2009年最後の訪城の為に岐阜城を登りました。
岐阜城は言わずと知れた織田信長や斎藤道三が居城とした天下の名城と言われた城です。
標高329mの金華山の上に天守を置き、「美濃を制す者は天下を制す」とも言われた城がどのような物であったかを見学する機会となりました。
まずは織田信長像に迎えられます。
便利な物で山道を歩いてもロープウェイを利用しても山頂に辿り着くようになっている岐阜城、その山道の急な角度は城攻めの兵を悩ませた事でしょう。
岐阜城は、関ヶ原の戦いの時に織田信長の孫の秀信(三法師)が35万石を領す城主でしたが、西軍に付いたために攻め落とされて関ヶ原の戦いの後に廃城となり、本多忠勝が麓へ建物を移築して加納城を築いた為に、江戸時代は城としての機能を果たす事が無かったのです。
“加納城跡”
明治43年に一度復興されますが、昭和18年に焼失、昭和31年に改めて復興されるという歴史を歩んだのでした。
ロープウェイの乗り場辺りから天守に向かうと、まずは天下第一の門を潜ります。
三の丸だった所で、関ヶ原前の岐阜城攻めでは激しい銃撃戦があった場所でもあるそうです。
天守の下には井戸が残っていますが、ここが天守に一番近い水場となると、籠城戦には水を考えるとあまり適さない場所とも考えられます。
また千成瓢箪発祥の地として、織田信長の稲葉山城(岐阜城の旧名)攻めの時に、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が目印に千成瓢箪を立てた場所が残されています。
当時の秀吉は堀尾茂助(吉晴)の案内で山道を登り、天守近くに印を上げる事によって味方を城に引き入れたと言われていますが、もしそれが本当の話なら、天下の堅城として知られた岐阜城は山道を見つからずに登りきれば、本丸の喉元まで行けた事になります。
別の話として、竹中半兵衛が16名を率いて城を落とし一年間占領してから旧主である斎藤龍興に返したエピソードも有名ですが、秀吉と半兵衛の話の両方に言える事は、この城は内側に入ってしまえば落ちる城だったのかもしれません。
正攻法の城攻めには強固で、ゲリラには弱い城だったのでしょうか?
そこでふっと考えるのは、稲葉山城として荒れた城地を再建した斎藤道三から織田秀信までの城主を見ると、
1.斎藤道三…長良川の戦いで息子の義龍に討たれる
2.斎藤義龍…35歳で若死
3.斎藤龍興…稲葉山城を失い流浪、朝倉義景を頼るが朝倉家滅亡時に討ち死
4.織田信長…本能寺に変で自害
5.織田信忠…本能寺の変の時に二条城で自害
6.織田信孝…兄の信雄と争い、自害
7.池田元助…長久手の戦いで戦死
8.池田輝政…姫路城を築城し大大名になり病没、秀吉の呪い説が囁かれている
9.羽柴秀勝…朝鮮出兵直前に名護屋で急死
10.織田秀信…高野山に幽閉され26歳で死去
と、天寿を全うしたと言えるのは池田輝政くらいです、しかしそんな輝政すら妙な噂が流れるということは、死に不審があった可能性もあるのです。
ゲリラ戦に弱い城は、その城主すらも正当な人生を送らせてくれなかったのでしょうか?
