彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊家千年の歴史(19)

2017年05月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 戦国時代の井伊家を語るうえで必ず登場する一族が小野家である。しかも井伊家を窮地に落とす獅子身中の虫として扱われている。
 伝承では小野家は小野篁の息子俊生が遠江に住んだことが始まりとされているが、最近では「英比」という家であったとされていて井伊一族だったのではないかとの説や、水野家に繋がる三河の阿久比一族ではないかとの説もある。どんな出自にせよ小野兵庫助という人物が井伊直平に登用された。その理由は兵庫助の文化レベルの高さで、今川義元に仕えるようになった直平にとって必要な人材だったと言われている。これにより井伊家の代表として義元の許に赴くことが多くなった兵庫助はだんだんと今川氏の意向を井伊家に伝える仕事が増えたとも考えられるのだ。
 その兵庫助と同一人物か、一族なのか、は不明だがやがて兵庫助から和泉守へと小野家の主が替って行く。今川氏に近くなった小野家は井伊家家中で浮いた存在になり、井伊一門の直満と対立をするようになった。そしてそんな直満の息子が井伊家直系の直盛の一人娘と婚約し危機感を抱いた和泉守は、直満が武田信玄と内通していると訴えて直満が殺されたとされているが、この時代に信玄が他国へ侵略するだけの基盤はなく今川氏にとっての脅威は北条氏であったため、現在では内通相手は今川氏康でありこれを積極的に行ったのは直平であったと考えられている。私自身、和泉守は直平の井伊家を守るために直満を人柱にしたと考えている。
 直満殺害から10年が過ぎようとする頃に和泉守病没。跡を継いだ但馬守も義元に近い存在であったが但馬守の弟である玄蕃は直満の息子で井伊家の世継ぎとなった直親に仕えていて井伊家と小野家は友好を保っていた。
 しかし桶狭間の戦いで義元や直盛が戦死し、猜疑心に襲われた今川氏真は但馬守を利用して井伊家を滅ぼす方向へと進んでいった。直親が暗殺されただけではなく直平や今川一門の新野左馬助までも非業の最後を迎える。こうして直虎が女領主となり、小野但馬守は家老として井伊家を支える筈だったが氏真の指示によって直虎に徳政令を発するようにとの無理難題を押し付け、これを抗しきれなくなった直虎が徳指令を発したのと同時に井伊家の所領はそのまま但馬守に横領される形となってしまったのだった。しかし一か月強の後に徳川家康の遠州侵攻が始まり但馬守は井伊谷城を追われ四か月後の永禄12年(1566)4月7日に井伊谷領の刑場である蟹淵で処刑される、1か月後には幼い2人の男児も処刑された。
 伝聞だけを紐解くと小野一族は井伊家を滅ぼした原因のように言われているが、小野玄蕃の息子は井伊直政に仕えるなど小野家はその後の井伊家にも良い影響をもたらしている。一面から見たら佞臣かもしれないがその裏には深い忠義があったのかもしれないのだ。
 さて、次稿からは井伊家から離れる、秋にまた井伊家を書きたいと思っている。

小野但馬終焉の地・手前の巨石が但馬の供養石と言われている
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治部蛍計画

2017年05月14日 | イベント
石田三成の居城だった佐和山城。
関ヶ原の戦いの後に落城し、石田一族の墓標ともなったお城です。

その佐和山城の大手口付近に残る内濠跡とされる小川には、蛍が出現します。
数は少なく儚い光を発する蛍たちですが、それはまるで夢の途中で亡くなった三成公にも重なります。

という訳で、佐和山城址の蛍を「治部蛍」と名付け、守りはぐくんで行こうと思い、花しょうぶ通り商店街で行われた「おおたににゃんぶ誕生祭」で来場された皆様の前で協力を依頼しました。

佐和山城の蛍が「治部蛍」と周知され守って行けるように、よろしくお願いします。



関連地 彦根市 佐和山城址
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5月1日、大津~長浜の鉄道連絡路が開港

2017年05月01日 | 何の日?
明治15年(1882)5月1日、東海道本線を結ぶ手段として大津~長浜の鉄道連絡路が開港しました。

イメージとしては青函連絡船と同じような役割です。もっともこの区間は湖の上ですし時代も古いので、鉄道を運ぶわけではありません。
この年に、敦賀から長浜までの鉄道が通ったために、長浜から大津を結ぶ道としてできた日本最初の鉄道連絡船が琵琶湖上で運用されたのです。

もともと明治2年に大聖寺藩が贋金で設けた資本を元手に琵琶湖上に一番丸を就航させたことから琵琶湖上の運輸は盛んになっていたのですが、バラバラでまとまった組織がない状態だったのです。それを藤田組(現・DOWAホールディングス)が頭となって太湖汽船を立ち上げたのです。明治15年時点で18隻を太湖汽船が管理し、大切な水上交通を担っていました。
明治16年には東海道線が長浜まで繋がり、東海道を結ぶ重要な施設になります。

しかし明治22年に長浜から膳所駅までが東海道線で繋がると鉄道連絡船の用途は終わりを迎えたのです。
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