歴史手習塾セミナー22『謎解き おんな城主 直虎』
二日目の『なぜ直政は「佐和山城主」になったのか』を聴講しました。
講師は昨日に続き『おんな城主 直虎』の時代考証を担当される小和田哲男先生です。二日間連続で小和田先生から井伊家の話が聴ける贅沢なイベントでした。
今回は、関ケ原の戦いでの井伊直政の活躍を見てみました。
秀吉が亡くなった時、石田三成は五大老と五奉行が秀頼を助けて豊臣家が世襲する形で続けるよいに考えていて、戦国は終わったと思っていました。
対する徳川家康は、秀吉が織田信長の遺児から簒奪したように天下は回り持ちと考えていて、戦国は終わっていないと思っていたのです。
前田利家が亡くなり、武断派七将が三成を襲い、三成が失脚、上杉景勝が米沢で軍備を強化した事を利用して、三成潰しと秀頼潰しを目論んだのです。
小山評定を経て、家康は軍勢を二手に分けて、秀忠に本多信正、榊原康政を付けた軍に中山道を進ませます(関ケ原には遅れる)。
家康は、江戸に留まり諸大名に手紙を送ります、そこには本多正純、本多忠勝、井伊直政が従っていました。
忠勝と直政は豊臣恩顧大名の軍監として東海道を進みました。西軍に従った織田秀信が城主を務める岐阜城攻略を決断し、中山道を進む本多信正に報告、自身も戦ったのが直政だったのです。
また、禁制を出し進軍の準備も行いました。そして西軍と目される大名たちの調略も行ったのです。
吉川広家は、父元春のときに秀吉に冷遇されていたこと、小早川秀秋は秀頼が誕生しなけれは豊臣家の跡を継いだかもしれないのに毛利家に養子に入る話が出て、それも小早川家になってしまうという不満があったのです。これらを敏感に読み取って工作したのも直政だったのでした。
関ケ原当日は、家康の息子忠吉の岳父である立場から忠吉を連れて福島正則の陣を抜け、島津隊に発砲し開戦させたのです。
小早川秀秋が裏切り、西軍が撤退した後に残った島津義弘の軍勢が敵中突破を行ったとき、義弘の軍を追ったのが直政であり、この時に鉄砲傷を負い、戦後は家康から薬を与えられたのです。
直政の手柄はそれほど大きなものでした。
戦後は、毛利家との交渉や土佐で長宗我部盛親の家臣の反発を受けた山内一豊を助けるために直政が家臣を派遣したのです。
これらの活躍から、西軍の中心メンバーだった石田三成の居城である佐和山城が直政に任され、普代大名では最高の6万石加増(高崎12万石→佐和山18万石)となります。
直政は関ケ原の鉄砲傷が元で亡くなり、井伊家は佐和山から彦根城に移ります。
息子の直孝が二度の大坂の陣で活躍し井伊家は五人の大老を出す家になったのです。
さて、
個人的なことですが、以前『前田慶次道中日記』の琵琶湖の経路を同行した時に、「弁天嶋の瀬戸」がどこか調べる過程で、沖島の弁財天についての記録『沖島弁天記』が長松院にあるとの情報を目にしたことがあり、一度お話を聞いてみたい場所が長松院でした。
昨日、そのお話をご住職にさせていただきましたところ、本日は境内にあります弁財天を祀ったお堂を開けて下さいました。
また、明治時代の直政公三百回忌に描かれた直政公の肖像画(讃は日下部鳴鶴が書いています)も拝見できました。
どちらも、素晴らしい体験をさせていただきました。
会場 彦根市 長松院
二日目の『なぜ直政は「佐和山城主」になったのか』を聴講しました。
講師は昨日に続き『おんな城主 直虎』の時代考証を担当される小和田哲男先生です。二日間連続で小和田先生から井伊家の話が聴ける贅沢なイベントでした。
今回は、関ケ原の戦いでの井伊直政の活躍を見てみました。
秀吉が亡くなった時、石田三成は五大老と五奉行が秀頼を助けて豊臣家が世襲する形で続けるよいに考えていて、戦国は終わったと思っていました。
対する徳川家康は、秀吉が織田信長の遺児から簒奪したように天下は回り持ちと考えていて、戦国は終わっていないと思っていたのです。
前田利家が亡くなり、武断派七将が三成を襲い、三成が失脚、上杉景勝が米沢で軍備を強化した事を利用して、三成潰しと秀頼潰しを目論んだのです。
小山評定を経て、家康は軍勢を二手に分けて、秀忠に本多信正、榊原康政を付けた軍に中山道を進ませます(関ケ原には遅れる)。
家康は、江戸に留まり諸大名に手紙を送ります、そこには本多正純、本多忠勝、井伊直政が従っていました。
忠勝と直政は豊臣恩顧大名の軍監として東海道を進みました。西軍に従った織田秀信が城主を務める岐阜城攻略を決断し、中山道を進む本多信正に報告、自身も戦ったのが直政だったのです。
また、禁制を出し進軍の準備も行いました。そして西軍と目される大名たちの調略も行ったのです。
吉川広家は、父元春のときに秀吉に冷遇されていたこと、小早川秀秋は秀頼が誕生しなけれは豊臣家の跡を継いだかもしれないのに毛利家に養子に入る話が出て、それも小早川家になってしまうという不満があったのです。これらを敏感に読み取って工作したのも直政だったのでした。
関ケ原当日は、家康の息子忠吉の岳父である立場から忠吉を連れて福島正則の陣を抜け、島津隊に発砲し開戦させたのです。
小早川秀秋が裏切り、西軍が撤退した後に残った島津義弘の軍勢が敵中突破を行ったとき、義弘の軍を追ったのが直政であり、この時に鉄砲傷を負い、戦後は家康から薬を与えられたのです。
直政の手柄はそれほど大きなものでした。
戦後は、毛利家との交渉や土佐で長宗我部盛親の家臣の反発を受けた山内一豊を助けるために直政が家臣を派遣したのです。
これらの活躍から、西軍の中心メンバーだった石田三成の居城である佐和山城が直政に任され、普代大名では最高の6万石加増(高崎12万石→佐和山18万石)となります。
直政は関ケ原の鉄砲傷が元で亡くなり、井伊家は佐和山から彦根城に移ります。
息子の直孝が二度の大坂の陣で活躍し井伊家は五人の大老を出す家になったのです。
さて、
個人的なことですが、以前『前田慶次道中日記』の琵琶湖の経路を同行した時に、「弁天嶋の瀬戸」がどこか調べる過程で、沖島の弁財天についての記録『沖島弁天記』が長松院にあるとの情報を目にしたことがあり、一度お話を聞いてみたい場所が長松院でした。
昨日、そのお話をご住職にさせていただきましたところ、本日は境内にあります弁財天を祀ったお堂を開けて下さいました。
また、明治時代の直政公三百回忌に描かれた直政公の肖像画(讃は日下部鳴鶴が書いています)も拝見できました。
どちらも、素晴らしい体験をさせていただきました。
会場 彦根市 長松院