彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

千代神社の扇おみくじ

2016年05月31日 | 史跡
芸能の神様で彦根市内では一目置かれてる千代神社。

ここには扇おみくじという面白いおみくじがあります。
5年ほど前に一度引いたことがあるのですが(トップ写真)、久しぶりに引いてみました。
神社の由緒が書かれた紙に包まれています。

小さな扇が入っていて

開くと運勢が書かれています。

運勢が良いと、残したくなりますし、それに値するくらいに素敵な物です。


所在地 彦根市京町2丁目
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桶狭間古戦場訪問16 桶狭間古戦場伝承地(高徳院)

2016年05月29日 | 史跡
豊明市の桶狭間合戦伝承で今川義元が本陣を置いた地とされているのが高徳院です。

この地には文政年間に歌人の香川景樹が詠んだ句碑もあります。ちなみにこの香川景樹が志茂田景樹さんのペンネームの由来になっています。

また墓所には、松井宗信の墓がありますが、この地で宗信が討たれたために墓が建立されたとのことです。



桶狭間の戦いを調べていると妙に松井宗信の名前をよく見かけます。二俣城主で戦いの時は義元本陣近くで戦い討ち死にしたとのことですが、そのような武将は今川家中には多く不思議に感じています。
一つの考え方としては、子孫が尾張藩に仕えていたからとの説も立てられるのですが、明確な答えにはならない気もしています。

さて、桶狭間古戦場関連値はまだまだありますが、訪問できなかった場所も多く、紹介はここまでです。


所在地 豊明市栄町
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桶狭間古戦場訪問15 桶狭間古戦場伝承地(慰霊)

2016年05月27日 | 史跡
桶狭間古戦場伝承地から道を挟むと高徳院となるが、その間にいくつかの石碑が並んでいる。
前回書きました今川義元仏式の墓もここに並んでいます。

・徳本の名号
桶狭間の犠牲者を慰霊するため文化文政期の徳本行者が建立したと案内されています。




・お化け地蔵
古戦場であるこの地には、後々まで馬の嘶きや兵士の声など戦いの音が響いたためこのお地蔵様を建立したところ声が聞こえなくなったとの伝説があります。

小学生低学年の時、祖父にこの地に連れてきてもらったことがあるのですが、今の説明を聞いて怖かったことを30年以上ぶりに訪れて祖父の顔と共に思い出しました。

・阿闍梨締念の墓

なぜかここに建立されているのですが、誰なのか調べても解りませんでした。
ただ、阿闍梨という高い位の御坊様であること、諦念とは「道理を悟り、自らを律する」という意味であることから、徳の高い僧侶の墓と思います。


所在地 豊明市栄町
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『「直虎」と「直政」彦根につながる井伊家の系譜』聴講

2016年05月26日 | 講演
彦根市でもついに井伊直虎を知ろうとする動きが始まりました。
彦根市議会議院さんが作られた議員連盟主催で、井伊家の現当主・井伊直岳さんによる講演『「直虎」と「直政」 彦根につながる井伊家の系譜』が行われました。


井伊家の始まりとなる井伊共保が井戸で拾われた伝説から、『保元物語』の井ノ八郎、『吾妻鏡』の記述、南北朝時代の井伊家から、今川家との確執。
そして、直平、直宗、直満、直義、直盛、直親が今川家に関わったために不幸な亡くなり方をしたこと、直虎が今川氏真からの徳政令要求を突っぱねていたが、遂に今川家の命に従わざる得なくなりその時点で井伊谷の地頭としての終焉を迎えたこと、そしてその後の直政の活躍と、新参者であるはずの直政が、徳川家康との近い血縁を持っていたことなどを話されました。

今の彦根市民が目指すべき直虎の情報を感じてきました。

質問として、
直虎という名前は、虎松(直政の幼名)に繋ぐ意思表示なのか?と訊ねますと、「ドラマとしての演出とするならば面白いかもしれません」とのこと。
また、井伊家当主として大河ドラマのどの人物に注目するといいと思いますか?と訊ねますと、直親とのお返事でした。

終演後に、直平がこの頃の井伊家の重要な人物ではないか?とのお話もいただきました。

これから、もっと学んで彦根から発信する井伊直虎を盛り上げて行きたいです。
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桶狭間古戦場訪問14 桶狭間古戦場伝承地(今川義元の2つの墓)

2016年05月26日 | 史跡
桶狭間古戦場伝承地には今川義元の墓が2基建立されています。

まずは、自然石を使った墓石の墓で、江戸時代の早い時期から桶狭間伝承地とされていて、明和8年に討死の地の七石表が建てられた場所の隣です。もともと塚があったのを明治期に墓が建立されました。




