彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

観音正寺で『寺ヨガ』体験報告

2011年05月31日 | イベント
5月29日、観音正寺で『寺ヨガ』が行われ参加してきました。
この日は、台風2号の影響もあり大荒れの天気。

集合場所の石寺楽座から観音寺のあるを見上げても、雨は止みそうもない気配でした。

本来でしたら、白洲正子さんが登りながら雑念を消していったという1200段の石段を登って行く予定だったのですが、雨の為車でお寺の近くまで行くことになりました。参加者の方からは「石段を登ってみたかった」との意見もあったそうですので、天気が良い日のリベンジを期待したいですね。




寺ヨガの会場は、書院です。

玄関には、不思議な衝立があり、真ん中に空いた穴から奥の置物が見れました。

やせ細った僧を祈っている姿です。

ちなみに中から衝立の穴越しに外を見ると…

何とも、のどかな風景が絵のようになっていますね。

ここで、まずは岡村瑞應住職のお話を伺いました。

平成5年に焼失し、平成16年に再建された観音正寺のその道のり、そしてインドでマザーテレサの軌跡を追われたお話。

マザーテレサは、亡くなる寸前の人を“死を待つ人々の家”に連れて行き、そこでその最後を看取ったそうです。死の直前、マザーテレサは亡くなる人の1錠の薬を与えたそうです。「亡くなる人に与えるより、生きる人のために使う方がいいのでは?」との意見に対し、「亡くなるからこそ、与えるのです」との返事だったとか・・・
死を待つ人々の家に連れてこられる人は、人間としての人格すら与えられなかった人々であり、親も世間も自分自身すらも恨んだ人でした。そんな人が最後の最後まで生まれたこと、生きたことを恨み続けるより、人間らしい薬を与えられマザーテレサに看取られることで人間として、マザーテレサを感謝して「ありがとう」と死んでいける。そのために必要な1錠とのことでした。
人はいずれ死ぬ、だからこそ死ぬまでちゃんと生きなければならないのですね。

そんなお話をお聞きし、感動の中でもう一つの感動が!

本来でしたら書院で行う寺ヨガを、本堂のご本尊の横で行うことになりました。
雨が霧となり、幻想的に内陣を包んでいます。
 
繖山の上に建つ観音正寺から麓を見る時、この霧によって天界にいるような雰囲気をみせてくれました。

内陣の中には、今では日本に輸入するのがほぼ不可能となっている白壇の原木があり、白壇で作ったご本尊があります。

ご本尊の阿弥陀様は、右手に太陽、左手に月を掲げられていて、下の手に行くほど現世にある物を持っておられるそうです。また、そのお顔は一周すべてに表情が違うのだとか。

祈願の紙を頂きました。

これで願い事をしながら、ご本尊を磨くのですが、たくさんある御手の中には唯一何も持っておられない場所があり、ここは人を救いあげる為にあるのだそうです。
やはりその手を集中的に磨いてしまいますね。

残念ながら内陣の御本尊などは撮影できません。
今回の講師である佐川まゆみ先生のお姿や、中の様子は、他のHPを探していただくと嬉しいです。佐川先生は、聞いた人が安心する声やお話のされ方で、とてもきれいな先生でした。
素敵な先生、白壇の香り、ご本尊に見つめられた空間、そして内陣に流れる独経、雨の音さえも、この雰囲気に合わせた当たり前の風景と感じるような中で1時間半のヨガが行われたのです。


終了後…
書院では岡村就職が茶粥を作って下さっていました。
最後に抹茶を振る作業をみせていただき…

完成

お味噌、梅干し、沢庵などの味を足しながら頂きました。

素朴ですが、日本人の心に訴える味です。

すべてが終わった時、雨も少し上がり、麓の景色も見えていますね。



観音正寺は、聖徳太子が人魚に懇願されて建立されたお寺と言う伝承がありますので、太子様の像もあります。人魚のミイラも平成まであったのですが、今は写真のみ伝わっています。


観音正寺の寺ヨガは、今回スタッフも含め19名の参加がありました。
金額は3,800円と決して安い物ではありませんでしたが、本物の空気に触れた中での貴重な時間となったのです。
今回は試験的な意味合いも多分にあったようですが、反省も踏まえて、秋あたりに再び開催したいとのことでした。

募集人数はそんなに多くできないはずですので、たぶん先着順か抽選になるようなときも出てくると思います。
興味がある方は、情報を常にキャッチしてくださいね。
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150年前:第一次東禅寺事件(5月28日)

2011年05月28日 | 何の日?
文久元年5月28日、水戸浪士14人が江戸高輪の東禅寺を襲撃しました。

当時、東禅寺にはイギリス公使ラザフォード・オールコックが滞在し、仮のイギリス公使館としての機能を果たしていたのです。
オールコックは日本から香港に渡り、4月22日に長崎に戻ってきて陸路で江戸まで戻ったのです。その到着が前日の5月27日でした。
水戸浪士の有賀半弥らは、この行為が「神州を汚す」として東禅寺襲撃を決行したのです。

しかし、この時の東禅寺には郡山藩と西尾藩の藩兵が200人近く警護の任に就いていたのです。
午後10時頃、有賀らは夜陰に紛れて東禅寺に侵入し、警護の兵と斬り合いになりました。その隙をみて数名が建物の中に侵入したのです。
一等書記官のローレンス・オリファントは、鞭で日本刀に立ち向かう勇敢さをみせ、長崎から同行していた長崎領事ジョージ・モリソンは拳銃で抵抗しました。この二人がイギリス人の中での負傷者となりますが、イギリス人の死者は出ませんでした(2名は秋にイギリスに帰国)。

警護の兵は20人の死傷者が出て、水戸浪士14人も有賀ら3名がその場で闘死、3名がその場か逃走先で自害し捕縛された者もいました。
しかし、現場から逃走した者も居て、黒沢五郎と高畑総次郎は坂下門外の変に参加し、岡見留次郎は天誅組の変に加わったのです(いずれもその時に死亡)。


事件の後、オールコックは幕府に対して抗議し、諸外国もこれに同調します。幕府は各国公使館の建設と賠償金の支払いを行うこととなったのです。
また、郡山や西尾の藩兵は、幕府の命で警護をしているのに、御三家の旧家臣に襲われという矛盾に悩むことになるのです。
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『幕末土佐人物伝』講演聴講報告

2011年05月27日 | 講演
5月26日に、
ひこね市民大学講座 歴史手習塾の セミナー7『幕末を駆け抜けた志士たち!』
2回目の講演として「幕末土佐人物伝」と題されたお話がありました。
講師は高知県立坂本龍馬記念館主任学芸員の三浦夏樹さん。


土佐藩の身分制度が、『龍馬伝』で描かれたような過酷さではなかったこと、土佐藩では天明庄屋同盟というものがあり、庄屋は天皇直属の家臣であるという考えから尊王思想が高くなり、その中から吉村虎太郎や中岡慎太郎の活動があったこと。
武市家は、江戸初期からの土佐藩の家臣であり、藩に対する忠誠が高く、坂本家は江戸中期に郷士となった新規郷士であり、龍馬は次男坊だったために脱藩しても罪には問われる立場ではなく、武市半平太とはおのずと立場が違ったこと。
などの話がありました。

また、土佐の人々の気質は、個人の信念が強く、藩として纏まれなかったために大きな勢力にはなりえなかったそうです。
吉田東洋を中心に藩を纏めていけば、もっと大きなことができたのかもしれませんね。


そして恒例の《質疑応答》
(質問者)
脱藩についてお話があり、長男は罪を受けるけど次男はそうでもない。というのは土佐藩だけだったのでしょうか?
海援隊は脱藩した者を受け入れましたが、追手はいなかったのでしょうか?
また、国を出るときにどういうルートを通っていたのでしょうか?
(三浦氏)
他の藩でどうだったのかは、個別に当たったことがないのでわかりませんが、おそらくほぼ同じような状況だったと思います。跡取り以外は正式な藩士ではないので、龍馬の身分は慶応3年でも最後の最後まで、“土佐藩郷士坂本権平弟”であり“郷士坂本龍馬”ではありません。これはどの藩でも同じだと思います。次男坊以下はよほど大きな事件を起せば別ですが、そうではない限りは一家に類が及ぶことは他の藩でもあまりないと思いますが、それぞれの藩で微妙に法律が違うので、多少の違いはあると思います。
追手があるかどうかですが、脱藩した人について土佐藩は厳しい目を光らせています。それは脱藩した者が朝敵になるかもしれないことを恐れました。土佐藩出身者が朝敵になれば朝廷に対して悪い印象が起こるわけです、ですから常に密偵をつけていますが、無理やり連れ戻すことはありません。多くの場合は国を想って出ていますのでよほど道から外れない限りは処罰をすることはありません。
ただ、関所を越えようとしたときに簡単には越えさせないので、そこで見つかれば連れ戻されます一旦出てしまえば、無理やり連れ戻すことはしていませんが、関所の越え方も大きな問題で、脱藩が秘密の行動なので記録を見たことがありませんが、おそらく関所を迂回するか、場所によっては関所の役人自体が理解を示して見逃してくれますが、記録には残りません。

