彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

江戸時代の掛川にオランダ語の墓石

2020年08月28日 | 史跡
ゲイスベルト・ヘンミィの墓(掛川市仁藤町5-5 天然寺)


徳川家斉の時代、長崎のオランダ商館から江戸の将軍に拝謁するために毎年派遣されていたオランダ使節団が四年に一度に削減された時期でもありました。

そんなオランダ使節団が寛政10年(1798)に派遣されたときの団員の一人がケイスベルト・ヘンミィでした。
オランダから日本にやってきて、江戸にまで行くぐらいなのですからなんらかの専門家や学者だった可能性はありますが、ネットでみた限りではよくわかりませんでした(碑文には、大商官と鍳舶師と書かれています)。
何にしても、寛政10年4月に江戸で将軍に拝謁した使節団てましたが、ヘンミィは江戸に行く道中から体調を崩していたようで、帰路の途中、6月5日に掛川宿の本陣林喜太右衛門宅で倒れ6月8日19時頃(暮れ六つ半とあるので、太陽暦6月の日没後ですからもう少し後かも)に死去したそうです。享年51歳。

そんなヘンミィが葬られたのが掛川城下の天然寺でしたが、正座姿で埋葬され碑石蒲鉾型の墓石が作られ、鎖国下の日本(しかも東海道の宿場町で譜代大名の城下町)で墓石の碑文がオランダ語で刻まれていました。













江戸後期になっているとはいえ、よくオランダ語を刻むことができたな、と、見て驚きました。
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井伊直虎命日法要

2020年08月26日 | イベント
今年も8月26日に、井伊直虎さんの命日法要が井伊谷龍潭寺で行われました。

2016年に始まって以来5回目になります。
コロナの影響で、関係者を含めた最小限の人数で規模も例年より縮小して行われましたが直虎さんを敬い供養する気持ちに変わりはありません。

本堂での読経と参加者の焼香


墓所でも読経と焼香


がありました。
今年は井伊家の御霊屋を改築されて、歴代の御位牌も修繕されたので、そちらにも手を合わせました。

額は井伊直愛元彦根市長の字です。

井伊家の最も重要な三人の木像と御位牌


来年も変わらずお参りに行きたいと思っています。
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掛川藩士青木権之丞

2020年08月25日 | その他
以前も書いた事があるのですが、僕の持っている史料の中に武士の名刺があります。

昔の名刺は今のように大きさや材質が統一されていた訳ではなく、紙や木片など様々であり、名刺交換をするというよりも、訪問先の主人が不在の時に置いておくなどの使い方がされていました。

さまざまな文書などをまとめて購入したときに見つけたのが「太田備後守家来 青木権之丞」と書かれたものでした。

いきなり江戸時代の武士から名刺を渡された気分になり、どんな人物かを調べたいと思っていたのですが、まず手掛かりは「太田備後守」です。
これは、天保の改革や井伊直弼政権で老中を勤めた太田備後守資始だとわかりました。
…となると、幕末の掛川藩士と言うことになります。

古文書の束の中からは、秋葉神社のお札を包んだ青木某(読めない)の名前もありましたので一緒に掛川に持ち込んで調べることにしたのです。

まず、掛川城天守のガイドさんに聞いたら「太田氏に備中守はいるけど、備後守は居ない」と一蹴されてしまいましたが、図書館に幕末の藩士名簿があると教えて下さいました。

そして図書館で相談すると、名簿を調べて下さいました。
確かに「青木権之丞」は藩士の中にいて、代々同じ名を使っていたこと、どの時代の権之丞かは分からないけど大目付に就いた人物が居ること。
もう一つの史料の青木某は「青木源太兵衛」と書かれていて、たぶん親子(源太兵衛の方が家長か)。源太兵衛は代々「番頭」「槍奉行」「物頭」「小屋奉行」を務めていたこと。
そして、維新後に掛川藩が千葉に転封になったときは青木家は68俵の俸禄しかないため大目付の家とは思えずどこかの時期に何かやらかしたのではないか?とのことでした。

幕末期の藩士ならば史料があるかと思ったのですが、明治維新後に徳川宗家が入ったために駿河や遠江の大名は軒並み転封させられて史料も持って行ったり処分されているとのことでした。

ちなみに、転封自体が急なので移転先の藩士達は寺や庄屋などの所に間借りしたそうで、青木源太兵衛と権之丞も牛熊村の龍□院に仮住まいをしたことまではわかりました。


まだ何もわからないには等しいかもしれませんが、実在した人物であることや地位などがわかったことは大きな前進だと思いたいです。
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大坂蔵屋敷

