彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

佐和口多聞櫓

2007年02月26日 | 彦根城
彦根城で一番美しいといわれている景色はどこでしょうか?
こう尋ねると、色々な場所が候補に挙がってくると思います、そんな中で特に人気が高いのは玄宮園の天守を借景にした風景と、キャッスルホテルの前から中堀越しに佐和口多聞櫓や天守を望む風景ではないでしょうか?

今回は、そんな美しい風景の中に溶け込んでいる佐和口多聞櫓についてご紹介。

彦根城築城は、初代城主・井伊直継が行った第一期工事と、2代藩主・直孝が行った第二期工事に分ける事ができます。

第一期工事は、主に内堀の中となる城山を中心とした築城でしたので、この時は幕府が助勢する急な築城工事でしたので、資材も近江国内の城から移築する形が取られたと何度か書いていると思います。

しかし、直孝が築城工事を行った第二期工事は、彦根藩が独自で行った城郭を広げるための近代的でゆっくりとした工期が持てる築城だったのです。
佐和口多聞櫓はそんな直孝の時代に建てられた櫓でした。


ここで、一つ疑問なのですが、櫓というのは、おぼろげながらも石垣の上に建っている天守を小さくしたような建物と理解できますが、そもそも多聞櫓って何なんでしょうか?
実は、多聞櫓とは石垣や土塁の上に長く続いている櫓の事を言います。
今では取り払われていますが、石垣の上には本当なら壁が作られてお城の防御に使っていました、その壁を敢えて廊下のような長細い建物にする事で人が配置できるようにしていたのです、そしてその一部に二重櫓や三重櫓が建って見張り台となっていたのでした。

佐和口は中山道から脇街道の彦根道を伝って彦根城まで通る道の出入り口となる部分となる重要な拠点だったので特に堅固な櫓が作られていたのです。

今では、佐和口を挟んでそれぞれに多聞櫓が繋がっていますが、南側は明和8(1771)年に建てられた江戸時代からの現存建物で一般的にこの部分を佐和口多聞櫓と呼んでいます。
北側は昭和35年に開国記念館として再建された建物で、佐和口多聞続櫓と呼ばれていました。
本来ならこの両方の多聞櫓の間に城門があったんですよ。


さて、彦根城は、四季を楽しめる城としても親しまれていますが、特に雪景色となるとキャッスルホテルの前の景色に通る人が見とれてしまうそうです。
今年は暖冬の影響で雪が少なく、雪景色を楽しむことはあまりできませんが、中堀の水面に佐和口多聞櫓やいろは松が映る姿は、自然の中に絵画の世界が出来上がったような感動を覚える時もあります。

『彦根かるた』にも“雪げしき 佐和口多聞の 美しさ”
と詠われている風景なんです。
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彦根城周辺史跡スポット:野田山金毘羅宮の『古城秘話』

2007年02月19日 | 史跡
1月28日に野田山金毘羅宮の紹介を致しました。
↓この記事です
http://blog.goo.ne.jp/hikonejou400/e/267564fc7711fe6beaf0c6d7ccfd5e76

この記事を見つけて下さって、野田山金毘羅宮の詳しいお話と400年祭の彦根に相応しい物を紹介していただけました。

これは、皆さんに知っていただきたいと思いましたので、そのお話をご紹介します。


以下、いただいたメールを少し書き換えて掲載します。

金毘羅宮慈眼寺の十一面観世音様は、秘仏であり、毎年8月9日の万灯会のみのご開帳となっているそうです。
春と秋には大祭があり、ご参拝のかたがた皆様には祈祷後に地元信者達による昼食のご接待があったり、2月には護摩法要の後にダイコン炊きのご接待があったりとアットホームな満腹系の神社仏閣。
金毘羅宮横には大灯篭があり、現在(2007年2月)は改修が必要な為上れませんが、上部にあがれば天気の良い日には彦根城が望めます。

金毘羅様本殿前の狛犬様は右が男性、左が女性の病封じの力を持った狛犬様。
(これは実体験されておられるそうです)

