2009年7月23日に佐和山城跡で石田三成時代の遺構が発見された事が記者発表されました。
そして26日に雨の天気に心配しながら現地説明会が行われたのです。
『佐和山城遺跡現地説明会』
滋賀県文化財保護協会
(概要)
佐和山城や石田三成は最近有名で、特に石田三成は“義”に厚い武将として名を高めています。
ですが、これまで佐和山城の縄張り調査をした事はありますが発掘調査をする機会は恵まれませんでした。今回地元で補助整備工事がなされる事になってその一部について発掘調査をいたしました。
その結果、田園の下から非常に保存状態の良好な形で「どうも家臣の屋敷ではないか?」と思われる堀囲いの遺構が発見される事になりました。今の状態から行きますと、おそらく非常に良好な状態で佐和山全体に遺構が残されていると解って参りましたので、これからますますこれらが進展していくのではないかと思っております。
今回は佐和山城での初の本格的な調査で、しかも石田三成時代だと推定される物が出てきました。そういった意味で今回大きな成果が上がったと考えております。
今回の調査は内濠と土塁の内側の区域です。江戸時代に描かれた古地図で“侍屋敷”と書かれた部分で、元々「家臣の屋敷である」と推定されていた地域の調査になり、通常“奥の谷”と呼ばれる部分の谷と山の際の部分になります。
奥の谷と呼ばれる谷(第2調査区)とその隣の土塁の内側(第1調査区)で発掘調査を行っています。
第2調査区では濠・井戸の跡が見つかっています、16世紀の物である事は中から出てくる遺物で明らかになっています。当時の住まいは山城ではなくても普通の平地でも水を引き込んで区画した中で住まいを築いていました。テリトリーを設けた上で屋敷を構えていた事がこれまでの研究成果から解っております。
この濠の機能といたしましては、
1.屋敷を所得する意識がある
2.水が湧き易い所なので、排水的な意味合いもある
と考えられます。
細長い谷ですので、谷の真ん中に水が通ってしまうと屋敷がかなり小さくなってしまうという推定の元に、道路が水路の反対の端にあったのではないか? と推測しております。
そして、濠の横に細長い細い(太い物もありますが)溝がありますので、これがどういった機能を持つ物なのか? とも考えております。
道路の両脇にもそういった溝があって、濠に流れ込む形になっていたのではないか? と考えております。
第2調査区に関しましては、出ている土器が16世紀第四支配期(1575~1600年)の物が出ていて、それ以前の物もそれ以降の物もほとんどありませんので、この当時に入っていた大名の中で石田三成が入城時に大規模な改修工事をしていますので、そのような状況から我々は「これは三成時代の家来たちの住んだ屋敷の痕跡である」と想定しています。
第1調査区でも調査をしましたが、ここには三成時代の物は出てきていません。それよりも前になる16世紀半ばくらいの物だと思われる柱の跡が非常にたくさん見つかっています。当時(浅井時代あたり)はここで屋敷があったのだと思われ、三成時代には使われずに奥の谷が使われるようになったと考えられますが、なぜ浅井時代の屋敷辺りが使われなくなったのかは解りません。何らかの理由があったとは思われます。
《質疑応答》
(管理人)
第1調査区で出てきているのは柱の跡とかですか?