話が横道に逸れましたが、そんな岐阜城の天守は平成になってから大改修が行われ、美しい姿を見せてくれます。
近くには岐阜城資料館として櫓が一つ造られています。
麓に降りると、織田信長が館を構えた跡地の発掘調査と保存が行われていて、出土した石垣の積み直しが行われている部分もあったり、
信長以前の石垣と思われる物も出てきているそうです。
また、岐阜城公園は歴史的に大きな事件の現場となるのです。
明治15年4月6日、板垣退助が演説を終えて帰路に就こうとした所で突然暴漢(相原尚褧・あいはらなおぶみ)に襲われ左胸を短刀で刺されるのです。
『岐阜事件』や『板垣退助遭難事件』と呼ばれるこの出来事の時に板垣が「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとされ(史実かどうかは今も議論されています)、歴史に残る名言となっていますが、実はこの2日後に彦根城楽々園で板垣を招いた彦根自由党による自由懇親会が予定されていた事はあまり知られていません。
彦根と自由民権運動の関わりについては、機会がありましたらまた書いてみたいと思います。
さて、岐阜事件での彦根と岐阜城との関わりは少しありましたが、彦根に関わる人物と岐阜城の大きな関わりは、どちらかと言えば関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城攻めに重きが置かれます。
西軍に味方した織田秀信が立て籠もる岐阜城を攻めた東軍の軍監は、井伊直政と本多忠勝だったので、岐阜城攻めは井伊・本多の指示によって行われます。
そして守り手の秀信の家老は木造左衛門具政と百々越前守家綱の名前を特によく目にします。
この百々家綱は元々浅井長政に仕え、野良田表の戦いの頃に佐和山城主だった百々内蔵助の一族と考えられています。
姉川の戦いの後で織田信長に仕えて、鳥居本の辺りに関所を築いて守ったとされ、安土城築城にも関わった築城の名手とされていて、江戸期には江戸城・高知城・丹波篠山城の築城にも関与したのです。
ちなみに、安土城の麓にある“百々橋”の名前の由来は百々家綱にあるともされています。
『岐阜落城記』によれば岐阜城の戦いの頃は1万石を拝領し8千人で百曲り口を担当しました(現在のリス園の辺り)。同記によれば8月22日に米野村という場所に2500名を率いて布陣し、孫子の兵法に倣って川を渡る15000名近い東軍と戦ったそうです。
5倍の軍に対し優勢に戦っていましたが、数の力には勝てず死を覚悟しますが木造に止められ、63の首を取ったそうです。
翌日に岐阜城落城、戦後は山内一豊に声を掛けられて家臣として高知に入り、高知城築城総奉行、丹波篠山城築城石垣奉行を務めました。
百々家綱の子孫は上士として土佐藩に残り、江戸時代後期に正清という人物が吉田家に婿として入ります。
この吉田正清の四男が、幕末土佐藩で参政に就任し、「土佐の井伊直弼」とあだ名されて、政敵である武市半平太が組織する土佐勤王党に暗殺される吉田東洋なのです(この辺りは『龍馬伝』のお話)。
そしてもう一人、石田三成が岐阜城に使わした家臣の河瀬左馬助は犬上君の一族の河瀬氏に何らかの関わりのある人物だと考えられるのです。
岐阜城は言わずと知れた織田信長や斎藤道三が居城とした天下の名城と言われた城です。
標高329mの金華山の上に天守を置き、「美濃を制す者は天下を制す」とも言われた城がどのような物であったかを見学する機会となりました。
まずは織田信長像に迎えられます。
便利な物で山道を歩いてもロープウェイを利用しても山頂に辿り着くようになっている岐阜城、その山道の急な角度は城攻めの兵を悩ませた事でしょう。
岐阜城は、関ヶ原の戦いの時に織田信長の孫の秀信(三法師)が35万石を領す城主でしたが、西軍に付いたために攻め落とされて関ヶ原の戦いの後に廃城となり、本多忠勝が麓へ建物を移築して加納城を築いた為に、江戸時代は城としての機能を果たす事が無かったのです。
“加納城跡”
明治43年に一度復興されますが、昭和18年に焼失、昭和31年に改めて復興されるという歴史を歩んだのでした。
ロープウェイの乗り場辺りから天守に向かうと、まずは天下第一の門を潜ります。
三の丸だった所で、関ヶ原前の岐阜城攻めでは激しい銃撃戦があった場所でもあるそうです。
天守の下には井戸が残っていますが、ここが天守に一番近い水場となると、籠城戦には水を考えるとあまり適さない場所とも考えられます。
また千成瓢箪発祥の地として、織田信長の稲葉山城(岐阜城の旧名)攻めの時に、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が目印に千成瓢箪を立てた場所が残されています。
当時の秀吉は堀尾茂助(吉晴)の案内で山道を登り、天守近くに印を上げる事によって味方を城に引き入れたと言われていますが、もしそれが本当の話なら、天下の堅城として知られた岐阜城は山道を見つからずに登りきれば、本丸の喉元まで行けた事になります。
別の話として、竹中半兵衛が16名を率いて城を落とし一年間占領してから旧主である斎藤龍興に返したエピソードも有名ですが、秀吉と半兵衛の話の両方に言える事は、この城は内側に入ってしまえば落ちる城だったのかもしれません。
正攻法の城攻めには強固で、ゲリラには弱い城だったのでしょうか?