病封じ、御祓い、子授け安産等には大変なお力を持っている金毘羅様です。
昔は金毘羅様裏手の山道より多賀大社へと参道が続いていたとのことですよ。


また、金毘羅宮慈眼寺には『古城秘話』と題された8枚の屏風絵があり、井伊大老が開国され、桜田門にての出来事までの事柄が、日本画と文章とで記されています。

~この『古城秘話』に興味が沸きました、そして詳しいお話を下さいました~
以下、また少し書き換えて掲載します。

(『古城秘話』は)戦後に書かれた物なので、屏風絵自体に文化財的価値は無いため、今回の400年祭にあたって市にお話をしましたが表に出していただく事ができなかったものです。

秘話を読んでいただければわかるのですが、これを作られたのは地元彦根の方で、もうお亡くなりになっておられますが、井伊大老の功績が正しい事であったと証明するべく奔走された方です。

戦前は井伊大老の行い自体が、国を裏切る行為だという歴史になっていたようです。
しかしそうではなく、井伊大老の行いは国のため、人々のためであったという歴史に正すべく、戦後、アメリカ軍が日本に駐留した際、たった一人で直談判されたそうです。
(僕はこんな方が居られた事すら知りませんでした・・・)。
伝えられる歴史を塗り替えるにはアメリカ軍が日本の国政をいじる今しかないという判断だったようです。アメリカで行われた国交100年際に井伊家の子孫を招待するようお願いしたのもこの方です。
いわば、今、滋賀県民、彦根市民の誇りとなっている井伊大老の“正しい姿”を定着させたのは歴史家でも政治家でも市長でもなく、一市民の勇気ある行動だった。
(と、先人の努力を教えていただきました)


文化財的価値も必要ですが、こういった人が感じられる作品も400年祭で改めて見直すべきではないでしょうか?


この『古城秘話』に興味を持って見たいと思われた方に朗報です!!

屏風絵は常に出している訳ではないそうですが、事前に連絡をすると見せて下さるそうです。
また、連絡ができなくても時間にゆとりがあれば金毘羅宮慈眼寺の方が出してくださるとの事でした。
「たくさんの方に見ていただけることで、その方(作者)も喜ばれると思います」と仰って下さっていますので、ぜひ観に行って下さいね。


追記:僕も観たいと思っていますので、観る事ができましたらまたこの項にカキコします。
お楽しみに。
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石垣に刺さる釘

2007年02月15日 | 彦根城
京橋からお堀を渡ってすぐの枡形の空間は“京橋口”と呼ばれています。
京橋口は、そのまま大手門口に繋がる所で、大坂の陣が終わるまでは彦根城の正面としての機能を果たしていました。
京都の方に向かっているから“京橋”という呼び名が付けられたくらいなんです。

大坂の陣が終わると、彦根城の正面は中山道にを向いている佐和口から表門口を結ぶルートになってしまいますが、以前にも書きました通り彦根城はいざと言う時に帝を匿う役割があったために、京橋口も佐和口も彦根城の正面としての機能は持ち続けていたのでした。

そんな京橋口の石垣を細かく見ていくと、釘が刺さっている事に気が付きます。

この石垣には不思議な言い伝えが伝わっていて、隙間に釘を刺すと歯の痛みが治ると言われているのです。
木の杭でもOKとも聞いた事がありますが、果たしてどれくらいの効果があるやら・・・?