(文化財保護協会)
礎石は非常に少ないです、ただ田圃を作る時に上を削っているので、その時に礎石を飛ばしている可能性もありますから断定は難しいです。かなりの数の柱の穴が出てきていますので、かなり頻繁に建て替えが行われています。
私たちは初めに第1調査区から手を付けたのですが、三成時代の物がないので非常に不思議に思っていました。どういう使い分けをしていたのは解りませんが違いがあるのは解ってきました。
(↓調査区についての地図は、ここを参照して下さい)
http://www.pref.shiga.jp/hodo/e-shinbun/ma07/files/20090721_2.pdf
(第2調査区 現地案内)
今回の補助整備に伴う調査地区よりもまだ奥にも屋敷があったと思われます。江戸時代の古地図にも書かれていますが、谷の奥には“馬冷池”もあります。
近世の地図には描かれていますが、田圃に水を送る池と考えれば、おそらく石田三成の時代には池は無くここも屋敷だったと考えられます。池の手前に2面の田圃があり、今回の調査区となります。
今回は屋敷地を囲む区画溝が発見されていますが、その中から備前の擂鉢なども出ています。おそらく屋敷から捨てられた物でしょう。
屋敷の構造についてはよく解っていませんが、柱穴が見つかっていますのでこれらの穴が建物を示す痕跡となるのでしょうが、配列を示す物は見つかっていませんので、まずは建物があったのかどうか? それが住居になるのか? はよく解っていませんが屋敷になる可能性は高いです。
また2ヶ所円形に石を敷き詰めた石組遺構が見つかっています。
ここに使われている石は佐和山を構成している石が多く使われていますが角が削られている丸い石があり、これは違い所から持って来られたのかもしれません。
地層から水の流れが想定できる場所があり、地盤の境目で水が出易い地層の近くに石組遺構があるので、この水を使い易いように処理する施設ではないか? というのが我々の見解です。石組の間で堰き止める事によって水の中に含まれる泥や砂が落ち、上澄みの水だけを下に流して飲み水や生活用水に使ったのではないでしょうか?
しかし、現段階で見つかっている遺構だけでは具体的によく解っていない事もたくさんありますから、もう少し色んな機能もあるのかもしれません。
次に濠の遺構ですが、谷の奥ですと70~80㎝くらいの深さまで残っていますが、谷の入口の方ですと上が削られて10㎝くらいしか残っていません。
屋敷地を区画するのに濠と溝がありますが、どう違うのかもまだ解っていません。(2009年7月26日は)雨が降った影響で水が溜まっていますが、昔も山からの水が流れてきて濠に溜まるようになって、常に水が湧いていると考えられますので、排水対策として濠が掘られていると考えられます。ここは山のすぐ隣ですので山際に濠が掘られていたと考えられます。
今回の発掘で、山の下に潜り込んでしまった濠もありましたから、江戸時代以降に土が重なってきて見えなくなったのです。
根固めと黒い柱が出てきた地点もあります。この柱は橋状遺構に関わる門だと思われます。橋状遺構と思われる要因は、杭が何本もあり柱の間隔の間に石が敷いて置かれているのです。
これは簡単な桟橋状の橋が架かっていて濠を渡って山肌を上に登って行く道だったのでしょう。上に登って行くと三の丸があります。地元の方にお聞きしますとその場所には道があったそうです。
濠位置の特徴も、谷の高い部分は山際より30㎝ほど低い部分に出来ていますが、下に行きますと山際と同じ高さになります。それがどういう意味があるのかも今は解りません。
濠は谷に向かって縦方向の濠と、横方向に派生していく何本かの濠があって区画されています。
濠の中には石が丸く囲われた場所が見つかりました。これは江戸時代の井戸の跡になります。濠があった場所に掘られた井戸なので掘り易く、元々水道が出来ているので水が湧き易いという利点があったのでしょう、このような井戸の遺構も何基も出ています。これらの石に仏様や五輪塔が使われています。
三成の時代には固い岩盤を削って濠を掘っています、それだけの労力をかけて造られた濠だったのです。そしてこの濠の中から桐の紋が入った金具が出てきたり、小柄も出てきました。石臼も非常にたくさん出てきて、土器で多かったのは擂鉢です。
器では、備前や信楽も出ていますが、一番多いには瀬戸です。同じ近江なので信楽が多いと思ったのですが瀬戸の方が圧倒的に多く、当時の経済圏としては東海圏だったと言えるかもしれません。
石臼や擂鉢は、穀類を粉にして食べるという食生活が解るようなものが出ているという特徴かな?と思います。
また、濠の中で特定の場所に固まって石が出てくる場所が数か所あります。これがどういう物なのかは解っていませんが、濠を埋めるためにしては特定の場所に決まっていますので、いつの時代か解りませんが石を捨てた場所とも考えられます。
出てる土器からすると、三成の時代とほぼ変わらない時期だと思いますが、1600年以降に奥の谷の屋敷辺りがどういう扱いになったのかはまだ解りません。ただ燃やした様な跡は濠の中からは出てきていません。
《質疑応答》
(質問者)
燃えた跡はないのですか?
