彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根と『青天を衝け』

2019年12月25日 | 史跡

2021年大河ドラマ『青天を衝け』は、新しい一万円札の顔になることも確定した、日本初の株式会社や銀行を作り上げた実業家でもあり慈善事業も多く行った渋沢栄一を主人公とした物語です。

しかし、幕末の頃の栄一は豪農→テロリスト未遂→一橋慶喜家臣→欧州使節団の間に明治維新という幕末でありなから井伊直弼などに関わるような人物ではなく、『青天を衝け』で時代背景としての井伊直弼は関わっても、直接彦根が関わることはないと思っていました。

しかし、渋沢栄一は世界遺産の富岡製糸場創業に深く関わります。栄一の妻の兄であり幕末のテロ未遂の同志でもある尾高惇忠(栄一の10歳年上)を初代場長を依頼し、惇忠の長女・勇を女工第一号としたのです。

惇忠の7歳年上で元々は尾高家に使用人として働いていた韮塚直次郎は、惇忠より富岡製糸場の基礎や資材調達を依頼されたのです。

渋沢栄一、尾高惇忠、韮塚直次郎の三人が協力することにより富岡製糸場が無事に開業しますが、製糸場で働く人々が必要になります。
とくに、教養がある人の方が多く望まれた時に旧彦根藩士の子女が明治9年から3年で500人近く、総計737人の彦根藩士関係者が集まり、富岡製糸場だけでは働き場が足りず韮塚製糸場も作られるほどでした。

では、なぜ富岡製糸場に彦根藩士関係者が多く働いたのか?
とくに、渋沢栄一が一橋慶喜に仕えたように栄一や尾高惇忠は尊王攘夷思想で利根川水運から水戸藩にも近い土地柄でもあった地でもある場所です。まだ彦根藩関係者が集まりにくいはずでした。

そこに登場するのが韮塚直次郎です。
直次郎は、ある宿場で飯盛女をしていた女性を妻に迎えます。しかもそれまでの妻子に全財産を与えての離縁をして、その女性を尾高家の養女としてからの結婚でした。
この女性を渋沢栄一や尾高惇忠らの地元深谷市では「彦根藩士・羽守清十郎の娘・美寧(みね)」と伝えられています。

「美寧は、婚約していたのを逃げ出して飯盛女をしていた時に韮塚直次郎と出会い結婚。遠城謙道の娘・繁子との縁があり、彦根から多くの工女を繁子が紹介した」と深谷市で言われています。
明治35年に発行された『遠城謙道傳』には「繁子略歴」との一章が立てられていてここにも「繁子は女子二人を携へて故郷を辞し、上野国富岡製糸所の工女に出願す。時に尾高惇忠(渋沢栄一の兄)所長たり、遠城一家の忠貞を聞き、繁子の来るを喜び直に推して工女取締の任を託す。時に工女を使役するこて六百余人」(一部現代風に意訳)と書かれていて、遠城繁子が何らかの目的を持って富岡製糸場に来て、尾高惇忠がそれを喜び取締の役を任せたことで600人以上を仕切ったことがわかるのです。
この目的段階で韮塚美寧が登場するのでしょう。

そんな美寧の実家である羽守家を彦根藩で調べてみると、同じ「はもり」の読みで「羽森」という足軽が一軒見つかることが彦根市役所の歴史民俗資料室でわかりました。
読み方が同じで漢字が違うことはよくありますので、彦根藩唯一のはもり家を探すと、彦根城博物館発行の『研究紀要』第19号で善利組四丁目に「羽森彦次」屋敷を発見しました。

跡地を訪ねると、今は平和堂銀座店の一部となっていることがわかったのです。

『どんつき瓦版』編集長が深谷市で美寧の話を聞いて5日しかすぎていないので、またまだ調べ尽くせていませんが、2021年大河ドラマ『青天を衝け』は彦根藩にも関わる物語となりそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その後の高野瀬家と肥田城

2019年12月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2019年は肥田城水攻め460年であったため1年をかけて関連する歴史の流れを紹介した。最後に高野瀬家と肥田城を追ってまとめとしたい。
 浅井長政が織田信長に滅ぼされたのち、高野瀬秀隆・景隆父子が信長に仕えた記録が残っている。想像の域は出ないが、信長の浅井攻め戦略の一つとして周囲の国人と共に調略されて織田家に味方したと考えられる。しかし当時の織田家は休む間がないほどに戦い続けていたため、高野瀬父子も柴田勝家に従って一向一揆との戦いで越前に出陣し、安居で父子揃って討死した。こうして高野瀬家直系は絶え、信長は蜂谷頼隆を肥田城主に任じ、天正5年(1577)9月27日には信長の嫡男信忠が肥田城に宿泊している。頼隆は天正九年に岸和田城に居城が替わる。
 天正11年になり、羽柴秀吉が長谷川秀一に肥田城主を命じている。二年後には秀一も越前東郷城に居城が替わるため、蜂谷・長谷川両時期において肥田が城主不在の飛び地扱いであり、城は領地運営のための出張期間でしかなかった時期もあったことが伺える。そして長谷川秀一を最後に肥田城主は存在せず、廃城となり跡地は荒れ地だったと考えられているが、江戸期に入り彦根藩が新田開発と崇徳寺再興をすすめて行く。崇徳寺は高野瀬家の菩提寺であり、現在は肥田城水攻めの貴重な資料館でもある。
 肥田が開発されていた頃、中了喜という人物が、部屋住みだった井伊直澄に仕えるが切米という知行を持たない身分だった。しかし直澄が兄たちの不幸が続き3代藩主となり、了喜の子宗長は士分となり彦根藩士としての身分を得る。宗長は晩年に中家が高野瀬家の血筋であることを藩に届け出て以降は高野瀬姓を使うようになった。彦根藩士としての高野瀬家は多少の増減はあるものの150石ほどの知行を得て藩士としての役割を代々受け継いでいた。
 八代となる高野瀬喜介宗忠は、安中家からの養子で130石と家督を継ぐ。記録を見ていると時々酒で失敗する以外は平凡に役目を勤めた人物であったが『侍中由緒帳』にこんな一文がある。
「安政七庚申年三月三日、於江戸、彦根御家老中江御用筋被仰付、御役大久保小膳同道、立帰り罷登御用相勤候」安政7年3月3日は桜田門外の変の日。江戸に居た宗忠は彦根の重臣たちへ事件を伝えるために大久保小膳と一緒に彦根に向かっているのだ。『忠臣蔵』でも知られる通り藩の存亡に関わる報を最初に伝える早駕籠は命賭けの仕事であるため複数の藩士が同役を担う。このとき江戸と彦根は三日半で情報が届いたと言われているが、その時間だけ宗忠たちは激しく揺れる駕籠に不眠不休で乗っていたことになる。大久保小膳は埋木舎や井伊直弼の記録を守り通した藩士として彦根で知られた人物でもあり、事件の一報を伝えた人物であることも一部では知られているが、その同行者として高野瀬家が歴史の脇で少しだけ顔を出しているのである。

歴代肥田城主の菩提寺・崇徳寺
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする