前回書きました宇曽川の河口付近にある大きな山が荒神山です、標高は263m、山としてはそれ程高い場所ではありませんが、近江平野の中では低い方ではなく、山頂に登って北を眺めると彦根市内を越えて湖北まで望む事ができます。
この様な条件があるからでしょうか? NHKをはじめ、複数のメディアが中継アンテナを設置しているのです。
さて、そんな荒神山の歴史は古く、平成14年に彦根市史編さん室と滋賀県立大学考古学研究室によって測量調査によって全長114m以上の大規模な前方後円墳である事が解かった荒神山古墳の存在が、それまで湖東地域には大きな古墳が存在しないと言われていた為に、この辺りに巨大な力を持つ権力者が居なかったとされていた湖東古代史を変える貴重な資料となっています。こう考えると、少なくとも古墳時代後期・4世紀後半にはこの辺りを大きな権力者が治めていたことになるのです。
この荒神山古墳は、琵琶湖のほうに向かって作られています。実は、琵琶湖周辺には同じ様に琵琶湖に向かって作られた古墳が存在する為、こう言った古墳に埋葬されている権力者は琵琶湖を媒介にお互いのネットワークを行っていたのではないかとも考えられていて、大和朝廷に匹敵する文化があったとしてもおかしくないのです。
そんな荒神山古墳の近く、山の山頂付近にある荒神山神社は山の名前の由来にもなっている場所ですが、そもそも「荒神」とは、神様の名前で、荒神様は「かまど」の神様として知られ同時に「火」の神様でもあります。
今でこそ「かまど」は無くなり、電磁調理器の登場で家庭によっては台所で火を使わない所もあると耳にした事がありますが、だからと言って荒神様とご縁が無い訳ではありません。
「かまど」は一家の中心となる物ですから、「かまど」が賑わっていれば家庭も豊ですし、会社が破産したりする事を“「かまど」を破る”と言った表現をしたりもしました。
ですから、荒神様は日本全国で色々な形で祀られています、例えば京都の愛宕山や、面白い顔のお面“ひょっとこ”がそれに当ります。
荒神山神社もその起原は2200年前まで遡ると社史は伝えています、実際に、天智天皇の御世には、はっきりとした記録も残っていますし、奈良時代になると行基が奥山寺を開山し、三宝大荒神像を祭っています。
古い歴史を持つ神社なんですが、戦国時代は、この地域を見渡せる山として六角氏の拠点となり、六角氏の身内で重臣でもある日夏安芸守によって荒神山城が築かれました、この城跡は神社の境内と重なっているので、境内が城郭の中に含まれていたのではないかとも考えられるのです。
その為でしょうか? 織田信長の比叡山焼き討ちと同時期に焼き払われますが、豊臣秀吉には保護を受け、秀吉が寄進した石燈篭が残っています。
山の上と言う事で、参拝は少し大変ですし場合によっては落石の危険もありますが、登っただけの価値がある風景と、家を豊にしてくれる神様が出迎えてくれます。
古代からの先人も魅了された絶景を楽しんでみてはいかがですか?
この様な条件があるからでしょうか? NHKをはじめ、複数のメディアが中継アンテナを設置しているのです。
さて、そんな荒神山の歴史は古く、平成14年に彦根市史編さん室と滋賀県立大学考古学研究室によって測量調査によって全長114m以上の大規模な前方後円墳である事が解かった荒神山古墳の存在が、それまで湖東地域には大きな古墳が存在しないと言われていた為に、この辺りに巨大な力を持つ権力者が居なかったとされていた湖東古代史を変える貴重な資料となっています。こう考えると、少なくとも古墳時代後期・4世紀後半にはこの辺りを大きな権力者が治めていたことになるのです。
この荒神山古墳は、琵琶湖のほうに向かって作られています。実は、琵琶湖周辺には同じ様に琵琶湖に向かって作られた古墳が存在する為、こう言った古墳に埋葬されている権力者は琵琶湖を媒介にお互いのネットワークを行っていたのではないかとも考えられていて、大和朝廷に匹敵する文化があったとしてもおかしくないのです。
そんな荒神山古墳の近く、山の山頂付近にある荒神山神社は山の名前の由来にもなっている場所ですが、そもそも「荒神」とは、神様の名前で、荒神様は「かまど」の神様として知られ同時に「火」の神様でもあります。
今でこそ「かまど」は無くなり、電磁調理器の登場で家庭によっては台所で火を使わない所もあると耳にした事がありますが、だからと言って荒神様とご縁が無い訳ではありません。
「かまど」は一家の中心となる物ですから、「かまど」が賑わっていれば家庭も豊ですし、会社が破産したりする事を“「かまど」を破る”と言った表現をしたりもしました。
ですから、荒神様は日本全国で色々な形で祀られています、例えば京都の愛宕山や、面白い顔のお面“ひょっとこ”がそれに当ります。
荒神山神社もその起原は2200年前まで遡ると社史は伝えています、実際に、天智天皇の御世には、はっきりとした記録も残っていますし、奈良時代になると行基が奥山寺を開山し、三宝大荒神像を祭っています。
古い歴史を持つ神社なんですが、戦国時代は、この地域を見渡せる山として六角氏の拠点となり、六角氏の身内で重臣でもある日夏安芸守によって荒神山城が築かれました、この城跡は神社の境内と重なっているので、境内が城郭の中に含まれていたのではないかとも考えられるのです。
その為でしょうか? 織田信長の比叡山焼き討ちと同時期に焼き払われますが、豊臣秀吉には保護を受け、秀吉が寄進した石燈篭が残っています。
山の上と言う事で、参拝は少し大変ですし場合によっては落石の危険もありますが、登っただけの価値がある風景と、家を豊にしてくれる神様が出迎えてくれます。
古代からの先人も魅了された絶景を楽しんでみてはいかがですか?