(管理人)
彦根藩と関わる話として『人民平等の理』が出てきますが、お話の最後で「高知県の人たちは個人的な意見があり、議論が多く、纏まりがない」とのことでしたが、『人民平等の理』から自由民権運動にいたるまで、上士から自由民権運動が起こり、高知が纏まったと思うのですが、このときはなぜ纏まって行ったのでしょうか?
(三浦氏)
ひとつには薩長の世の中になって行く中に維新で大きく活躍をした土佐が入り込む余地がないところから、薩長に対抗する意識から纏まったのではないかと思います。
自由が抑えつけていた上士から出たのは不思議なところがありました。諸藩に先駆けて『人民平等の理』が出て来て実践していくのも土佐です。それまでは山内家と土佐の侍が纏まることはできなかったのですが、やはり戊辰戦争を経て、薩長に対抗してひとつの藩の力として纏まるのは、タカがひとつ外れたのだと思います。それまでは身分の問題を乗り越えることができなかったのですが、明治維新でそれを捨てるときに、上士ももっと早く捨てたいという想いがあったのでしょうができず、戊辰戦争がひとつの契機になったと思います。非常に難しい問題です、下士からそれが出たとなると説明しやすいですが、上士からというのは私も不思議な問題です。

(管理人)
井伊直弼には、どのようなイメージをお持ちですか?
(三浦氏)
私は、吉田東洋と井伊直弼は非常に似た立場だと思っています。二人とも政治家としては有能で、当時としてやるべきことをやった人物です。井伊直弼のやったことは、今までの徳川家の政治を見ると当然のことをしていて、将軍継嗣問題での血の濃さも当たり前のことだと思います、しかし幕末という特殊な時代ですから他の考え方が出てきたわけですが、東洋も直弼も、もっと評価が高くなるべきだと思いますが、そのあと権力を握る人たちによって虐げられたと思います。




来週は、『幕末薩摩人物伝』です。
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5月25日、宝暦治水終わる

2011年05月25日 | 何の日?
文化の歴史は治水の歴史と言っても過言ではありません。四大文明は全て大河流域で誕生し、水の恵みが土壌を豊にして作物を育て、富を得た者が文化を構築するからです。
領民の財産を守る事が権力者の仕事であるならば、川の水を富の生産だけに利用して破壊活動を抑える治水は権力者の大きな責任でもあり力の象徴でもあったのでした。
日本でも古墳時代には治水を含む大規模な土木工事を行っていたのです。古墳を作るだけの大規模な土木技術が治水にも利用されたのでした。特に日本の河川は、別のページで登場する明治時代のオランダ人河川技術者ヨハネス・デ・レーケが「これは川ではない滝である」と言ったくらいに急な流れ(これは特に流れの激しい常願寺川の話)もあるような土地柄だった為に、大きな権力を持ってしても安全な土地を確保するのは難しかったのです。
江戸時代後期、そんな日本の河川の中でも特に厳しい地域の治水工事に取り組んだのが薩摩藩でした。
 
海抜0メートル地域であり、その中を木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)とその支流が網の目のように絡み合う濃尾平野。木曽三川はそれぞれに川底の高さが違った為に一番高い木曽川が溢れると他の2川も連鎖的に氾濫して大きな被害をもたらすので“暴れ川”とも呼ばれていました。水害の回数は江戸時代の記録で145年の間に111回残されています。
美濃国(岐阜県)に住む木曽三川流域の民は、助命檀という高い土盛りを作りその上に寺社を建立して食料を貯蔵し、洪水が起こった時にはその上に人々が集まって水が引くのを待ったのです。
現存する決して広いともいえない助命檀の上に立つと、2~3メートル以上はあるであろう高さに驚かされます。いつ引くとも知れない水に怯え体力や精神力の弱い者から脱落する、端から土が崩れてくる、そんな極限の状態の中ふっと川向うに目を移すと養老山地が間近に見えるのです。「あの山まで行けたならば…」「せめてもう少し丈夫な堤防ができたなら」との怨嗟の声が聞こえてきそうになります。

雨が降る度に洪水に怯えて暮らしていた美濃の人々は、幕府に何度も治水工事の願いを出しました。この願いが受理され、木曽三川治水工事の御手伝普請命令書が宝暦3年(1753)12月25日付で薩摩藩に渡されたのです。
幕府は工事の見積もりを15万両(約150億円)と算出されていて、これは薩摩藩の負担となるのでした。薩摩藩では幕府に謀叛を起こす強硬的な議論まで出るほどにこの命令に反発しましたが、家老の平田靱負が「武士として民を守るのに薩摩も美濃も分け隔てはある筈がない」と説いて翌年2月27日より治水工事に取り掛かったのです。