(文化財保護協会)
燃えた跡はないです。燃えた石はよく出てきますが、それは竈と考えられます。
(質問者)
濠の幅はどれくらいですか?
(文化財保護協会)
2~3メートルです、ただその幅では効かないところもありますのでそれ以上の物もあるのだと思います。
ただ掘った中では2m50mから3mの物が多いです。
(管理人)
出てきている石がどこからの石が多いのか? という調査は始まっていますか?
(文化財保護協会)
まだです。
(管理人)
彦根城の石垣が荒神山からの石が多いと聞きましたので、佐和山城から転用しているのなら、ここの石も荒神山が多いと思ったのですが?
(文化財保護協会)
そういう可能性も高いと思います。ただ石垣の石が今回の調査区に落ちているとは考え難いですが、佐和山では拾えない荒神山からの石がかなり出てくるので持ってきた残りがある可能性があります。
(第1調査区 現地案内)
この辺りから出てきた物は16世紀半ばくらいです。
まずは幅40~50㎝位の溝が3本見つかりましたが途中で切れていますので、どこまで使えたのかは疑問です。また丸く掘ってある物が多く見つかりこれが柱穴です、少しですが礎石になると思われるような石も確認できます。
柱その物もいくつも確認できます。こういった訳でここは屋敷であった事は間違いありません。そして屋敷地から道が出ていてその道を行くと土塁が切れて小野川に突き当たります。
ここから山裾の方にも人工的な地形が見えますので、山に向かって屋敷地があったと思われます。これからの調査は彦根市の方で行われるとの事です。
(大手門:彦根市教育委員会・谷口先生)
こちらが武家屋敷が広がっていた場所です。位置関係を体で例えると、頭が本丸で両手を広げる形で尾根があり、その中に武家屋敷があったのです。
ですから敵が攻めてくると領民は尾根に逃げ、その尾根に二の丸・三の丸・法華丸などの曲輪があり、その両側から敵を攻め下れるのです。同じような形は小谷城で清水谷の武家屋敷の両側に尾根が広がったのです。
佐和山に話を戻しますと、大手門に沿った内濠と小野川といわれる外濠さらに山側に行きますと、中山道(かつての東山道)といわれる街道がありました。佐和山城がお城として機能している時には東山道に鳥居本宿はなく、更に大津寄り行った場所に小野という宿場町があったのです。江戸時代に描かれた絵図には、鳥居本宿になる所辺りまで足軽屋敷があったとされています。
イメージしていただきたいのですが、まず武家屋敷がありその外側には本町通り、その向こうには町屋が広がりそして小野川が在って、東山道まで城下が在りその向こう側には足軽屋敷が町を守るようにあった。という城下町です。
佐和山城というと石田三成ですが、実はとても古い歴史を持っています。最初に記録に出てくるのが鎌倉時代です。記録ではその時代からこの辺りに砦か館が存在したのです。
近江という国は元々佐々木一族が治めていたのですが、それが同じ佐々木一族の中で北は京極氏・南は六角氏の中で争いを始めます。やがて浅井氏が台頭し三つ巴の争いが起こります。
ただこの頃までの佐和山城はおそらく土を基本とした城と考えられます。私たちがイメージする石垣があり天守があり瓦がある城は、日本の城の中では安土城を初めと考えるといいと思います。ですから長い城の歴史から考えるとついこの間なのです。それ以前に土で成った城があり、佐和山城もそんな城だったのです。
戦国時代、京極・六角・浅井の三つ巴が続き、南北がぶつかるのが佐和山城であり、この城は“境目の城”として戦った長い歴史があるのです。
そんな時、美濃から京を目指して上洛した織田信長が佐和山を手に入れます。信長は後に安土城を築城しますが、それまでは佐和山城に安土城のような役割を持たせていたのです。ここで大きな船を造ったという記録が『信長公記』にもあり京と美濃を移動する時には長い時で1ヶ月程度も佐和山に滞在して様々な事を行ったのです。
船を造るのは琵琶湖の制海権を握る為ですが、そんな事も琵琶湖でやっているのです。その後、信長・秀吉・家康と替わっても有能な武将が佐和山に入ります。それだけ大事な場所であり続けたという事になるのです。