そこでふっと考えるのは、稲葉山城として荒れた城地を再建した斎藤道三から織田秀信までの城主を見ると、
1.斎藤道三…長良川の戦いで息子の義龍に討たれる
2.斎藤義龍…35歳で若死
3.斎藤龍興…稲葉山城を失い流浪、朝倉義景を頼るが朝倉家滅亡時に討ち死
4.織田信長…本能寺に変で自害
5.織田信忠…本能寺の変の時に二条城で自害
6.織田信孝…兄の信雄と争い、自害
7.池田元助…長久手の戦いで戦死
8.池田輝政…姫路城を築城し大大名になり病没、秀吉の呪い説が囁かれている
9.羽柴秀勝…朝鮮出兵直前に名護屋で急死
10.織田秀信…高野山に幽閉され26歳で死去
と、天寿を全うしたと言えるのは池田輝政くらいです、しかしそんな輝政すら妙な噂が流れるということは、死に不審があった可能性もあるのです。
ゲリラ戦に弱い城は、その城主すらも正当な人生を送らせてくれなかったのでしょうか?
話が横道に逸れましたが、そんな岐阜城の天守は平成になってから大改修が行われ、美しい姿を見せてくれます。
近くには岐阜城資料館として櫓が一つ造られています。
麓に降りると、織田信長が館を構えた跡地の発掘調査と保存が行われていて、出土した石垣の積み直しが行われている部分もあったり、
信長以前の石垣と思われる物も出てきているそうです。
また、岐阜城公園は歴史的に大きな事件の現場となるのです。
明治15年4月6日、板垣退助が演説を終えて帰路に就こうとした所で突然暴漢(相原尚褧・あいはらなおぶみ)に襲われ左胸を短刀で刺されるのです。
『岐阜事件』や『板垣退助遭難事件』と呼ばれるこの出来事の時に板垣が「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとされ(史実かどうかは今も議論されています)、歴史に残る名言となっていますが、実はこの2日後に彦根城楽々園で板垣を招いた彦根自由党による自由懇親会が予定されていた事はあまり知られていません。
彦根と自由民権運動の関わりについては、機会がありましたらまた書いてみたいと思います。
さて、岐阜事件での彦根と岐阜城との関わりは少しありましたが、彦根に関わる人物と岐阜城の大きな関わりは、どちらかと言えば関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城攻めに重きが置かれます。
西軍に味方した織田秀信が立て籠もる岐阜城を攻めた東軍の軍監は、井伊直政と本多忠勝だったので、岐阜城攻めは井伊・本多の指示によって行われます。
そして守り手の秀信の家老は木造左衛門具政と百々越前守家綱の名前を特によく目にします。
この百々家綱は元々浅井長政に仕え、野良田表の戦いの頃に佐和山城主だった百々内蔵助の一族と考えられています。
姉川の戦いの後で織田信長に仕えて、鳥居本の辺りに関所を築いて守ったとされ、安土城築城にも関わった築城の名手とされていて、江戸期には江戸城・高知城・丹波篠山城の築城にも関与したのです。
ちなみに、安土城の麓にある“百々橋”の名前の由来は百々家綱にあるともされています。
『岐阜落城記』によれば岐阜城の戦いの頃は1万石を拝領し8千人で百曲り口を担当しました(現在のリス園の辺り)。同記によれば8月22日に米野村という場所に2500名を率いて布陣し、孫子の兵法に倣って川を渡る15000名近い東軍と戦ったそうです。
5倍の軍に対し優勢に戦っていましたが、数の力には勝てず死を覚悟しますが木造に止められ、63の首を取ったそうです。
翌日に岐阜城落城、戦後は山内一豊に声を掛けられて家臣として高知に入り、高知城築城総奉行、丹波篠山城築城石垣奉行を務めました。
百々家綱の子孫は上士として土佐藩に残り、江戸時代後期に正清という人物が吉田家に婿として入ります。
この吉田正清の四男が、幕末土佐藩で参政に就任し、「土佐の井伊直弼」とあだ名されて、政敵である武市半平太が組織する土佐勤王党に暗殺される吉田東洋なのです(この辺りは『龍馬伝』のお話)。
そしてもう一人、石田三成が岐阜城に使わした家臣の河瀬左馬助は犬上君の一族の河瀬氏に何らかの関わりのある人物だと考えられるのです。