しかし、宝暦治水は純粋な作業ではなく江戸幕府による薩摩藩潰しが本来の目的でした。幕府による無理難題や常識外れの締め付けが日常茶飯事に行われ、場合によっては完成した堤防を幕府の役人が壊すような横暴も行われたのです。
これに耐えられずに薩摩藩士の中には切腹する者が続出します。この切腹が幕府への諫言と解釈されないように、平田靱負は腹を切った藩士全てを怪我による死として届け出たのです。工事期間中の薩摩藩の犠牲者は約100名。この内切腹者は約60名と言われていますが、新しい資料の発掘があればまだ増える可能性も示唆されています。
耐えに耐え抜いた治水工事は、木曽川と揖斐川が合流する油島に背割堤(川分堤・締切堤)を築く事で完成となり薩摩藩士が造った堤防には藩領から運ばれた日向松の苗が植えられました。現在油島にある治水神社から川沿いを下流に向けて続く千本松原は「この地に深く根を据えて、美濃の民を守るように」との250年以上前の強い想いを伝えてくれています。
宝暦5年3月28日に全ての工事が竣工。5月22日までに幕府の検分役が見回りその出来栄えに感嘆の声を上げたのです。1年以上に及ぶ工事はここに終了し、薩摩藩士は薩摩への帰路に着いたのです。治水工事に使われた費用は予算を大きく超える40万両(約400億円)になり、薩摩藩が後に金策の為に行った藩政改革が倒幕の動力源と資金源になるのです。

宝暦治水を扱った物語ではこの先の場面を殆ど同じ切り口で描いています。
“薩摩に向かう藩士たちは頭を垂れ、ただ黙々と荷支度をして美濃の地を離れて行った。これを見送る民は、藩士たちの姿が見えなくなるまで深々と土下座をして感謝の意をしめした。しかし精魂を使い果たした薩摩藩士たちは、そんな美濃の民にも何の感情も示さずに、重い脚を引きずって歩いて行ったのだった。
その道中で藩士たちは最後の犠牲者の報に接す。5月25日、平田靱負切腹…
彼らは辺りを気にせずに叫びながら男泣きに泣いた。これが薩摩藩士らの宝暦治水後最初の感情であったかもしれない”



平田靱負が腹を切ることで宝暦治水の工事責任を個人の罪としたのです。薩摩藩は犠牲者の家名を残す代わりに家族に口止めをし、記録から抹消された宝暦治水は薩摩藩内で忘れられた物語となりました。この犠牲者の中には明治立役者の一人でもある黒田清隆の先祖も含まれています。
約110年後に明治維新が起こり、恩を受けた美濃の民が子孫に語り継いでいた事で公の出来事となり地元資料から再検証が行われて“薩摩義士”として称されるようになったのです。
 
昭和30年代に発刊された『彦根市史』に平田靱負の先祖が、彦根市平田町に在った平田城(福祉保健センターより北東に50mほどの地域)の城主・平田宗左衛門高慶だったとの説が掲載されています。薩摩平田氏の出自については他にも数説あり彦根平田氏の末裔である確実性は低いかもしれませんが、興味深い説ではないでしょうか?
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三雲城址訪問

2011年05月22日 | 史跡
今回は湖南市の三雲城に向かいます。
道中は幟が立っていてわかりやすく、地元の期待度がそのまま訪問する管理人の期待度にもなりました。

しかし到着して山を登ると、近代的な石垣が登場し、ちょっとガッカリしちゃいました。

「もしかして、ここの石垣は観光誘致のための詰み直しか?」と期待度が激減。

でもこれは後で誤解だとわかりました。近代に採石場になっていた時の遺構だったそうです。


そして本来の城に到着

広い曲輪

枡形虎口に詰まれた石垣





 
穴太詰み(らしい)井戸

または高低差の激しい土塁や深い堀切

そして自然巨石を巧みに利用したり





これは充分に見学に値する山城でした。


織田信長に攻められた六角義賢が逃げ込んだ城として知られていますが、六角氏は信長以外でも近江を攻められると甲賀に逃げ込んでゲリラ作戦を行っていて、その時の甲賀での拠点となる城でした。
そんな六角氏(佐々木氏)の拠点であることを示したようなものが、八丈岩という、巨石群に残っています。

城内でもとくに見通しがいい場所にあるのが八丈岩です



岩の裏にロープがかかっていたのですが、ここを登るのでしょうか?

管理人には無理です。
岩の下の隙間が妙に怖くて不思議です。

この八丈岩と同じところにはいくつかの巨石があります

その一つにこんなものがあります。

佐々木氏の家紋が彫ってあるそうです

上の写真の案内板の左上辺りをアップにしました。

わかりましたか?

