彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

常楽寺(墓中心) 訪問

2022年04月29日 | 史跡

鎌倉市大船の常楽寺は、北条義時の後を継いで鎌倉幕府三代執権を務めた北条泰時を開基とする名刹です。

泰時の妻の母の追善供養のために建立された粟船御堂が、五代執権北条時頼(泰時の孫、時宗の父)の招きで南宋から来日した蘭渓道隆が七年間住持を務め臨済宗の元になる禅宗を伝来させたことから臨済宗の大切な寺の一つになります。








そんな常楽寺の仏殿裏には三基の墓が並んでいます。



まずは、開基である北条泰時




そして圓通大應國師

圓通大應國師こと南浦紹明は、鎌倉時代前期の臨済宗の僧です。

建長寺の蘭渓道隆に学んだ後、宋に渡り帰国後は後宇多上皇の招きで万寿寺(京都五山の一山)の住持を務めたのちに建長寺の住持も務めました。

没後に後宇多上皇に「圓通大應」の國師号が贈られるのですが、これは日本初の國師号となり、圓通大應國師が臨済宗の法系の祖となります。

圓通大應國師と常楽寺に直接の関わりが見えないのですが、上記の通り蘭渓道隆が来日してから建長寺が建立され入るまでの七年間は常楽寺に滞在していたことから「常楽は建長の根本」との考え方もあったため、臨済宗の根本である常楽寺に墓が作られたとも考えることができるかもしれません。




もう一基は中央に建立されているのが、中興の龍淵胤和尚の墓です。

この人は、龍渕存胤という名で建長寺住持も務めたそうですが案内の石碑から安政4年3月20日に亡くなったことはわかるくらいで、あとのことがよくわかりませんでした。



そして、常楽寺の裏の小高い丘の上には木曽塚があります。

墓の主は源義高です。木曽義仲と巴御前の子とも言われている人物で、義仲と源頼朝が同盟を結んだときに鎌倉に来たと言われています。

そのときに、頼朝の娘・大姫の婿となったのですが、義高11歳、大姫6歳だったので頼朝は名目だけのものと考えていたようです。

しかし、大姫は真剣だったようで、義仲が討たれたのちに義高に刺客が放たれたとき、大姫が義高脱出を手助けしています。

それでも、義高は藤内光澄に殺害されたのです。

北条政子は義高の死を知った娘が嘆く姿を見て頼朝に詰め寄り、光澄は頼朝に処刑されたのです。

そんな義高の墓はもともとは木曽免と呼ばれる近くの水田に墓があったのですが、延宝8年(1680)に移されました。その時に青磁器に入った人骨が見つかったと言われています。






また、木曽塚より少し下ったところに、姫宮塚があります。

これは、北条泰時の娘(誰なのかは?)の墓と言われていますが、別の伝承では源義高の許嫁であった大姫の墓ともされています。


個人的な見解としては、姫宮塚が泰時の墓よりも高い位置にあること(父を踏みつけることになる)や、木曽塚とあまり離れていない場所であることから木曽塚が移されたあとに大姫の供養塔として建立されたのではないか?

と、思っています。


姫宮塚

奥にある栗船稲荷



御朱印





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掃部山公園

2022年04月25日 | 井伊家関連

4月1日に、掃部山公園に建つ井伊直弼公の銅像を見てきました。





明治時代に彦根藩士が山を購入し井伊家所有となり明治42年(1909)、横浜開港50年の記念に直弼像が建立されました。

この縁でここは直弼公の官職である「掃部守」に由来する「掃部山」と呼ばれるようになりましたが、訪問時に道に迷って交番で聞いたときは「紅葉山」とおっしゃっておられました。


井伊直弼像に関しては、直弼公が違勅調印を行った(後に氷解)ことや安政の大獄で尊王の志士を罰したことから朝敵とされるイメージを払拭するため武家でありながら公家の衣装である束帯姿で造られる不文律があると言われています。