もう1基は仏式の墓で三百回忌の万延元年(1860)に建立されたそうです。
ただ、三百回忌なら前の年になると思うので、三百周忌の誤りではないか?とは思います。



ほぼ同じ範囲の中で、同じ人物の墓が2基も建立されることを考えると、今川義元は尾張にとってただの侵略者というだけではなかったように感じます。もしくは、徳川家が源氏を称するうえで、新田系の徳川氏とは敵となる足利系とはいえ、源氏の名門だった今川家に対する敬意があったのかもしれませんね。


所在地 豊明市栄町
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桶狭間古戦場訪問13 桶狭間古戦場伝承地(概要)

2016年05月25日 | 史跡
豊明市の桶狭間古戦場は伝承地として整備されていてお休みの日はボランティアガイドさんもいらっしゃいます。

以前にも書きました通り、このたびの桶狭間古戦場訪問の目的は井伊直盛の動向を検証することでしたが、この地に訪れてすぐに声をかけてこられたボランティアガイドさんにその旨を伝え、緑区の古戦場にも寄ってきてあちらでは「巻山」がそうではないかと言われたことを話すと、急に挑むような口調で「本当の戦いはどこであったと思います?」と問われました。
ん?と思いながらも「関ヶ原では町全体が古戦場になっているように、戦場が狭いわけがないのだからどちらも古戦場だと思っています」と答えたなら、「関ヶ原とは戦った戦力が違う」とか「どこで義元が討たれたかということが大切」との話になり、ついには一つの石碑の前で、戦いの50年ほど後には尾張藩主によってここが古戦場と認められました…」との話になりました。

他にも、「その頃の絵図ではこの地に碑が建っていたことがわかる」とか「緑区では遺物が出ていないけど、こちらでは出ている」との話を次々話されたのですが、管理人の訊きたかった井伊直盛の動きについては資料がないのでわからないとのことで、ここでも「緑区では資料になくても勝手に作る」と言われていました…
当事者が相手を認めない気持ちはわかりますが、それをお客にぶつけてどうするんだろう?との疑問は残りました。
ちなみに、
絵図については、もともとこの地も古戦場であったことは間違いありませんし、東海道沿いで簡単に立ち寄れる場所だったので、早い段階で観光地としての案内碑が建っても不思議ではないと思います。
遺物については、この地の物は沼地か池のような水に沈んでいたものだった可能性が高いとのことでした、そうでなければ戦いが終わった後に民衆にとって甲冑や武器などが奪われてしまうので基本的に残ることはなく、遺体も野ざらしにされていたならいずれはなくなりますし、七ツ塚や戦人塚の伝承のようにまとめて埋めたならばその土の中で徐々に分解されて行く最中のような気がします。ですから「遺物がない=合戦が無かった」にはなりません。
こういう意味では、ちょっと気分を害する場面もあった場所でした。

この後、もっと詳しい方に代わってくださいましたが、やはり直盛の動向は解らず…
この話の中で、「直盛の息子が直親でその子が直政」という話が出てきましたから、「直盛と直親は従兄弟であって直接の血縁関係はない」との返事をしましたが、この方は本当によく調べられていて資料重視の歴史を知りたい時には勉強になります。

そんなガイドさんとの話から離れ、史跡を見渡すと古戦場地の石碑や

明和8年(1771)に建立されたという七石表という石碑があります。
七石表すべてを紹介しても似たようなものばかりになりますが、一番重要な今川義元討死の碑を紹介。





今回はちょっと愚痴が入りましたが…
他にも、いくつかの大切な石碑がありますので、次からも紹介します。


所在地 豊明市栄町
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桶狭間古戦場訪問12 戦人塚

2016年05月24日 | 史跡
今回からは豊明市の遺構
戦人塚は、桶狭間の戦いの犠牲者の屍を集めて葬り、毎年曹源寺の和尚が回向している塚です。

案内板によると石碑は元文4年(1739)に百八十回忌をきっかけに建立されたとのことです。

冷静に考えろと、訪問した時に踏んでいる石碑の下の土の中はすべて遺体なのかと思うと結構なホラーです。
(これは、七ツ塚でもふっと感じたことでしたが…)









所在地 豊明市前後町戦人塚
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桶狭間古戦場訪問11 長福寺