でも、これを観て不思議に感じました。
「一体誰が彫ったんだ?」
佐々木氏の城にある物なら、他の城でも案内されているでしょうが、そんな話を今まで訪問した城で訊いたことがありません。
家臣がこんな不敬はしないと思う。
じゃあ、この城を落とした織田信長の家臣の誰かがするか?と言えば、これも意味がない。
では、後世のいたずらか?
でも、それも今一実感がわきません。
この家紋を彫った誰かの物語。考えれば考えるほどわかりませんが、そんな誰かを勝手に妄想して短編の物語が書けそうですよね。
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150年前:無礼斬り事件(5月20日)

2011年05月20日 | 何の日?
文久元年(1861)5月20日、清河八郎が町人の首を斬る、無礼人斬り事件が起きました。

当時は、虎尾の会という尊王攘夷グループを主宰していた清河は、幕府からも目を付けられている存在で、ちょっとの隙でも捕縛できるように監視されていたのです。
そこまで監視された理由として、横浜外国人居留区焼打ち事件を画策したことや、ヒュースケン殺害事件の犯人とされている伊牟田尚平を匿った疑惑があったからでした。


5月20日、両国万八楼で水戸藩の関係者と会合を行った清河は、帰路につきました。
その道中で、町人風の男が清河に絡んできたのです。小説を主体にした作品ではこの町人風の男を役人の差し向けた罠としていますが、本当のところはわかりません。
清河は町人を無視しようとしますが、町人がしつこく絡むので、ついに刀を抜いて、抜き様に町人の首を一閃しました。その首は2間(約3.6m)ほど飛んだといわれています。

今の感覚では、武士が町人の首を斬っても、無礼打ちで済まされるイメージがありますが、実際にはそんなことはありません。町人であろうと武士であろうと、殺人は殺人として裁かれますし、ましてや往来で抜刀しただけで充分罪となります。
町人を斬った直後に役人に囲まれた清河は、それでも逃げ切って以後全国を歩き回り同志を募ることになり、これが寺田屋騒動にも繋がるのです。


逃げ切った清河とは反対に、清河の妾のお蓮や、7人の関係者がこの時に捕縛されました。
約一年後にお蓮は獄中で衰弱死し、7人の関係者の内6人までが同じ運命を辿ったのです。唯一生き残った石坂周造(自称・彦根浪人)は、また清河の許に戻って浪士隊(一部が後の新選組)上洛にも加わり、後に日本の石油産業の礎を築くことになります。
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『ARUYO FOR JAPAN』inHIKONE一日目

2011年05月15日 | イベント
以前の告知の通り、今日は四番町スクエアーで『ARUYO FOR JAPAN』inHIKONEのイベントが行われました。

13時からのイベントだったのですが、12時前には現地入りしました。
てっきり建物の中でのイベントだと思っていたのですが、なんと外!
ちょっと緊張しました。


13時にイベント開始、まずはゆるキャラ達による募金活動から…







グッズ販売と募金の場所もありました



映画で雪の代わりに敷かれた「寒水石」

水府提灯を使ったグッズ

あとはTシャツや缶バッチ、クリアファイルなどもありました。
売り上げは義援金にもなりますし、義援金箱もありましたのでちょっと協力…

ここでMCのやまもとひまりさんが何かを描いておられます。

今回のための特別バージョン主従でした



そして14時からはトークショー『桜田門外ノ変』とその時代が行われました。
『桜田門外ノ変』支援の会のお二人と、管理人とひまりさんの四名でのトーク。
水戸では、この映画がきっかけで桜田門外の変を起したのが水戸藩であると知った現実に対し、「彦根では斬られたほうなので知っていた」というお話をしたり。
映画公開前に彦根に来なければならないと思って、支援の会のが調べられると『桜田門外ノ変』の佐藤監督が彦根でトークショーをされたということを知られて、彦根にこられたそうです。

今回は東日本大震災の支援で来られたのですが、実は茨城では文化財は東北三県よりも被害があったそうでした。
弘道館では、関東大震災や太平洋戦争の空襲でも乗り越えた弘道館碑の文字部分が崩れ落ちたり、壁や瓦が落ちるなどの被害が大きかったそうです。
そして偕楽園や弘道館を直すための支援活動でお越しになられたそうです。
この支援のテーマが『HERO』で「あるよ」のセリフで有名になった田中要次さん、「陰も陽も含めて前に進もう」とのコメントがあり

“本来なら「支援」「希望」「明日」「復興」「夢」などの言葉に向けて、
「あるよ!」と声を大にして言いたいところなのですが、
「悲しみ」も「苦しみ」も「危険」も「不安」もまだ…「あるよ」
福島の原発事故を始めとする、不安な要素も拭い切れません。
余震もまだ続き、その上、東海地震が起こる事も予測されている状況です。
だから甘んじてはならない、油断してはならないという警鐘も鳴らさずにはいられない。
そんな想いを込めて、ロゴマークには陰陽の印を入れました”

