(前編より)
大老になった井伊直弼はアメリカと通商条約を締結したのです、これが安政5年(1858)今から150年前です。この時の条約の内容は貿易です。阿部ちゃんが安政元年に結んだのは、日本を寄港地として使って結構ですよとの「仲良くしましょう条約」ですね。
安政5年は、修好通商条約で「貿易を実際にやりましょう条約」なのです。実際の条約調印者は岩瀬忠震と井上清直の二人でした、井伊直弼ではないのです。権限を委任して二人に任せたという事であります。
この時も勅許の問題が浮かび上がり直弼さんも責められました、天皇の許可を得ないで条約を結んでいいのか?との問題は江戸城内でもあり溜間詰の大名でも信州上田藩主の松平忠固(老中)はやはり許可がいるのではないのか?と主張したのです。
しかしここで考えなければならないのは井伊直弼さんも尊皇ということです。これは国学で本居宣長の学問を学んでいれば、必然的に「皇室を尊重しよう」との心が湧いてくるのです。だから直弼さんの尊皇心は非常に強い、けれどの敢えて勅許を得ずに岩瀬・井上の二人に全権を委任し条約を結ばせたのは、やはり主権意識があったからのでしょう。
それは家康公の時代に国政の権限を征夷大将軍に委ねられているんだ。との思い。だからその事によって直弼さんは尊皇心を別に考えていたかもしれない。
つまり朝廷を政治の実権を持った存在として考えるのではなく、尊崇すべき尊い存在なんだ。どちらかというと精神的な宗教に近いような心を持っていたのではないか。
だからと言って馬鹿にしている訳ではなく、政治の実権は今自分に与えられているのだから代弁者になって、どこの国とどういう取り決めをしても完全に委ねられているものなのだ。岩瀬・井上がやった事はおれのやったことと同じで、問題が起こったら必ず責任を取るぞ。と腹を括っていたのですね。
しかし世論はそういう訳にはいかず、結果はやはり勅許という天皇に対する手続きは取らないといけない…。始めは報告をすれば済むだろうと、速達か何か(飛脚の手を通じた簡単な報告)を送ったらしいのですが、当時の京都には尊皇攘夷の志士がたくさん集まっているので「とんでもない奴だ、誰かが来て勅許を求めろ!」という事になり、老中首座の堀田正睦(佐倉藩主)を派遣したのですが、朝廷は「それよりも攘夷を行え」とけんもほろろ。
直弼さんはこの頃から「この国難を乗り切る為に阿部は譜代大名と外様大名の連合政権を考えたが、俺は公武合体で朝廷と幕府を一緒にしなければダメだと考える」と思い出したのです。
その分かり易い手は皇室から将軍にお嫁さんを貰う事だ。という案です。ですから和宮降嫁は直弼さんの頃からあったのです、この後を受けた久世広周らが行いますが構想は直弼さんからだったのです。それによって国が一体になって外敵から守りぬくという考えですね。
井伊家は祖先の直政以来、徳川家と特別な間柄にありまいたよね、しかも徳川四天王の一人です。
しかし先ほども申しあげたように三河譜代の家臣ではなく、井伊谷で父親までは今川家の家臣だったのです。それが家康に見出されて仕えるようになったという事は、ある意味では外様的な立場にあったのです。しかし家康は完全に直政の忠誠心を信じている。ですから自らの四男・忠吉の舅にしちゃうのです。
徳川四天王の言い方も色々ありますが私が覚えているのは「井伊・本多・酒井・榊原」で四天王のTOP に挙がっていますよね。そして武田家を滅ぼした時に家康は、武田遺臣を大量に抱え山県昌景という人が武田家中の勇猛な代名詞だった赤備えを率いていたのを、家康は井伊家にこれを引き受けろと言い、山県遺臣と共に赤備えを任せた。ですからこの後井伊軍団の姿を見ると「赤鬼だ」と恐れられたという話がありますね。
直弼は、公武合体のような案を持てこうやっていこう、しかし攘夷はできない。大名の軍事力を束にしても到底外国には叶わない。それならば日本が大きな船を造って海を越えて外国と積極的に交流すべきではないのか?という考えを持ったのです。
初めのうちは井伊直弼も徳川幕府は徳川家の政府という気持ちがあったと私は思います。
この頃の日本は「天領」と「藩領」に分かれていました。天領は徳川家が直接治める土地で600万石とも800万石とも言われています。ここに直接支配でお米を中心とした年貢を収入源として徳川家の賄いをしている。
老中や若年寄や他の官僚も徳川家の私的政府の役人である。という考えになります。ですから「徳川家のために幕府は君臨していたらいいのだ」という事でしょ?
藩領は十割自治で、藩と藩の間に厳しい国境が設けられていて、人の移動はなかなかできない。藩は自分の行政区域を“国”と言っています。この考えは今も残っているのです。
私は江戸以外に故郷がありませんから小学校の夏休みが終わったあとは仲間外れでした。みんな国に帰っていて土産話をしているのに入れず、一人校庭の端でしょぼくれて居たのです、ちょうど埋木舎に居たように(笑)
そして今でも使っているのですよ。「童門さん、ちょっと国に帰ってきます。あなた国は無いんでしょ?」って、癪に障るから聞き返すんです「今何て言ったのですか?」と、すると「ちょっと国に帰ってきます」だから「あなたの国は日本じゃ無いのですか?」と言うんです。まだ江戸時代の幕藩体制が生きてるんですね。
徳川家も全国に分かれていても徳川家の事だけを考えていれば良く“徳川ローカリズム”ですね、藩も自分の所で自己完結していれば良かったのです問題があった時だけ取り潰すという統制はするけど十割自治だったのです。
ところが「そうはいかないよ」という考えが直弼の頭の中で生まれてきました。外圧です。そこで“ナショナリズム”が育ちます。
地方主義から、日本全体のことを考えなければいけないというハードルが上がり、もっといえば国際主義“グローバリズム”へと発展していったのです。
TVを観ていたら「中国だけではなく東南アジアに一村一品運動が広がっている」との話がありました。一村一品運動を提唱した大分県知事の平松守彦さんは「姫島で車エビを一匹育てるにしても、山里でシイタケ一個を育てるにしても、グローカリズムという考えを持って欲しい」と言ったのです。ですからエビ一匹、シイタケ一個に国際情勢の認識を持つこと、そして今日本の国内問題に何があるか考えること、そして同時にそれを踏まえた上で地方としてどう生きて言えばいいのか?という事ですね。
江戸時代の幕藩体制は今で言うなら、地方自治体の組長が入閣して大臣になっているのです。ですから井伊直弼さんが大老というナショナルレベルでの要職に就いていても、彦根藩主の席は捨てておらず藩主兼任でそのまま総理大臣として攘夷問題もやっているのです。
ですから“ローカリズム”“ナショナリズム”“グローバリズム”の感性も併せ持っていないと、彦根藩政でも上手くいかないのです。そこが私は直弼さんの偉いところだったと思うのです。
国際情勢ではすでにオランダ語は時代遅れでした。寛永16年(1639)徳川幕府は天草島原の乱をきっかけとして鎖国を行いました、しかし完全な鎖国ではなく、実際には長崎港はずっと開国をしていてしかも朝鮮・中国・オランダとは交易をしていて、外国の医療や絵の遠近法などはオランダから入ってきているのです。しかし幕末の時に学識経験者や高位高官が学んでいたのはオランダ語だったのです、でも「そうではないぞ」と気が付いたのが福沢諭吉でした。
大坂の緒方洪庵の適塾でオランダ語を学んでいたのですが「違うぞ」と、それは直弼さんが結んだ条約で開港した横浜港が通商の基地となり、福沢諭吉が横浜の外国人居留地の看板にオランダ語は一つもない、会話が分からなくてチンプンカンプン、分かる人に聞いたらそれは英語だよと言われた。その事が言葉の問題を日本人にガラリと変えさせる事になったのです。
直弼さんは、アメリカと結んだ通商条約を批准させる為にワシントンに使いを派遣します。この中に目付として小栗上野介が派遣されますが、小栗の発見者は直弼さんなんです。
小栗上野介は、次の将軍は誰か?という運動には参加せず自分なりに知識を蓄積していった。そして貨幣レートの問題を「金の含有量で評価すべきだ」としてアメリカに小判を持ってきました、向こうで秤にかけてみると日本の方が価値があったのです。
ですから「なぜ金の含有量が多い日本の方が価値が低いんだ」と掛け合いアメリカ人に「日本には怖い人がいる」と認識させたのでした。
直弼さんは、大老になった時に市井にあって一般庶民や心ある者をたぶらかす言説の徒という者を非常に嫌いました。安政の大獄の中でも一番酷い目に遭ったのは学識経験者でした。吉田松陰・橋本佐内・頼三樹三郎・梅田雲濱らは全部そうでした。