それでも、昭和18年には金属回収指示により解体され政府に回収されます。


昭和29年(1954)に、開国100年を記念して再建されて現代に至っているのです。







直弼公像は、海を向いていますが、現在は海との間に高いビルが建っています。

これが、直弼公の開国による発展の結果だと考えるならば、直弼公に開国後の報告を行い見守って貰っていると考えても良いかもしれません。



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北条氏政・氏照の墓

2022年04月24日 | 史跡
豊臣秀吉の小田原征伐の時に自害した北条氏政・氏照の墓所に寄りました。



最近古文書の勉強の教材で秀吉の手紙があり「申刻北条氏政同陸奥守刎首差上候…」の文章を見たばかりがでしたので小田原に行った時に寄ってみました。


小田原駅近くの夜に人が集まりそうな街の中にひっそりとあります。




中央二基の右が氏政の墓、左が氏照の墓、氏政の墓の右隣には氏政夫人の墓
中央二基の前にある巨石は、氏政と氏照がこの石の上で切腹したといわれている「生害石」です。


氏政夫人は、武田信玄の娘黄梅院と解釈して良いのか?とちょっと悩んでいますが、以前は信玄の駿河侵攻で黄梅院は離縁して甲斐に返されたという説が定説だったものが、最近は黄梅院は亡くなるまで小田原城にいたとの説もありますので、後者の説ならばこの地にある墓が黄梅院である可能性は高くなりそうです。
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二階堂氏と甲良町下之郷

2022年04月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は東国武士の物語が中心であるため関連する話はあまり書けないと思っていた。しかし所縁の地訪問やドラマ視聴時に気になったことを調べて行くと紹介したい事柄が湧き出てくる。今稿もそんな話である。

 源頼朝が鎌倉殿と呼ばれるようになり、東国で武家政権の足固めを築き始めた頃、京の公家から頼朝との縁を頼って東下りをし、鎌倉政権に組み込まれ官僚として活躍を始める人物も現れるようになる。のちの「十三人の合議制」に選ばれる中原親能・大江広元・藤原行政、そして京都から鎌倉に情報を送っていた三善康信である。今回はこの四人の中から藤原行政に注目したい。

 行政はもともと工藤姓を称し、ある系図によれば行政の曾祖父・工藤維兼の弟・維弘の子・周時が井伊家に繋がると伝えている。行政の父・工藤行遠は遠江国司を殺害し尾張に流されたと言われていて、ここで熱田神宮大宮司・藤原季範の妹を妻に迎え、生まれた子どもが行政だった。そして季範の娘・由良御前は源義朝との間に頼朝を生む。つまり頼朝は行政の母方の従甥(いとこの子)ということになり、血縁としても鎌倉にとって重要な人物でもあったと考えられるのだ。行政はそのような期待に充分こたえられるだけの成果を残し、奥州藤原氏討伐後に奥州合戦の犠牲者を慰霊する永福寺を頼朝が建立したときにこの近くに邸宅を構えることが許されたとされている。

 永福寺は当時の寺院建築には使われていなかった二階建ての本堂が用いられ、その珍しさから二階堂と呼ばれていた。このため行政も「二階堂殿」と呼ばれることが増えたと考えられる。このことから子どもの代から二階堂姓を名乗るようになった。また行政は、頼朝から絶大の信頼を得ていた大江広元と並ぶ政所別当を任されるようにもなり、頼朝没後には十三人の合議制に参加するが、源頼家幽閉後辺りに息子に跡を譲って政治の表舞台から引いたと考えられている。その頃に岐阜城の前身となる稲葉山城を築城したとの伝承も残っているが、なぜ行政が築城しなければならなかったかは謎であり資料も乏しい。

 藤原姓を使い続けた行政に対し息子は二階堂姓を称し、嫡男・行村は武官、次男・行光は文官として鎌倉幕府を支え子孫たちも鎌倉幕府の要職を歴任する。特に鎌倉幕府滅亡時に政所執事を務めていた二階堂貞藤(道蘊)は「朝敵の最一、武家の補佐」とみなされ、朝廷に嫌われて甲良町下之郷の二階堂宝蓮院で寓居させられたが、その能力が必要とされて建武政権に登用される。しかし北条時行が起こした中先代の乱に加担したと判断され六条河原で処刑されたのだった。