実は佐和山城の最後の主というのは石田三成ではありません、三成が関ヶ原で敗れた後に家康が佐和山を包囲し、小早川秀秋が汚名返上の意味を込めて佐和山城を攻撃します。
この時は正面から攻めなかったようです。守ったのは石田の残った兵ですが主力部隊は関ヶ原で壊滅的な打撃を受けているので老人や子どもの兵が多かったようです。その佐和山攻めの軍監として井伊直政が裏手から攻めています。その後、論功行賞で井伊直政が佐和山に入ったのです、ですから最後の主は井伊家です。
よく「彦根城があるから佐和山城はあまり整備をしないのだ」といわれますが、そんな事は無く、佐和山城の最後の主は井伊家です。
ただ直政は関ヶ原の合戦で鉄砲の弾を受けて1年半後に亡くなり、直継・直孝という二人の子どもによって約20年かけて彦根城が築かれ、「佐和山城は石田三成の城だった事から廃城されて痕跡が残っていないのではないか?」と言われてきました。しかしいろいろ発掘すると痕跡が非常に残っている事が解りましたので今後国指定も目指して長期の調査をしていきたいと思います。
そして26日に雨の天気に心配しながら現地説明会が行われたのです。
『佐和山城遺跡現地説明会』
滋賀県文化財保護協会
(概要)
佐和山城や石田三成は最近有名で、特に石田三成は“義”に厚い武将として名を高めています。
ですが、これまで佐和山城の縄張り調査をした事はありますが発掘調査をする機会は恵まれませんでした。今回地元で補助整備工事がなされる事になってその一部について発掘調査をいたしました。
その結果、田園の下から非常に保存状態の良好な形で「どうも家臣の屋敷ではないか?」と思われる堀囲いの遺構が発見される事になりました。今の状態から行きますと、おそらく非常に良好な状態で佐和山全体に遺構が残されていると解って参りましたので、これからますますこれらが進展していくのではないかと思っております。
今回は佐和山城での初の本格的な調査で、しかも石田三成時代だと推定される物が出てきました。そういった意味で今回大きな成果が上がったと考えております。
今回の調査は内濠と土塁の内側の区域です。江戸時代に描かれた古地図で“侍屋敷”と書かれた部分で、元々「家臣の屋敷である」と推定されていた地域の調査になり、通常“奥の谷”と呼ばれる部分の谷と山の際の部分になります。
奥の谷と呼ばれる谷(第2調査区)とその隣の土塁の内側(第1調査区)で発掘調査を行っています。
第2調査区では濠・井戸の跡が見つかっています、16世紀の物である事は中から出てくる遺物で明らかになっています。当時の住まいは山城ではなくても普通の平地でも水を引き込んで区画した中で住まいを築いていました。テリトリーを設けた上で屋敷を構えていた事がこれまでの研究成果から解っております。
この濠の機能といたしましては、
1.屋敷を所得する意識がある
2.水が湧き易い所なので、排水的な意味合いもある
と考えられます。
細長い谷ですので、谷の真ん中に水が通ってしまうと屋敷がかなり小さくなってしまうという推定の元に、道路が水路の反対の端にあったのではないか? と推測しております。
そして、濠の横に細長い細い(太い物もありますが)溝がありますので、これがどういった機能を持つ物なのか? とも考えております。
道路の両脇にもそういった溝があって、濠に流れ込む形になっていたのではないか? と考えております。
第2調査区に関しましては、出ている土器が16世紀第四支配期(1575~1600年)の物が出ていて、それ以前の物もそれ以降の物もほとんどありませんので、この当時に入っていた大名の中で石田三成が入城時に大規模な改修工事をしていますので、そのような状況から我々は「これは三成時代の家来たちの住んだ屋敷の痕跡である」と想定しています。
第1調査区でも調査をしましたが、ここには三成時代の物は出てきていません。それよりも前になる16世紀半ばくらいの物だと思われる柱の跡が非常にたくさん見つかっています。当時(浅井時代あたり)はここで屋敷があったのだと思われ、三成時代には使われずに奥の谷が使われるようになったと考えられますが、なぜ浅井時代の屋敷辺りが使われなくなったのかは解りません。何らかの理由があったとは思われます。
《質疑応答》
(管理人)
第1調査区で出てきているのは柱の跡とかですか?