私は良いか悪いかは別にして「この安政の大獄によって個人の意思と個人からなるグループが活動の場を断たれ、その後に藩という組織が前に出てきて、しかもその組織の背景になったのがイギリスとフランスであり、それは日本の産品に関心があった」のです。
日本の産品で一番の売れ筋はお茶と生糸で、お茶を一番求めたのはイギリスで、生糸を求めたのはフランスでした。
フランスは世界有数の絹消費国ですが、この頃フランス国内の蚕が病気になり中国に絹を求めたのですが、この絹が黄色くて質が悪く、横浜に積み出された日本の絹(羽二重)は質が良くフランスは独占を目論なのです。
結果的にイギリスのお茶、フランスの生糸が、幕末の組織の裏スポンサーとなりパトロンとなっていったのです。フランスが幕府に、イギリスのパークスやアーネスト・サトウは薩摩藩や長州藩とそれぞれに分かれたのです。それがお互いに独占したい為の許可権、主権がどこにあるのか?という事だったのです。
直弼さんは、その主権は元和以来幕府にあるとし、薩長は「それならなんで勅許を求めた?天皇の許可を求めるという事は、征夷大将軍以外の存在がある事ではないか?」と主張しイギリスのパークスがこれに目を付けたのでした。
これからは実力のある雄藩の時代になる、イギリスは西南の大名家を後押しした方が国益になる。という判断でした。
後の事になりますが、徳川慶喜が大政奉還後に「外交権は自分にある」と主張する為に大坂で外国の公使と会いました。
この時、アメリカ・フランス・オランダ・ロシアらの公使は将軍に対し“マジェスタン(陛下)”という尊称を使いましたが、イギリスは“ヨハイネスト(殿下)”つまり殿下の上に陛下が居る、それは京都の天皇だ。としたのです。
結果的に薩長・イギリスの後押しによって維新が成立していく訳でありますが、安政の大獄によって揺り返しが来ましたね。
万延元年三月三日。
その前夜は大雪で、この日は節句の日ですから大名は将軍に挨拶をしなければならない。桜田門の傍に差し掛かった時に屋台が出ている、そこで武鑑を読んでいる複数の浪士が居たのです。
武鑑は紋所などを見て駕籠がそこの大名か見当をつける参考書のような物でした、そして井伊さんの行列が来る。突然短銃が一発鳴って斬りかかってきた。
18人のうち17人までが水戸の浪士で、1人が有村次左衛門という薩摩浪士でありました。この時に直弼さんは従容として「今の時代は人間一人殺したからといって変わるものではない、こいつらは遅れている」と思ったと思います。この時に後始末に当たったのが平藩主で和宮降嫁の実行者だった安藤信正でした、特別な計らいで直弼は首を斬られた事にせず、病気で具合が悪くて自宅へお帰りになったという事で、安藤は見舞いに行ってます。
井伊家は後継ぎをたてた後で、直弼の死を発表したのです。
私が個人的に非常に(直弼に)親近感を持つのは国学の勉強を非常になされていた、歌作りの名人で歌人であった。という事はある意味で文学精神を持っているという事ですね。
私のような軟なものではなく、スピリットとして綺麗な純粋なものを持ち続けて居たんなろうと思います。17歳から32歳までの15年間を埋木舎でずっと過ごし、長野主膳という相手が居てもやはり暗い思いや将来に対する希望を断たれるという、人間として本当は味わいたくない、若い時ならばもっと活発に恋もしたいし、あれもしたいというものがありますよね?
それがある程度抑え込まれているという状況の中で生まれてきたものが、彼の精神を強くしていった。しかし土台にあった物は文学を愛した詩人のスピリットであったろう、魂であったろうという気がいたします。
私は呼ばれた土地で、そこから出た人の悪口は絶対に言わないので、みんな褒め称えておりますのでだから仕事ができているのかな?と思いますが、井伊さんはまた改めて舟橋さんとは違った意味の『花の生涯』を書きたいな。という気でおります。
せっかくお時間をいただいたのですが、日も暮れかかっておりますので私も失礼いたします。お役に立てず「どうもん、すいません」(笑)
《取材》
(管理人)
一番質問したかった事は、公演の最後に「地元では悪口は言いません」と言われてしまいましたので、凝縮していますが、今まで井伊直弼に対していい評価はありませんでしたね?