どの様にして生まれた言い伝えなのかはわかりませんが、どうしても歯が痛い方はお試しになってはいかがですか?
でも、絶対に石垣を傷付けたりはしないで下さいね。
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彦根城周辺史跡スポット:「八坂地蔵尊」

2007年02月11日 | 史跡
本庄町には本庄助作という人物の伝説が残っています。
 
彦根藩主が二代目の井伊直孝だった時、助作は訴訟事があって彦根藩の奉行所に向かっていました。
自分の正義を信じていた助作でしたが、浜街道を彦根との往復の道中、八坂村で老婆に会いました。
老婆は「今は焦っても勝てない、時期を待ちなさい」と言いました。
それを聞いた助作は怒って老婆を斬り捨てました、すると不思議な事に老婆は消えてしまい刀に血の後も残らなかったのです。

後日、「八坂のお地蔵さまに刀の傷が出来た」と噂で聞いた助作が行ってみると無残な刀傷があり、それは自分が先日斬った老婆だと分りました。
「これは、お地蔵様が勝訴の吉凶を知らせてくれたのだろう」と思い、仏罰を恐れて、丁寧に供養しました。
 
判決の日、証拠不十分で助作の敗訴となりましたが、納得できない助作は、武士として潔く死んで正義を示そうと、その場で十文字に腹を切り、介添え人が内臓を三宝に乗せて奉行所に提出しました。
助作の意気込みと誠意を知った奉行所は、先の判決を取り下げて助作勝訴としたのです。
 
この故事から、八坂地蔵尊は“斬られ地蔵”とも呼ばれ、勝負事の願望成就に霊験があるとして多くの信仰を集めています。

ちなみに、八坂地蔵尊のご本尊は今から750年ほど前に、この土地の所有者だった上杉重左衛門という人物が夢のお告げで掘り起こした物で、聖徳太子が二十歳の時に作った物だと伝承されています。

勝負事で運を掴みたい方は、手を合わせにいかれてはいかがでしょうか?
もし、その時に出会ったアドバイスをくれる方が居たならば、嫌な言葉でもちゃんと受け取って、決して手荒な事をしてはいけませんよ。
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テーマ展『雛と雛道具』

2007年02月08日 | 博物館展示
今回は、彦根城博物館でこの時期になると展示される、毎年恒例のテーマ展『雛と雛道具』についてご紹介します。

以前、NHKで「美術館にはその場所でしか味わえない物語がある」という印象的な冒頭のナレーションで始まる美術館紹介番組がありました。
お雛様の季節に彦根城博物館で展示される雛道具のメインとなる展示物には、このナレーションこそが相応しい物語が残っています。

物語の主人公は井伊弥千代。
弥千代は、幕末の彦根藩主・井伊直弼がまだ埋木舎で藩主となる自分の運命をも想像ができない時に直弼の次女として誕生しました。
しかし、弥千代より先に誕生した直弼の子どもは夭折していたため、実質的には直弼が最初に育てた子どもとなったのです。弥千代はそんな直弼の愛情を一身に受けて育ったのです。

やがて、運命の悪戯から彦根藩主に就任した直弼は譜代大名筆頭として江戸城に詰める事が多くなりました、この時に直弼と共に勤めていたのが会津藩主・松平容保と高松藩主・松平胤だったのです。
この三家はそれぞれの江戸屋敷に家族ぐるみで出入りする程に仲良く交流していたと言われています。
そこで、弥千代は高松藩主の跡取となる聰(よりとし)と出会い二人は恋に落ちたのです。
参勤交代で高松への往復の途中で聰が弥千代を訪ねて彦根城に寄ったという記録も残っていますので、その交際ぶりが目に浮かぶようですね。

そして弥千代は聰に嫁ぐことになりました。
安政5(1858)年4月21日、二人の婚礼は行われました。
普通、彦根藩井伊家と高松藩松平家の婚礼と聞くと政略結婚のような印象を受けますが、もし、政略結婚なら、深い交流のある家に娘を嫁がせたりすることもありませんので、この二人は政治的な意味が全くない恋愛結婚だったのです。
そんな幸福な結婚をした最愛の娘の為に直弼が揃えた婚礼調度の雛形85件が博物館で展示される雛道具なのです。
婚礼当時、聰25歳・弥千代13歳と年の差がある夫婦でしたが、二人にとっては幸せな日々の始まりとなる筈でした。しかし、時代はこの若い夫婦に平穏な日々を許しませんでした。
婚礼の2日後に弥千代が里帰りとして彦根藩邸に戻る日、父・直弼が大老に任命されたのです。
この後、直弼は幕府最高責任者として厳しい政治を行いました、その中には弥千代の義父となった松平胤に対して、「身内である水戸藩への監督ができていなかった」という理由の厳重注意も行われたのです。