とのコメントもありました。
みんなの未来がしあわせで「あるよ」うに。とのことでした。

今回のイベントには水府提灯を販売されておられますが、この提灯にLEDでの灯りが震災の停電でも役に立ったとのお話でした。


東京で使われる提灯のほとんどが水戸の提灯なのだそうです。
すこし、管理人が話した映画に絡む歴史の話をするならば、「彦根藩邸から外桜田門までは500mほどで、辰の刻に出発して駆け足で向かっていた。映画ではそこも表現されていて、映像でそれを観たことがあるのは三船敏郎さんが主演されていた『侍』くらいだった」との話をしました。

また、支援の会が、映画誘致した時の撮影セットを作った時の話があり、東京ドーム1個分くらいの広さのセットを作ったそうです。
資金をどのように集めたのか?の一旦も訊けたりと、1時間のトークでしたがいつもと違う話が聞ける内容でした。


地震の時はセットの堀がバケツの中の水が揺れるような激しい揺れだったり、杉の花粉が塊で飛んだそうです。
本当に激しい被害だったのですね。


映画『桜田門外ノ変』が撮影され、水戸と彦根の市民レベルの交流も深まり、その中での今回の災害でした。
この映画のおかげで、もっといえば桜田門外の変が起きたおかげでできた交流によって、水戸の文化財が救われますように、そして東日本大震災が一日も早く思い出の中の話になりますように。

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『幕末長州人物伝』講演受講報告

2011年05月14日 | 講演
5月12日に、
ひこね市民大学講座 歴史手習塾の セミナー7『幕末を駆け抜けた志士たち!』
1回目の講演として「幕末長州人物伝」と題されたお話がありました。
講師は萩博物館主任研究員の道迫真吾さん。


主に吉田松陰の人生形成期の旅や、吉田松陰がどのように高杉晋作に接し、晋作は松陰の精神を反映させていったかが話されました。

松下村塾は長くても2年10カ月の期間しか開かれておらず、塾舎で抗議が行われた期間は1年2ヶ月しかないそうです。この間に92名の塾生が学んだそうです。
その後の影響も考えると日本史の中でも地域限定で特に濃い月日だったのですね。



さて、今回も面白いかった質疑応答。
(質問者)
伊藤博文が桜田門外の変の後に、多賀大社の前の車戸屋敷に来て情勢を探っていたと訊きますが、その時の伊藤の状況を教えていただけますか?
(道迫氏)
長州藩は尊王攘夷派といいますが、元々は公武合体でした。残念ながら長州の主導権は文久二年の島津久光の状況で薩摩に奪われます。その関係で伊藤博文の考えも変わりますので影響はあるとは思いますが、基本的には萬延や文久の頃は公武合体が長州の考え方です。

(質問者)
高杉晋作について教えていただきたいのですが、高杉晋作はテレビや小説などでは英雄扱いされていますが、一部の出世した人を除いて、既得権益を奪われた萩の人たちには不人気と聞きますがどうなのでしょうか?
(道迫氏)
当時、晋作には二人の妹がいたのですが、萩では嫁に行けなかったという話が残っています。明治初年頃は晋作に対する批判的な考えは強かった筈です。明治9年に前原一誠が起した萩の乱はまさしくそれです。士族の大リストラでバッサリ家禄が没収された関係で、高杉晋作もそうですが、伊藤に関する批判もありました。

(管理人)
少し的外れな質問になりますが、吉田松陰の人生の中でユーモアセンスがあるように感じます。自分の吉田の姓を分けて二十一という数字に拘り、佐久間象山の甥に向けて送った手紙の中にナポレオンを書いているのは、象山が「ナポレオンは自分と同等の人物だ」と言ったことを受けてのことと思えたり、品川弥二郎に泥を塗られて「師に泥を塗った」と言った逸話など、私は吉田松陰にユーモアを感じるのですが、そういう人物像を萩ではどのように見ておられますか?
(道迫氏)
今の内容については、あまり話題に上らないようなところがあります。時代が後になればなるほど「松陰先生」と奉る傾向がありますので、これからテコ入れはしていきたいと思います。
松陰の理想は中国の聖人です。『論語』『孟子』の世界です。聖人たちは師匠と門下生の垣根はなるべくとっぱらって、和気藹々と冗談も言う雰囲気があったと、史料から伺えます。

