彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊谷訪問記

2009年11月28日 | 井伊家千年紀
2010年の元旦、あと1か月ちょっとで井伊家の始祖・井伊共保が誕生して1000年を迎えるます。

“井伊家千年紀”を見る上では井伊家が始まったところである井伊谷に行かなければ分からない事もあるだろうと思い、訪問してみました。


寛弘7年(1010)元旦に井伊谷八幡宮の井戸傍で拾われた赤ん坊が共保だったそうです。


その男の子に興味を持った、藤原共資という人物が娘婿として7歳になった共保を養子に迎えました。その共資のお城は浜名湖の中にある志津古城とのことです…

現在の地図を見ても、井伊谷と浜名湖は近いようでそれほど近いとは言えません。
この距離が何を意味するのか?
そして井伊谷は共資の所領だったのか?それとも越境をして養子を迎えたのか?
共保の井伊谷移動は順調に行ったのか?
色んな謎が浮かび上がってきます。


そして南北朝時代に、南朝の宗良親王を迎えた井伊道政という人物が、居館の城である井伊谷城と

戦う城である三岳山城

などの山城を駆使して戦をしたそうです。

三岳山城を登りきろうとしたのですが、夕方で山が暗くなっていったのと、あまりにも急な坂に断念しました…
根性無しと自分を責めたいところですが、あっちこっちで折れた木が転がっている場所では堪忍して下さい(汗)

これらの城で戦った宗良親王は様々な形で祀られています。
特に井伊谷宮では井伊直憲によって御陵が作られました。





戦国時代になると井伊家には苦難の時代がやってきました。
井伊直政のお爺さんである直満は弟の直義と一緒に今川義元に殺され、

直政の父親・直親も今川家臣の朝比奈泰朝に掛川城下で暗殺されました。


これらのお墓は井伊直弼が井伊谷に訪問した時に整備したそうです。

井伊家の菩提寺である龍潭寺には井伊家霊殿や

井伊家当主が訪れた時の貴賓室

などが残っていました。


井伊谷を含む戦国期以前の井伊家の支配地は今の浜松市よりも広かったと想定されていて、ご主人の訪問も浜松市内を中心に多方に渡ったそうです。
しかし、案内板などが現地にあるくらいで、その場までの看板がほとんどなく整備された地図の様な物もありませんので、探しながらの訪問となり断念した場所も多いそうです(三岳山城に登るのが遅れたのもそれが原因としてください…)

現地でお聞きした話では、今やっと井伊家の研究が浜松市の行政単位で動くようになったそうです。
今までごく一部の歴史研究者の訪れる場所だった所を、歴史資源として整備する取り組みも浜松市には求められているようですが、彦根市もその点はまだまだ考える余地があると思った管理人でした。
コメント (2)
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国宝四城「松本城」訪問記

2009年11月21日 | 国宝五城
国宝四城を巡る記事も、ついに最後となりました。
今回訪問したのは松本城です。

松本城は、管理人の人生で初めての訪問でした。
姫路城と同じ規模の城でありながら、姫路城に比べて影が薄いイメージが先行していたからです。
実際に松本に到着してもなかなか城の姿が見えず、「五重の天守の割には目立っていない?」との不安感すら持たずにはいられなかったのです。
実際に松本城は、大阪城や名古屋城などの様々な巨大天守を見慣れている人にとってはそんなに大きな城ではありませんでした。