そして、婚礼の2年後に桜田門外の変が起こり直弼が暗殺されると、井伊家に対する幕府の風当たりが強くなったのでした。
彦根藩はこの後、10万石が減俸され、直弼の罪を償い続けたのです。

そんな実家の影響が弥千代の生活にも響きました高松藩士達に追い出されたのか、自ら「高松藩や聰に迷惑がかかる」と口にしたのかは想像の域を出ませんが、弥千代は彦根に戻ってきたのです。
この時、雛道具も弥千代と共に彦根にやってきたのでした。
桜田門外の変で離れ離れになった若い夫婦をよそ目に、世の中は大きな革新の時代を迎えます。

やがて明治維新が起こり、江戸幕府そのものが無くなりました。そして、離縁から9年後、聰はもう一度弥千代を妻に迎えたのです。
二人はその間お互いの事を想い続けていたのでした。
伯爵夫人として迎えられた弥千代でしたが、その再嫁道具の中に雛道具は含まれず、彦根に残されたのです。

昭和41年8月15日、この話が縁で彦根市と高松市は姉妹城都市の提携が行われ、以後深い交流が続いているのです。

毎年、彦根城博物館で行われるテーマ展『雛と雛道具』では、彦根に残された井伊弥千代の雛道具が展示されます。
優雅で繊細な大名文化を楽しむと共に、婚家ではなく実家に残された婚礼調度が見つめた歴史にも思いを馳せてはいかがですか?


平成19年は2月9日~3月18日までです。
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天秤櫓

2007年02月05日 | 彦根城
彦根城の代表的な建物の一つで、ドラマや映画の撮影で使用される頻度が高い物の中に天秤櫓があります。

表門と大手門から天守に向かって城山を登って両方の道が合流する所で出会う建物がこの天秤櫓です。鐘の丸から廊下橋を経て正面に見える門を中心に、左右対称に二階建ての櫓が建つ多聞櫓の形が荷物を乗せた天秤の形を連想させる櫓としてこの名前が付けられたと言われています。

しかし、実際にその建物を見てみると、櫓の向きや格子窓の数、そして幕末の大改修の影響で石垣の積み方も違っていて、決して左右対称という訳では無いのですが、妙に均等の取れた姿は芸術的でもあり、軍事的な美しさも感じられます。

さて、彦根城はリサイクル城として近江各地の城から建物が移築されて来たという話はもうしつこい程しましたが、この天秤櫓もその例外ではありません。
では、どこのお城から持ってきた物かと言うと、井伊家の資料では長浜城大手門からの移築だと記されています。
長浜城といえば、豊臣秀吉(とよとみの・ひでよし)が、まだ織田信長の重臣として羽柴性を名乗っていた頃に、浅井長政の旧領だった湖北地域を信長から与えられた時に築いた城として有名ですね。
そんな長浜城は、山内一豊が城主だった時に天正地震の被害を受けて建物が一部崩壊します。この時、一豊の娘・よね姫が建物の下敷きになって亡くなった話は大河ドラマ『功名が辻』でも描かれていましたね。

そして、一豊が掛川に領地代えになった後は江戸時代まで領主が置かれませんでしたが、1606年に徳川家康の異母弟・内藤信成が4万石の領主として入城し大改修を行います。

1615年に長浜が彦根藩領に組み込まれた事から、城が解体されて建物や石垣が彦根城に移築されたのです。
その証拠に、天秤櫓の解体修理時の調査では、内藤家の紋が入った瓦も見つかっています

1615年は、当時の藩主・井伊直孝が世田谷で猫に手招きされた年でもあります。その年に天下人まで出世した秀吉の城を自分の居城に組み込む事ができた運命こそが、井伊家が幕府最高職の大老にまで出世する礎だったのかも知れませんね。