2016年05月23日 | 史跡
桶狭間古戦場公園の近くには、合戦後の首実検の地としての伝承を残す長福寺があります。
当時から同じ寺号であったのかは諸説ありますが、何らかの寺はあったようです。



山門を入ってすぐに見えるのは供養杉で、桶狭間の戦いの後で今川義元を始めとする今川勢の武将の首実検を行ったとされている場所です。



供養杉は、伊勢湾台風で折れてしまい現在の杉は二代目になるそうです。

また、供養杉の下には昭和になってから供養塔が建立されました。



血の付いた刀などを洗ったという池も残されています。

これ以外にも、長福寺には今川義元と一種に討ち死にした重臣の松井宗信の木像が寺宝として残されています。


所在地 名古屋市緑区桶狭間

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桶狭間古戦場訪問10 七ツ塚

2016年05月22日 | 史跡
七ツ塚は、緑区の桶狭間遺構の一つですが、豊明市の桶狭間案内の人が唯一認めている緑区の桶狭間遺構だそうです(豊明市が桶狭間を認める権限もありませんが…)

桶狭間の戦いの後で織田信長がこの辺りに等間隔に7箇所の穴を掘らせて犠牲者を埋葬し、石塚を建立させました。
江戸時代の地図にも3箇所は確認できます。
この塚に触ると祟りがあるとの伝説があったそうですが、平成になり一つにまとめられました。

祟りはなかったのかな?





所在地 名古屋市緑区桶狭間北2丁目
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井伊家千年の歴史(7)

2016年05月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡。私たちは一つの武家政権が終焉を迎える時、そこに仕えた人々や最高権力者の一族が一緒に歴史から消えるようにイメージしている。しかし幕府終焉において権力者一門に大きな悲劇が起こったのは北条氏のみであり、室町幕府や江戸幕府でも終焉時に将軍の命は長らえている。この点において鎌倉幕府の滅亡は政治の大転換期であり、その流れに反発した武士が南北朝時代という動乱を引き起こしてゆく。
井伊家の歴史を俯瞰すると、南北朝時代が後々までの井伊家の方向性を決める影響力を持つことになったのがうかがえる。
 さて、南北朝の騒乱といえば、天皇親政を目指す後醍醐天皇と、武家政権維持の必要性を説いた足利尊氏が招いた混乱の時代とおもわれがちだが、実は天皇家の内紛にその原因がある。後醍醐天皇の曽祖父後嵯峨天皇に母を同じくする二人の皇子がいた。この兄弟の弟を溺愛した後嵯峨は、まず兄に即位させた(後深草天皇)が、14年後に弟に天皇の位を譲らせ(亀山天皇)、その子を皇太子にしたのだった。後深草は後嵯峨の崩御後にこのまま亀山系で天皇の位が続くことに不服を覚え、鎌倉幕府に訴え出て何度かの騒動ののちに天皇の位は後深草系(持明院統)と亀山系(大覚寺統)が10年交代で即位することと決定する。大覚寺統の後醍醐はこのルールに不満を覚え、倒幕の意思を固め実行したのだった。しかし、持明院統から見ればやがて皇位が来ると思っていたら後醍醐の勝手な行動によってルールが無視された形になったので足利尊氏の誘いに乗り尊氏の都合がいい天皇として即位するのである。こうして後深草系―持明院統―北朝と亀山系―大覚寺統―南朝が誕生した。
 この頃、天皇家も独自に荘園を管理していて後嵯峨が崩御したときに後深草・亀山兄弟は荘園を分けて相続した。南北朝初期において荘園とその地の豪族とが密接な関係を結びそれぞれの朝廷に味方したと考えられていて、井伊家もその例に洩れなかった。
 井伊谷の近くにある気賀荘や都田御厨などが南朝方の荘園であり、井伊家は自然の流れの中で南朝に従うようになっていったのだった。このときの当主は10代井伊直行だったと言われている。
 鎌倉幕府滅亡と後醍醐による建武の親政の失敗によって全国に広がった内乱は遠江国内でも他人事ではなく、井伊家も井伊谷より険しい山に三岳城を築城、周囲には出城を幾つも築いて戦いの準備がなされてゆく。同じ頃、京都で戦う南朝の有力武将新田義貞の軍勢に井ノ次郎という人物の名前も見ることができるのだ。井ノ次郎に関してどの人物であるかは特定されていないが、個人的には後に渋川氏を称する上野氏の一人だと考えている。
 そして遠江では、この先井伊家と長く深い因縁を持つ駿河今川氏の初代当主今川範国が北朝の遠江守護職として井伊家に対峙したのだった。

三岳城跡
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