(童門氏)
そうですね、安政の大獄があるのでどうしてもね。
(管理人)
ちょっとショックを受けましたのが『井伊大老暗殺』という本を読ませていただいた時に“井伊直弼と長野主膳は前半生ネクラな「怨念コンビ」”と書かれていて、その先生がどんな講演をされるのかな?と楽しみで寄せていただいたのですが、そんなところは抑えつつも文化面で評価を頂いてありがたく思っています。
(童門氏)
私も国学を知る内に変わってきたのです。それは本居宣長の「万葉のその時生きていた人々にまで感覚を立ち戻らせたまえ」という言い方に「なるほどな」と思い、荻生徂徠が古学を唱えた時にやっぱり「古い文書を読む事は、古い時代に生きていた人の生活感覚が文章に反映されなければならない。それがどういう物か分からないで喋喋喃喃(ちょうちょうなんなん・しきりに喋るの意)するな」と言っていたでしょ?
それがね、相当痛い衝撃を受けて反省しています。
(管理人)
今の先生の井伊直弼感は文化人としてのイメージを大きく持っておられるという事でしょうか?
(童門氏)
政治の文化化、文化行政を行うという事ではなくて、文化性というものをスピリットの中に付加価値として加える事によって、政治の幅や厚みが広がり深まるであろうという事ですね。
ですから私は行政が文化事業をやることに余り賛成はしないのです。つまり生け花や陶器つくりなどの生涯学習は趣味でやっているもので、税金でやることではなく自分の金でやることですよね。
でも、行政の文化化は大事です。それは市役所や県庁の役人がカルチャーという物を自分が平天下・治国・斉家・修身でしょ?
つまり、政治全体の国の事を考えるのも、自分の身を修めることが一番最初ですよね。その自分の修身を修める時にこれからはカルチャーを相当自分の精神に植え付けて行かなきゃいけない時代かな?と思います。
それで、一時期は「井伊と長野は悪い野郎だ」と思っていたのだけれどもだんだん考えが変わってきました。
(管理人)
ありがとうございました。
大老になった井伊直弼はアメリカと通商条約を締結したのです、これが安政5年(1858)今から150年前です。この時の条約の内容は貿易です。阿部ちゃんが安政元年に結んだのは、日本を寄港地として使って結構ですよとの「仲良くしましょう条約」ですね。
安政5年は、修好通商条約で「貿易を実際にやりましょう条約」なのです。実際の条約調印者は岩瀬忠震と井上清直の二人でした、井伊直弼ではないのです。権限を委任して二人に任せたという事であります。
この時も勅許の問題が浮かび上がり直弼さんも責められました、天皇の許可を得ないで条約を結んでいいのか?との問題は江戸城内でもあり溜間詰の大名でも信州上田藩主の松平忠固(老中)はやはり許可がいるのではないのか?と主張したのです。
しかしここで考えなければならないのは井伊直弼さんも尊皇ということです。これは国学で本居宣長の学問を学んでいれば、必然的に「皇室を尊重しよう」との心が湧いてくるのです。だから直弼さんの尊皇心は非常に強い、けれどの敢えて勅許を得ずに岩瀬・井上の二人に全権を委任し条約を結ばせたのは、やはり主権意識があったからのでしょう。
それは家康公の時代に国政の権限を征夷大将軍に委ねられているんだ。との思い。だからその事によって直弼さんは尊皇心を別に考えていたかもしれない。
つまり朝廷を政治の実権を持った存在として考えるのではなく、尊崇すべき尊い存在なんだ。どちらかというと精神的な宗教に近いような心を持っていたのではないか。
だからと言って馬鹿にしている訳ではなく、政治の実権は今自分に与えられているのだから代弁者になって、どこの国とどういう取り決めをしても完全に委ねられているものなのだ。岩瀬・井上がやった事はおれのやったことと同じで、問題が起こったら必ず責任を取るぞ。と腹を括っていたのですね。
しかし世論はそういう訳にはいかず、結果はやはり勅許という天皇に対する手続きは取らないといけない…。始めは報告をすれば済むだろうと、速達か何か(飛脚の手を通じた簡単な報告)を送ったらしいのですが、当時の京都には尊皇攘夷の志士がたくさん集まっているので「とんでもない奴だ、誰かが来て勅許を求めろ!」という事になり、老中首座の堀田正睦(佐倉藩主)を派遣したのですが、朝廷は「それよりも攘夷を行え」とけんもほろろ。