 二階堂宝蓮院は、織田信長によって破壊され本尊阿弥陀如来坐像は安土城下の浄厳院に移されるが、ご本尊様がどうしても元に居た場所を向いてしまうため、下之郷に向いて浄厳院が建立されたと伝わっている。


二階堂法蓮院址(甲良町下之郷)
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二俣川古戦場

2022年04月23日 | 史跡
畠山重忠の嫡男重保と平賀朝雅の争いから、朝雅が北条時政に重忠謀反を讒言し、北条義時が重忠討伐軍を率いて戦った合戦が、二俣川の戦いです。

重忠軍150騎
義時軍1万

だったと言われています。
元久2年(1205)6月22日正午頃に戦端が開かれ、圧倒的な戦力差にも関わらず重忠軍の士気に義時軍が押され続ける戦いにとなったと言われていますが、重忠が弓の名手愛甲季隆(源頼家の弓術師範)に射られて討死したのです。

そんな二俣川古戦場は、横浜市旭区にありますので訪問しました。

まずは、重忠関連遺構が鶴ヶ峰駅周辺に広がっています。
横浜市旭区役所には、重忠が討死した地に石碑が建っています。


また、重忠討死前に二本の矢を地に刺して「我が心正しければこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と念じ、その矢から竹が育ったと言われています(さかさ矢竹)。
その竹は一度枯れてしまい、この場所に植え直したそうです。


旭区役所裏には、重忠の首塚と首洗いの井戸跡。
しかし重忠の首は洗われたあとに鎌倉に送られたためこの塚は兜などの遺品を埋めた供養塚ではないか?とも考えられています。



首洗いの井戸も今は枯れてしまい、跡地に案内板があるのみです。



ここから高台を登って行くと、畠山軍143騎を葬った六ツ塚がある薬王寺






重忠の内室・菊の前が二俣川の戦いに際して戦場に向かっている途中、重忠討死の報を聞いて自害し、乗っていた駕籠のままその場に埋葬されたと伝わっている駕籠塚があります。



菊の前は、十三人の合議制に甥の安達盛長と共に名前を連ねた足立遠元の娘でしたが、北条時政の娘が重忠に嫁いだために一歩引いた立場となった女性でもありました。


続いて二俣川駅近くの万騎が原にある畠山重忠公遺烈碑です。
これは、明治25年(1897)に建立された畠山重忠の慰霊碑です。



他の二俣川の戦いの意向が鶴ヶ峰駅周辺に固まっているのに対し、畠山重忠公遺烈碑は二俣川駅にあります。
そして、この間には大変な高低差も感じられます。

碑がある万騎が原の地名は、この地に北条義時が陣を置いたことに由来すると言われていますので、現地を訪れると二俣川の戦いは高地に陣を張った北条軍と畠山軍が両軍の間にある二俣川周辺の低地に駆け下って激突した戦いと考えられそうです。

旭区の鶴ヶ峰駅から二俣川駅に跨ぐ二俣川古戦場は、自転車を借りるとゆっくり回っても3時間もかからない広さですが、高低差を知ることで現地訪問の価値が高くなる場所でした。
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等身大ユニコーンガンダム