(管理人)
井伊直弼には、どのようなイメージをお持ちですか?
(道迫氏)
最初の頃は強権的なイメージがありましたが、松陰の書いている物を見ると、直弼を仁政の君主であると評価しています。ですので、作られたイメージが強く、真実としては幕府の大老という立場がさせてしまったものもありますが、客観的に見ていかなければいけないかな?とは思っています。
彦根だから批判することを避けているわけではありません。

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告知『「ARUYO FOR JAPAN」in HIKONE』

2011年05月09日 | イベント
今日はお報せです。

今度の日曜日に、彦根の四番町スクエアで「『ARUYO FOR JAPAN』in HIKONE」というイベントが行われます。
映画『桜田門外ノ変』を通じて市民レベルでの交流ができつつある彦根と水戸ですが、東日本大震災でこの映画のロケ地が被災しましたので、ロケ地支援イベントとして立ちあがったのが『ARUYO FOR JAPAN』なのだそうです。

5月15日(日)は、このイベントの一環として『桜田門外ノ変』支援の会トークショーが四番町スクエアで14時から行われます。

『ARUYO FOR JAPAN』


内容は『桜田門外ノ変』とその時代
MCにしまさこにゃんの生みの母である、やまもとひまり さん。
ゲストは『桜田門外ノ変』支援の会
そして、DJ.YOSHIです。

このDJ.YOSHI、実は管理人です(笑)
本名か管理人の普段の呼び名でよかったのですが、気が付けば上の案内を目にするようになりました。
というわけで、お近くで時間がある方は覗きに来て、管理人をからかって、そして少しでも構いませんので、被災地への募金をお願いいたします
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比叡山延暦寺『怨親平等』

2011年05月01日 | 史跡
『怨親平等』とは、敵味方の区別を問わず一切の犠牲者を平等に供養して救済しようとする仏様の教えだそうです。
この考えのもとで、比叡山延暦寺では様々な催しが行われていますが、4月30日に『戦国名将大甲冑展&黒澤明展』見学と、特別講演『井伊家千年物語~彦根藩井伊家の歴史~』聴講のためのツアーがありましたので、これに参加しました。

朝、彦根駅に集合して比叡山行きのマイクロバスに乗り込みました。
途中の休憩場所の近くには、紫式部の歌碑がありましたのでちょっと覗いてみました。

目の前を通過することはあるのですが、寄って見るのは初めてです。琵琶湖を背景にした良い景観ですよね。

そして琵琶湖大橋を越えます、比叡山の麓の辺りは仰木の棚田という景観地があります。



標高が高いので、まだ桜も咲いています。

秋になるともみじがきれいに色付きそうな道を走り

琵琶湖が見える絶景も、比叡山を通る楽しみのようです




そして延暦寺に到着。
ただし、比叡山には延暦寺という建物はありません。一山すべての総称が延暦寺と言うそうです。

まずは西塔から…
常行堂は、親鸞の修業の地です

法華堂と繋がっていて、これを弁慶が担いだという伝承から、弁慶にない堂とも言われています

釈迦堂は、秀吉が移築させたといわれている古い建物です



また、聖徳太子が植えた椿が大きく育った地に建てられた椿堂

伝導太師(最澄)廟の敷地に建つ浄土院などが見どころです。



西塔では東日本大震災の復興と祈りをテーマにした萌桜会(ぼうおうえ)が行われていて、そのイベントでの抽選でくず湯が当たりました。

自分では絶対に注文しない物ですから、こんな形で味わえるなんて、嬉しいラッキーでもあり、美味しいおもてなしでした。


これらを楽しんでから、東塔に移動…
大書院で、『戦国名将大甲冑展&黒澤明展』が行われていたのです。

大書院は、当時は1000円で豪邸が建ったという時代に35万円かけて建築された昭憲皇太后(明治天皇の皇后)に関わる建物で、たばこで財をなした人物によってこの地に移築され、皇室の方の宿泊に使われる場所なのだそうです。この為に普段は非公開となっている場所です。

建物の中は、わざとらしくないのに使っている木材の木目から飾りに至るまでシャンとした高級感があります。





これを見るだけでも入場料500円の価値は充分ありますが、そこに黒澤明展や甲冑展が行われているのです。
まずは、島田紳助さん着用の甲冑がお出迎え

この先も名将の甲冑を再現した物が多くあります。

武田信玄

石田三成

豊臣秀吉は床の間に栄えています

真田信繫と徳川家康をこう並べることで関係が見えますね。

黒澤明展でもありますから『乱』や『影武者』に関わる甲冑もありました
  
『乱』の衣装
  
黒澤作品の小道具なども展示

そして注目されるべきは、ここに織田信長の甲冑も並んでいることです。

後ろには「怨親平等」の文字が…
寺を焼討ちにした人物まで平等に供養する。叡山の想いがここに籠っているのですね。
ここで紹介したのは一部ですが、こんな形で普段見れない場所で興味深い展示が行われていました。