しかし、大手門方面から城の敷地に入ってすぐに目に映った城は、急に管理人の興味を惹くに相応しい風貌を魅せていました。

そこまでも重みがある漆黒の壁、そして四層目より広い五層目の造り、実は松本城が写真では大きく見えるのは、この五層目が広くなっているカラクリが目の錯覚を起こす為なのだそうです。
松本城は天正18年(1590)に、徳川家康の元を離れて豊臣秀吉に臣従した石川数正が、関東に移された家康の西上を食い止める東山道の拠点として築城された城だと言われています。
「ならば、この目の錯覚こそが城を大きく見せる為の造りだったのか?(今と違い当時は近くに建物の高さを比較する巨大建築が無い訳ですし、もっと遠くからも見えたでしょうから…)」と、目の前に見える筈もない徳川家康と石川数正(および豊臣秀吉)の知略を尽くした攻防に歴史ロマンを広げましたが、実際には元々の五層目は廻縁式だったも物が、雪国の強風と寒さが防げないために藩政時代に今の形になったのだそうです。
こんな思い違いも、歴史ロマンのなせる技なのでしょう。

ちなみに、右手に見える赤い廻縁が付いた「月見櫓」も石川時代には無かった建物で、藩政時代に造られた事が昭和の大改修で判明しています。

そんな天守を本丸側から見ると、天守のを挟むように月見櫓と辰巳付櫓が付く安定した建築となっています。

中に入ると武者走りや狭間などの様々な工夫が他の城に負けない位に凝らされていますが、御座所が最上階(6階)と4階にもあるという不思議な作りになっていました。
特に4階の御座所は建物の途中でありながらその空間には柱の邪魔が無かったのです。


訪問時期は紅葉の真っ最中で、月見櫓からは月が観れなくても紅葉を観る事が出来ました。松本藩主や藩士たちはここからどのような花鳥風月を楽しんだのでしょうかね?


松本城の特徴の一つには、まるで浮き城かのように天守のすぐ隣に内濠を残して居る事も挙げられます。
だからこそ、その水面に城を映す風流もある城なのです。

この濠にあるもう一つの名物が、赤い「埋橋」ですね、これは埋門から伸びる橋ですが、埋門は敵に悟られない為の緊急の橋ですから、まさかこんな赤い目立つ橋が付いていたとは思えないので、築城当時とは姿が違うでしょうが、今は松本城のシンボルの一つになっているのですから、日本一目立つ埋門になったのかもしれませんね。


その方向からの松本城も絵になる美しさです。


ちなみに今でこそまっすぐと建っている松本城ですが、明治の初めは西に傾いていました。
これには藩政に対して一揆をおこした加助という人物が、処刑される前に「天守に魂を宿らせ、減税を訴える。その証拠に天守を傾けよう」と言って首を斬られ、その後に傾いたという伝説が残っています。
しかし、調査で解った事は16本あるメインの柱の内の15本が腐っていた為に傾いていたのでした。
天守の解体復元調査は戦後にGHQの指示で動き出した、日本初の城郭の解体修理工事でした。
この為に慎重に慎重が重ねられ、その後の数多くの城郭解体修理工事や復元に役立てる資料をたくさん残したのです。

藩政時代は権力の象徴として不可思議な伝説を残しながらも、今は松本市民の誇りとなっていて、城下には面白い建物もあります。



管理人は彦根城を幼い頃から見て育ち、大概の城を見ても彦根城に勝る物は少ないと思っていました。
姫路城も、城と言うキーワードで見ると「プラモデルのように見える」と以前に書いたと思います。
そういった点で初めて「この城の方が凄い」と思ったのが松本城でした。
コメント (2)
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『井伊直弼を演じて』

2009年11月09日 | 謝罪文
配信停止のお知らせ


11月1日に開催されました大河ドラマ『篤姫』で井伊直弼役を熱演されました中村梅雀さんの講演を全文掲載をさせていただきましたが、関係者様からクレームがあり削除させていただきました。全文掲載にクレームがあった事から短縮バージョンとして再度配信させていただきました。しかし、これにもクレームがあり、今回の講演会は配信停止とさせていただきます。


関係各位様
非営利の任意団体である情報ボランティアですが扱う情報には細心の注意をはらいつつ対応せねばと改めて確認させていただきました。


『どんつき瓦版』編集部
代表 正村圭史郎

E-mail
kawaraban450@yahoo.co.jp
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