2022年04月22日 | その他

以前、東静岡駅で等身大ガンダムが公開された時に見に行ったことがありました。

今回は東京近辺で一泊した時に、お台場で等身大ユニコーンガンダムをみました。


静岡のガンダムは、周りに高いビルは一棟しかなかったのでガンダムが大きく見えましたが、お台場では高い建物の脇にガンダムが立っているので小さく見えてしまいました。


訪問したときは、不具合でユニコーンモードにはならず、ずっとガンダムモードだったことですが、それでも夜にライトで照らされたユニコーンガンダムはカッコよかったです。












フジテレビなどの風景も、お台場ならではですね。





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ガンダムマンホール

2022年04月21日 | その他

訪問したのは3月31日ですが…


まだ小田原城の桜が綺麗な頃に少しだけ小田原市に寄りました。




目的は、ガンダムのマンホールを見る事とマンホールカードをもらう事です。


小田原駅と小田原城の間くらいにあるマンホールを見てから、


小田原市観光交流センターでマンホールカードを入手。




メダルも販売されていたので購入しました。

どうやら、ズゴックのマンホールは海沿いにあるようなので、今回は見れませんでしたが、機会があれば訪れたいと思います。

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地域通貨「彦」

2022年04月14日 | イベント

今年も彦根市の地域通貨「彦」が交付される季節になりました。

昨年3月から歩いていますから、活動報告は全て満たされています。

ですので、満額の1300彦です。


ここから500彦をひこにゃんエコバッグに交換



500彦で彦根市指定のゴミ袋5包と交換

残り300彦を受け取ってきました。


帰りに彦根城に寄ってひこにゃん見学




彦とのショットや


ARでひこにゃん同士のショット





などを撮影してみました。
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梶原景時の墓

2022年04月08日 | 史跡

東京都大田区西馬込に建つ萬福寺に梶原景時の墓があります。





梶原景時は、鎌倉殿の十三人の合議制に名前を連ねた人物ですが、合議制が始まった翌年に討たれてしまいます。

歴史的には、源平合戦において源義経の軍監を行なっていて義経に対抗し続けた嫌なキャラ付けをされています。

しかし、坂東武者には珍しく教養高い常識人景時と枠にはまらない義経ではウマが合うとは思えないので、景時が可哀相にもなります。


萬福寺は、景時が品川に建てた寺でしたが、火災で焼けてしまい、もともと景時の墓があった西馬込に移転されたとされています。

この地に景時の墓があるのは、戦国時代まで領主が梶原氏だったからと考えられます。





この縁からか、山門近くには源平合戦の宇治川の戦いで佐々木高綱と先陣を競った景時の息子景季に源頼朝から与えられた名馬磨墨(するすみ)像を見ることもできます。



また、萬福寺には木原義久一族之墓もあります。



木原義久は、尾張出身の大工頭で徳川家康に従って江戸に行き江戸幕府に置いて頭領を務めた木原一族の祖になる人物です。

東照宮建立に貢献していて、

尾崎神社(金沢東照宮)


鳳来寺山東照宮

などの建立にも関わっているとのことです。

その木原氏の墓に向かう途中では、松旭斎天勝の墓も見ることができます。



○御朱印




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上総介塔

2022年04月02日 | 史跡
源頼朝が石橋山の戦いで大敗を喫しながら直ぐに態勢を立て直すことができたのは、上総介広常(と千葉常胤)の参戦があったからでした。

上総介広常は、上総下総に勢力を広げた房総平氏惣領の流れをくみ平広常や上総広常とも呼ばれています。

頼朝は、上総介広常と千葉常胤を味方につける為の使者などを送り、広常は大軍でこれに答えて頼朝に付いたのでした。
この時、頼朝が遅参した広常を咎めて軍を追い返そうとしたとの話が有名ですが、広常は平治の乱では頼朝の兄・義平の軍で戦ったことがあり、石橋山の敗戦後に頼朝が房総半島に逃げたことから考えて、頼朝の挙兵時には広常が味方についていたとの説もあります。
頼朝軍最大の兵力を持って早くから味方していた為か?頼朝に対して尊大な態度をとったとも言われています。

寿永2年(1183)12月20日、頼朝の命を受けた梶原景時が広常邸を訪れます。二人は双六を楽しみましたが、途中で景時が広常に斬りかかり上位討ちとしたのです。
その後、朝夷奈切通しの清水で太刀に着いた血を拭ったとされています。

上総介広常の墓との伝承がある場所は、鎌倉から朝夷奈切通しを抜けて直ぐの場所にあります。



(太刀洗水は、朝夷奈切通しの鎌倉側)






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