に攘夷の決行としてアメリカ商船が関門海峡で襲われたことを知ったアメリカ軍艦ワイオミング号が、長州藩に対して報復を行いました。
すでに南北戦争へと突入しているアメリカでしたが、その戦争はアメリカ国内だけではなくそれぞれの軍艦の戦いも行われていたのです。
ワイオミング号は北軍の軍艦だったのですが、南軍の船を追いながら日本へ寄港したために戦争準備は万全だったのです。
このため、商船まで攻撃した長州への報復はすぐに行われました。


今までの砲撃で勝利に沸いていた長州藩の砲台に対してワイオミング号は砲弾を撃ちこみます。
約2時間の砲撃で庚申丸ともう一隻の長州の軍艦が沈没し、癸亥丸も大破して何とか沈まなかった程度でした。
長州藩の亀山砲台にも大きな損害を受けて立ち直れない状態に陥ったのです。
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