直弼さんはこの頃から「この国難を乗り切る為に阿部は譜代大名と外様大名の連合政権を考えたが、俺は公武合体で朝廷と幕府を一緒にしなければダメだと考える」と思い出したのです。
その分かり易い手は皇室から将軍にお嫁さんを貰う事だ。という案です。ですから和宮降嫁は直弼さんの頃からあったのです、この後を受けた久世広周らが行いますが構想は直弼さんからだったのです。それによって国が一体になって外敵から守りぬくという考えですね。
井伊家は祖先の直政以来、徳川家と特別な間柄にありまいたよね、しかも徳川四天王の一人です。
しかし先ほども申しあげたように三河譜代の家臣ではなく、井伊谷で父親までは今川家の家臣だったのです。それが家康に見出されて仕えるようになったという事は、ある意味では外様的な立場にあったのです。しかし家康は完全に直政の忠誠心を信じている。ですから自らの四男・忠吉の舅にしちゃうのです。
徳川四天王の言い方も色々ありますが私が覚えているのは「井伊・本多・酒井・榊原」で四天王のTOP に挙がっていますよね。そして武田家を滅ぼした時に家康は、武田遺臣を大量に抱え山県昌景という人が武田家中の勇猛な代名詞だった赤備えを率いていたのを、家康は井伊家にこれを引き受けろと言い、山県遺臣と共に赤備えを任せた。ですからこの後井伊軍団の姿を見ると「赤鬼だ」と恐れられたという話がありますね。
直弼は、公武合体のような案を持てこうやっていこう、しかし攘夷はできない。大名の軍事力を束にしても到底外国には叶わない。それならば日本が大きな船を造って海を越えて外国と積極的に交流すべきではないのか?という考えを持ったのです。
初めのうちは井伊直弼も徳川幕府は徳川家の政府という気持ちがあったと私は思います。
この頃の日本は「天領」と「藩領」に分かれていました。天領は徳川家が直接治める土地で600万石とも800万石とも言われています。ここに直接支配でお米を中心とした年貢を収入源として徳川家の賄いをしている。
老中や若年寄や他の官僚も徳川家の私的政府の役人である。という考えになります。ですから「徳川家のために幕府は君臨していたらいいのだ」という事でしょ?
藩領は十割自治で、藩と藩の間に厳しい国境が設けられていて、人の移動はなかなかできない。藩は自分の行政区域を“国”と言っています。この考えは今も残っているのです。
私は江戸以外に故郷がありませんから小学校の夏休みが終わったあとは仲間外れでした。みんな国に帰っていて土産話をしているのに入れず、一人校庭の端でしょぼくれて居たのです、ちょうど埋木舎に居たように(笑)
そして今でも使っているのですよ。「童門さん、ちょっと国に帰ってきます。あなた国は無いんでしょ?」って、癪に障るから聞き返すんです「今何て言ったのですか?」と、すると「ちょっと国に帰ってきます」だから「あなたの国は日本じゃ無いのですか?」と言うんです。まだ江戸時代の幕藩体制が生きてるんですね。
徳川家も全国に分かれていても徳川家の事だけを考えていれば良く“徳川ローカリズム”ですね、藩も自分の所で自己完結していれば良かったのです問題があった時だけ取り潰すという統制はするけど十割自治だったのです。
ところが「そうはいかないよ」という考えが直弼の頭の中で生まれてきました。外圧です。そこで“ナショナリズム”が育ちます。
地方主義から、日本全体のことを考えなければいけないというハードルが上がり、もっといえば国際主義“グローバリズム”へと発展していったのです。
TVを観ていたら「中国だけではなく東南アジアに一村一品運動が広がっている」との話がありました。一村一品運動を提唱した大分県知事の平松守彦さんは「姫島で車エビを一匹育てるにしても、山里でシイタケ一個を育てるにしても、グローカリズムという考えを持って欲しい」と言ったのです。ですからエビ一匹、シイタケ一個に国際情勢の認識を持つこと、そして今日本の国内問題に何があるか考えること、そして同時にそれを踏まえた上で地方としてどう生きて言えばいいのか?という事ですね。