大書院での『戦国名将甲冑展&黒澤明展』の見学が終わったあと、少し時間があったので東塔エリアを見学して回りました。
東塔には延暦寺の中心部に当たる根本中堂があります。

桜の季節ですので、とてもいい景色が見れました。

中は撮影禁止ですから、ここがギリギリ、この向こうがパワースポットにもなっていて、日本の中心と言われる中庭があります。

そして、大講堂に移動。

すぐ近くには、葵の紋が入った燈篭がありました。


この次に僕がどうしても見たかったのは戒壇院

最澄が比叡山に建てたかったのになかなか許可が下りず、死後7日目に建立の許可が下りたという、いわば最澄の執念の施設です。

ここ以外にも阿弥陀堂

東塔

出世大黒天と願を掛ける摩尼車



などがありました。

またこんな面白い絵を飾っている場所も…

比叡山七不思議のひとつである一眼一足の僧なのだそうです。

この近くの御社に寄って見ると、管理人好みの葉桜でした。



その近くに建つ石燈篭に刻まれた年号は

元文2年(1737)、八代将軍吉宗の治世の物です。

そして、やはり比叡山と言えば多くの僧が修行する地です。西塔に引き続き東塔にも

蓮如などの名前が見られました。

法然所縁の地は、きつい坂道を下った場所にあるのですが…

管理人が訪れた時は、小学生くらいの女の子が二人階段の掃除をしてくれていて、気持ちいい挨拶をしてくれました。

中を観させてもらって帰る時、お茶をいただく時間が無かったので戻ろうとすると、わざわざ後ろから追いかけてきてくれて「ここでしかないお菓子ですから」と、持ってきてくれました。

浄土宗の開祖としてしか、日本史の中では語られない法然ですが、こういった心配りが今にまで伝わる教えを残された方だったのかもしれませんね。


そして、特別講演『井伊家千年物語~彦根藩井伊家の歴史~』聴講の時間がやってきました。
講師は井伊家18代当主井伊直岳さん。
まずは、井伊家千年の歴史を、初代共保の誕生から、直政・歴代彦根藩主・井伊直弼の流れでお話して行かれました。

その後、井伊家当主と比叡山の大僧正の対談となったのです。

滋賀県障害者協会を立ちあげられた故井伊文子さんから、理事長の後任を任されたのが小林隆彰大僧正だったそうです。また比叡山焼き討ち辺りのごたごたで比叡山から紛失していた嵯峨天皇の真筆(今は勅封になっているそうです)を藩政時代に井伊家から譲られたこともあり、比叡山と井伊家は多少の関わりもあるそうです。

また、今回比叡山で信長の甲冑を展示したり甲冑能『信長』を演じることがあるなどの比叡山を焼いた信長のことをなぜ比叡山でするのか?という話には、「当時は僧兵が比叡山で大きな顔をして武力を持っていた時代ですから、信長が比叡山を焼かなければ、今の比叡山はなかった」との考えで、比叡山が焼かれたあと、秀吉や家康が「根本中堂の中庭は日本の中心でありその場所を安定させないと国は落ち着かない」と考えて秀吉は1500石家康は3500石出して鎮護国家の山岳修行の場として比叡山を復興させた。とのことでした。
“鎮”の字は荒れている人の心を鎮める。また非業の死を遂げて苦しんでいる先祖を鎮めるとのことで、苦しんでいる死者が世の中を乱しているとのことで比叡山の僧が秀吉や家康に頼み、山岳で修業し、武力を廃し、学問を尊び、人を育てる場としたのだから、やはり今の比叡山があるのは信長のおかげともいえるそうです。
小林大僧正がこの意見を発表し、周囲が納得していらい比叡山は信長を恨まなくなったそうです。
もともと恨みを持つことも親しく付き合うことも、根は一緒で恨み合っていても同じ利害があれば仲良くなり、仲が良くてもちょっと裏切れば争ってみる。本来はひとつである怨親平等(不二)を言いだしましたが、すべてのものには原因と結果があり、よく調べてみると納得することもある。とおっしゃっておられました。

比叡山では、焼き討ちの時の犠牲者を敵味方関係なく法要したことがあり、それがだんだん大きくなって世界での犠牲者を供養する形になったそうです。
その時の土盛りと供養塔もあります。

このように比叡山の中でしか聞けないような話も聞けて、充実した訪問でした。

帰り道、琵琶湖大橋麓のお米プラザに寄りましたが…

こんなお土産売ってました。


  今年の滋賀は、浅井三姉妹と戦国がメインですね。
琵琶湖の空はずっと曇りでしたが、過ごし易い一日でした。
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