2020年08月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 戦乱の時代、街道を整備して物流を活性化させることは戦になればそのまま敵が素早く領内を進軍できることに直結し敬遠された。
 「幕府」というものは、朝廷から一時的に独自で政治を行うことを許された出張軍事機関(仮政府)との意味があるため、江戸幕府は軍事政権としての動きが優先される。このため五街道をはじめとする道の整備を行いながらも関所を設置し、軍勢が進み難い悪路であることを各地で強いた。
 物流には不向きで限界がある陸路から海路への方針転換が江戸前期において経済活動の鍵となるが、戦国時代までの船は紀伊半島と能登半島を越えることが大きな課題でもあった。江戸時代は船の規模に規制をかけられる時代でもあったが造船技術の進歩や、近江商人が主体となる「北廻り航路」と河村瑞賢による「西廻り航路」により安全な航路と寄港地が開かれる。こうして陸路物流は衰退し草津や大津に物資を留める必要性が薄れた。海路により陸路よりも早く大量に運ばれる物資の集約地が海に近く町中に多くの水路がある大坂となり商業的重要性が増すこととなる。
 そして江戸時代後期頃から各藩では地域ごとの特産品が作られるようになり藩の財政を支える戦略になろうとしていた。こうして各藩が大坂中之島周辺に蔵屋敷を置き、米や特産品を売買する拠点とするようになるが、彦根藩はやや先走りしてしまう。
 文化元年(1804)松原三湊から琵琶湖を渡り大津に物資が集積されることを無駄と考えた藩は西村助之丞に大坂屋敷地の買付・普請、留守居役を命じた。同時に大津に寄らずに瀬田川から淀川を経て大坂まで物資を輸送する航路を開こうとするが京都町奉行から叱責され、助之丞が責任を負って謹慎となる。
 しかし文化年間(1804~1818)の内には大坂蔵屋敷が機能するようになる。ただし大坂は幕府直轄地であるため蔵屋敷は藩領ではなく商人から間借りする形となった。発掘された佐賀藩大坂蔵屋敷の例で見るなら川から水を引き入れる船入があり川(彦根藩の場合は土佐堀川)から敷地内に直接入ることになる。船入の周囲は大きな広場になっており、ここで荷揚げされた米などが天日干しされてから蔵に貯蔵されたと考えられている。そして取引は米札で行われていた。そんな蔵屋敷が130近く並んでいたが各藩の武士は10人未満であったと推定されている。
 彦根藩大坂蔵屋敷は、淀屋橋より一本東栴檀木橋南側の大坂過書町(北浜)にあり現在は資生堂のビルが建っている。この地が歴史の大きな渦に巻き込まれることはなかったが、近所には緒方洪庵の適塾がある。
 隣は盛岡藩大坂蔵屋敷があり、映画化もされた浅田次郎さんの『壬生義士伝』の主人公・吉村貫一郎が悲劇的な自害を遂げた地でもあるのだ(ただし吉村の死は戦死で斬れない刀での自害はフィクションとされている)。


彦根藩大坂蔵屋敷跡地(現・資生堂)
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宴の松原の鬼

2020年08月17日 | 何の日?
仁和3年(887)8月17日、内裏の宴の松原で女官のバラバラ死体が発見されました。 

この恐ろしい事件の顛末が伝わっていますのでご紹介しましょう。 

8月17日午後10時過ぎ、内裏の中を三人の若い女官が連れ立って歩いていた。 
やがて“宴の松原”という内裏の中にある小さな松林に近づいた。 
その松林の中から水もしたたるような美男が出て来たので三人の女官はボーと見とれてしまった… 

男はその中の一人の手を取り松林に入って楽しそうに会話をしていた。 
残った二人はしばらくそこで待っていたが仲間が中々帰ってこないので暗い松林に入って見ると… 

ついさっきまで男女が会話をしていた草むらの上におびただしい血が飛び散っていて女の手足が見つかった。 

内裏の警護の右兵衛府の衛士が宴の松原の中を調査したが結局首も胴体も見つからなかったそうだ、そして鬼に喰われたと言う事になり、後で聞いた者は恐怖に顔を引きつらせた。 




これは『今昔物語』等に残されている話です。 
“宴の松原”は実際に内裏にあり多くの奇妙な記録が残っている場所なんですよ。 
そして現在この辺りは寺の密集地となっています。 

流石に鬼は出てきていないのでしょうけど奇妙な所である事には間違いないですね。
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下坂氏館跡

2020年08月09日 | 史跡
 8月8日から土日祝日に一般公開されるようになった下坂氏館跡に行ってきました。

現在も下坂さんがクリニックをされている場所なのですが、下坂氏がここに居を構えたのは新しく見積もっても南北朝時代だと言われていて、建武3年(1336)の足利直義感状がその証拠となります。
それから戦国時代には京極氏や浅井氏に仕えた一族でした。
江戸時代には郷士であったそうですが、直接彦根藩に仕えることはなく彦根藩士との婚姻関係などで地元の有力者となり、維新後早い時期に医者として財も残して、先祖伝来の地をほとんど切り売りすることもなく現在に至ったそうです。
このため、下坂氏館は戦国時代の屋敷の遺構をそのまま残す稀有な史跡となっています。

当然ですが、「北近江城館跡群」として国史跡になっていますが、館遺構が城郭だけではなく菩提寺も含めて残るのは奇跡的と言って間違いものです。

外から眺めると土塁や堀もあります。

戦国時代の館である事を実感させる土塁や虎口もあります。


そして、江戸時代中期に作られたとされる表門は薬医門でヨシ葺です。

母屋は江戸時代後期頃の建築で、大正時代に増築されているそうです。


足利直義感状

ハートマークを見つけました。
上手く使えば、恋愛スポットにもなりそうですね。


そして菩提寺の不断光院。
こちらの表門も館の門と同じ時期の同じ造りですので、館と菩提寺が同等の立場であった事が伺えます。

本堂

本堂裏に墓所がありました。
たぶん本堂の真裏が下坂氏の墓所だと思いますが、古い興味あるお墓もたくさん並んでいました。




彦根城などの天守や櫓のような建物が残ったり、安土城のような総構えの石垣が残る城、佐和山城のような山城など様々な城の形がありますが、平地に残る館としての遺構もぜひ観て欲しいです。
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