江戸時代の幕藩体制は今で言うなら、地方自治体の組長が入閣して大臣になっているのです。ですから井伊直弼さんが大老というナショナルレベルでの要職に就いていても、彦根藩主の席は捨てておらず藩主兼任でそのまま総理大臣として攘夷問題もやっているのです。
ですから“ローカリズム”“ナショナリズム”“グローバリズム”の感性も併せ持っていないと、彦根藩政でも上手くいかないのです。そこが私は直弼さんの偉いところだったと思うのです。
国際情勢ではすでにオランダ語は時代遅れでした。寛永16年(1639)徳川幕府は天草島原の乱をきっかけとして鎖国を行いました、しかし完全な鎖国ではなく、実際には長崎港はずっと開国をしていてしかも朝鮮・中国・オランダとは交易をしていて、外国の医療や絵の遠近法などはオランダから入ってきているのです。しかし幕末の時に学識経験者や高位高官が学んでいたのはオランダ語だったのです、でも「そうではないぞ」と気が付いたのが福沢諭吉でした。
大坂の緒方洪庵の適塾でオランダ語を学んでいたのですが「違うぞ」と、それは直弼さんが結んだ条約で開港した横浜港が通商の基地となり、福沢諭吉が横浜の外国人居留地の看板にオランダ語は一つもない、会話が分からなくてチンプンカンプン、分かる人に聞いたらそれは英語だよと言われた。その事が言葉の問題を日本人にガラリと変えさせる事になったのです。
直弼さんは、アメリカと結んだ通商条約を批准させる為にワシントンに使いを派遣します。この中に目付として小栗上野介が派遣されますが、小栗の発見者は直弼さんなんです。
小栗上野介は、次の将軍は誰か?という運動には参加せず自分なりに知識を蓄積していった。そして貨幣レートの問題を「金の含有量で評価すべきだ」としてアメリカに小判を持ってきました、向こうで秤にかけてみると日本の方が価値があったのです。
ですから「なぜ金の含有量が多い日本の方が価値が低いんだ」と掛け合いアメリカ人に「日本には怖い人がいる」と認識させたのでした。
直弼さんは、大老になった時に市井にあって一般庶民や心ある者をたぶらかす言説の徒という者を非常に嫌いました。安政の大獄の中でも一番酷い目に遭ったのは学識経験者でした。吉田松陰・橋本佐内・頼三樹三郎・梅田雲濱らは全部そうでした。
私は良いか悪いかは別にして「この安政の大獄によって個人の意思と個人からなるグループが活動の場を断たれ、その後に藩という組織が前に出てきて、しかもその組織の背景になったのがイギリスとフランスであり、それは日本の産品に関心があった」のです。
日本の産品で一番の売れ筋はお茶と生糸で、お茶を一番求めたのはイギリスで、生糸を求めたのはフランスでした。
フランスは世界有数の絹消費国ですが、この頃フランス国内の蚕が病気になり中国に絹を求めたのですが、この絹が黄色くて質が悪く、横浜に積み出された日本の絹(羽二重)は質が良くフランスは独占を目論なのです。
結果的にイギリスのお茶、フランスの生糸が、幕末の組織の裏スポンサーとなりパトロンとなっていったのです。フランスが幕府に、イギリスのパークスやアーネスト・サトウは薩摩藩や長州藩とそれぞれに分かれたのです。それがお互いに独占したい為の許可権、主権がどこにあるのか?という事だったのです。
直弼さんは、その主権は元和以来幕府にあるとし、薩長は「それならなんで勅許を求めた?天皇の許可を求めるという事は、征夷大将軍以外の存在がある事ではないか?」と主張しイギリスのパークスがこれに目を付けたのでした。
これからは実力のある雄藩の時代になる、イギリスは西南の大名家を後押しした方が国益になる。という判断でした。
後の事になりますが、徳川慶喜が大政奉還後に「外交権は自分にある」と主張する為に大坂で外国の公使と会いました。
この時、アメリカ・フランス・オランダ・ロシアらの公使は将軍に対し“マジェスタン(陛下)”という尊称を使いましたが、イギリスは“ヨハイネスト(殿下)”つまり殿下の上に陛下が居る、それは京都の天皇だ。としたのです。
結果的に薩長・イギリスの後押しによって維新が成立していく訳でありますが、安政の大獄によって揺り返しが来ましたね。
万延元年三月三日。
その前夜は大雪で、この日は節句の日ですから大名は将軍に挨拶をしなければならない。桜田門の傍に差し掛かった時に屋台が出ている、そこで武鑑を読んでいる複数の浪士が居たのです。
