木俣守勝は九歳で徳川家康に出仕するがこれは幼すぎるわけではない。当時に武士たちは元服前から主に自らの子を預け教育や人間関係の構築を任せている。こうすることで主従関係が穏便に保たれたとも考えられる。しかし守勝は19歳で徳川家を出奔した。
守勝が徳川家を出奔した理由に定説はない。一般的には家族との確執と言われていて高殿円さんは守勝を主人公とした小説『主君』(文春文庫)の中で異母一家との不和を描いていた。確かに守勝の人生を見てみると家族の絆には恵まれておらず後には妻方(井伊直虎の従姉妹)の甥守安を養子に迎えているため木俣家の血を残すこともできてはいない。しかし家族に原因があるような出奔を家康が簡単に認めるとは思えない。むしろ守勝出奔は家康の策ではないかと考えてしまう。
前稿で書いた通り家康の父・松平広忠は今川義元からどんな仕打ちを受けても裏切らない律儀者だった。その広忠や周囲の三河武士を見ると徳川(松平)家は義理堅く見え家康もその評価に甘んじているが、家康自身は今川義元・織田信長。豊臣秀吉が亡くなるとその子たちを簡単に見限っている。これらの行動は事前に情報を集めて準備しなければ行えるものではなく情報の収集源はできるだけ当事者に近くなければ意味がない。そう考えるならば信頼する家臣を派遣するのが一番ではないだろうか? 守勝は明智光秀に仕えるようになる。蛇足だが守勝出奔の後に井伊万千代が家康に仕えているため二人の出会いは少し先まで待たねばならない。
光秀に仕えるようになった守勝は、懸命に光秀のために戦った。天正5年(1577)信長に二度目の反旗を翻した松永久秀討伐のために久秀の居城である信貴山城に近い大和片岡城を攻めた光秀軍において守勝は先駆けを行った。片岡城落城後に五日間の在城の後で光秀は信貴山城攻めに参戦するがここにも守勝は従軍したと考えられる。翌年には播磨攻め中の羽柴秀吉への援軍として播磨に入った明智軍に守勝も参戦。別所一族の神吉頼定が籠る神吉城を攻めた。この城はなだらかな高台に築城されていて城攻めは困難を極め、結局は謀略によって落城するが、守勝は可児才蔵と先駆けを争い光秀から感状を受けている。その翌年には石山本願寺攻めでの活躍が信長の耳にも入り、信長に拝謁し50石を与えられるなどの活躍を見せ、本能寺の変の前年に家康が信長に懇願し守勝を徳川家に帰参させたのだった。
光秀との関係の深さや徳川家に帰参したタイミングの良さから近年では、本能寺の変で光秀と家康を繋いだ人物が守勝ではないかとも言われるようになっている。私見としては守勝の帰参が、信長が朝廷を威嚇した御馬揃えよりも前であるため、本能寺の変を念頭に置いた光秀・家康の繋ぎ役が守勝であるような都合がいい話はあり得ないと考えている。ただ、光秀亡きあとその人脈を守勝が取り込んで利用したことは間違いないのだ。
神吉城祉の神吉頼定の墓(兵庫県加古川市東神吉町 常楽寺)