追記:
豊臣秀吉の読み方を敢えて「とよとみの・ひでよし」と書いた事は、彦根の歴史とは全く関係がありませんが、余談として書いておきます。
豊臣姓は、源平藤橘に並ぶ第五の姓として帝から与えられた本姓ですが、名字はその没時まで「羽柴」でした。
本姓を名乗る時は源義経や平清盛のように、姓と名の間に氏への所属を意味する「の」を入れて読むのが原則ですから、正しくは「とよとみの・ひでよし」となるのです。

ついでにもう一つ豆知識。
秀吉は猿に似ているから秀吉を扱ったドラマや物語でも「サル」と呼ばれていたように一般的に広まっていますが、実際は関白になった時にその出身が低い事から、民衆の落書に“さる関白(どこの誰とも分からない関白)”と書かれた事がこの呼び名の伝説となりました。
したがって信長は秀吉のことを「サル」と呼んだ事は一度も無く、別のあだ名がありました。
そのあだ名は「六ツめ」というモノで、右手の親指が2本ある多指症だった秀吉の風貌を表したものだったのです。
(今回は、史実を伝えるために敢えて使いましたが、差別的な表現とも言える言葉ですので、今後も使わないでいただきたい言葉の一つです。)
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2月1日、井伊直政死去

2007年02月01日 | 何の日?
慶長7(1602)年2月1日、井伊直政が佐和山城で亡くなりました、享年42歳。
当時としても若すぎる氏といえる直政の死因は、1年半前に起こった関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷によるものだったといわれています。

直政と徳川家康の関係については以前『徳川家康と井伊家』という項目で触れていますのであまり深くは書きませんが、直政は家康の家臣の筆頭と目されてもおかしくない逸話が幾つか残っていますので、それをご紹介しましょう。

・直政が亡くなる原因となった関ヶ原の戦いでの事。
戦いの終盤で島津義弘軍が家康本陣近くに突撃して撤退すると言う前代未聞の撤退戦を開始し、これを追って果敢に戦ったのが直政だったのです。
その時に島津軍が放った鉄砲の弾を受けて倒れた直政に対し、戦いの後に徳川家康は自らの手で薬を付けて手当てをしたのです。
この時、家康の四男で直政の娘婿だった松平忠吉も怪我をしていたのですが、息子よりも直政が先だったのです。

・豊臣秀吉にも愛された直政
小牧長久手の戦いで家康に敗れた秀吉は、どうにかして家康を臣下にしたいと考えて、妹・朝日を家康の正室として送り、自らの母・大政所も人質として家康の居城・岡崎城に行かせたのです。
この時、大政所を警護したのが直政でした。
直政の丁寧な饗応を伝え聞いて、感動した秀吉は、直政に注目するようになったのです。
そして、“豊臣姓”を与えられたのでした。直政は井伊家は藤原氏の末裔だからと言う理由でこれを辞退した居ます。
しかし、秀吉の興味は冷めず、天正16年に秀吉が後陽成天皇を聚楽第に招いた時に家康の配下として唯一秀吉直属の大名と同席に参列したのでした。
この時に“井侍従藤原直政”と記した記録が残っていますが、陪臣でありながら侍従と言う官職に正式に就いていた事を示す貴重な資料とも言え、それだけ秀吉の信頼も厚かったのです。

・死後のこと
直政死去の報せを受けた家康は大いに悲しみました。
そして、直政の死に顔を見たいとして、至急に佐和山に使者を送って直政の遺体を保管するよう指示したのです。
こうして直政の遺体は、領内の河内の風穴で保管されて、家康との対面を果たしてから葬られたのでした。


こんな逸話がある直政ですが、実は恐妻家だったという一面も持っています。
直政の正室は、家康の養女となった松平康親の娘でした。この正室には頭が上がらなかったそうで、以後井伊家は徳川家と婚姻を結ぶ事を禁じる遺言を残したと言われています。
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