武鑑は紋所などを見て駕籠がそこの大名か見当をつける参考書のような物でした、そして井伊さんの行列が来る。突然短銃が一発鳴って斬りかかってきた。
18人のうち17人までが水戸の浪士で、1人が有村次左衛門という薩摩浪士でありました。この時に直弼さんは従容として「今の時代は人間一人殺したからといって変わるものではない、こいつらは遅れている」と思ったと思います。この時に後始末に当たったのが平藩主で和宮降嫁の実行者だった安藤信正でした、特別な計らいで直弼は首を斬られた事にせず、病気で具合が悪くて自宅へお帰りになったという事で、安藤は見舞いに行ってます。
井伊家は後継ぎをたてた後で、直弼の死を発表したのです。
私が個人的に非常に(直弼に)親近感を持つのは国学の勉強を非常になされていた、歌作りの名人で歌人であった。という事はある意味で文学精神を持っているという事ですね。
私のような軟なものではなく、スピリットとして綺麗な純粋なものを持ち続けて居たんなろうと思います。17歳から32歳までの15年間を埋木舎でずっと過ごし、長野主膳という相手が居てもやはり暗い思いや将来に対する希望を断たれるという、人間として本当は味わいたくない、若い時ならばもっと活発に恋もしたいし、あれもしたいというものがありますよね?
それがある程度抑え込まれているという状況の中で生まれてきたものが、彼の精神を強くしていった。しかし土台にあった物は文学を愛した詩人のスピリットであったろう、魂であったろうという気がいたします。
私は呼ばれた土地で、そこから出た人の悪口は絶対に言わないので、みんな褒め称えておりますのでだから仕事ができているのかな?と思いますが、井伊さんはまた改めて舟橋さんとは違った意味の『花の生涯』を書きたいな。という気でおります。
せっかくお時間をいただいたのですが、日も暮れかかっておりますので私も失礼いたします。お役に立てず「どうもん、すいません」(笑)
《取材》
(管理人)
一番質問したかった事は、公演の最後に「地元では悪口は言いません」と言われてしまいましたので、凝縮していますが、今まで井伊直弼に対していい評価はありませんでしたね?
(童門氏)
そうですね、安政の大獄があるのでどうしてもね。
(管理人)
ちょっとショックを受けましたのが『井伊大老暗殺』という本を読ませていただいた時に“井伊直弼と長野主膳は前半生ネクラな「怨念コンビ」”と書かれていて、その先生がどんな講演をされるのかな?と楽しみで寄せていただいたのですが、そんなところは抑えつつも文化面で評価を頂いてありがたく思っています。
(童門氏)
私も国学を知る内に変わってきたのです。それは本居宣長の「万葉のその時生きていた人々にまで感覚を立ち戻らせたまえ」という言い方に「なるほどな」と思い、荻生徂徠が古学を唱えた時にやっぱり「古い文書を読む事は、古い時代に生きていた人の生活感覚が文章に反映されなければならない。それがどういう物か分からないで喋喋喃喃(ちょうちょうなんなん・しきりに喋るの意)するな」と言っていたでしょ?
それがね、相当痛い衝撃を受けて反省しています。
(管理人)
今の先生の井伊直弼感は文化人としてのイメージを大きく持っておられるという事でしょうか?
(童門氏)
政治の文化化、文化行政を行うという事ではなくて、文化性というものをスピリットの中に付加価値として加える事によって、政治の幅や厚みが広がり深まるであろうという事ですね。
ですから私は行政が文化事業をやることに余り賛成はしないのです。つまり生け花や陶器つくりなどの生涯学習は趣味でやっているもので、税金でやることではなく自分の金でやることですよね。
でも、行政の文化化は大事です。それは市役所や県庁の役人がカルチャーという物を自分が平天下・治国・斉家・修身でしょ?
つまり、政治全体の国の事を考えるのも、自分の身を修めることが一番最初ですよね。その自分の修身を修める時にこれからはカルチャーを相当自分の精神に植え付けて行かなきゃいけない時代かな?と思います。
それで、一時期は「井伊と長野は悪い野郎だ」と思っていたのだけれどもだんだん考えが変わってきました。
(管理人)
ありがとうございました。