(文化財保護協会)
礎石は非常に少ないです、ただ田圃を作る時に上を削っているので、その時に礎石を飛ばしている可能性もありますから断定は難しいです。かなりの数の柱の穴が出てきていますので、かなり頻繁に建て替えが行われています。
私たちは初めに第1調査区から手を付けたのですが、三成時代の物がないので非常に不思議に思っていました。どういう使い分けをしていたのは解りませんが違いがあるのは解ってきました。
(↓調査区についての地図は、ここを参照して下さい)
http://www.pref.shiga.jp/hodo/e-shinbun/ma07/files/20090721_2.pdf
(第2調査区 現地案内)
今回の補助整備に伴う調査地区よりもまだ奥にも屋敷があったと思われます。江戸時代の古地図にも書かれていますが、谷の奥には“馬冷池”もあります。
近世の地図には描かれていますが、田圃に水を送る池と考えれば、おそらく石田三成の時代には池は無くここも屋敷だったと考えられます。池の手前に2面の田圃があり、今回の調査区となります。
今回は屋敷地を囲む区画溝が発見されていますが、その中から備前の擂鉢なども出ています。おそらく屋敷から捨てられた物でしょう。
屋敷の構造についてはよく解っていませんが、柱穴が見つかっていますのでこれらの穴が建物を示す痕跡となるのでしょうが、配列を示す物は見つかっていませんので、まずは建物があったのかどうか? それが住居になるのか? はよく解っていませんが屋敷になる可能性は高いです。
また2ヶ所円形に石を敷き詰めた石組遺構が見つかっています。
ここに使われている石は佐和山を構成している石が多く使われていますが角が削られている丸い石があり、これは違い所から持って来られたのかもしれません。
地層から水の流れが想定できる場所があり、地盤の境目で水が出易い地層の近くに石組遺構があるので、この水を使い易いように処理する施設ではないか? というのが我々の見解です。石組の間で堰き止める事によって水の中に含まれる泥や砂が落ち、上澄みの水だけを下に流して飲み水や生活用水に使ったのではないでしょうか?
しかし、現段階で見つかっている遺構だけでは具体的によく解っていない事もたくさんありますから、もう少し色んな機能もあるのかもしれません。
次に濠の遺構ですが、谷の奥ですと70~80㎝くらいの深さまで残っていますが、谷の入口の方ですと上が削られて10㎝くらいしか残っていません。
屋敷地を区画するのに濠と溝がありますが、どう違うのかもまだ解っていません。(2009年7月26日は)雨が降った影響で水が溜まっていますが、昔も山からの水が流れてきて濠に溜まるようになって、常に水が湧いていると考えられますので、排水対策として濠が掘られていると考えられます。ここは山のすぐ隣ですので山際に濠が掘られていたと考えられます。
今回の発掘で、山の下に潜り込んでしまった濠もありましたから、江戸時代以降に土が重なってきて見えなくなったのです。
根固めと黒い柱が出てきた地点もあります。この柱は橋状遺構に関わる門だと思われます。橋状遺構と思われる要因は、杭が何本もあり柱の間隔の間に石が敷いて置かれているのです。
これは簡単な桟橋状の橋が架かっていて濠を渡って山肌を上に登って行く道だったのでしょう。上に登って行くと三の丸があります。地元の方にお聞きしますとその場所には道があったそうです。
濠位置の特徴も、谷の高い部分は山際より30㎝ほど低い部分に出来ていますが、下に行きますと山際と同じ高さになります。それがどういう意味があるのかも今は解りません。
濠は谷に向かって縦方向の濠と、横方向に派生していく何本かの濠があって区画されています。
濠の中には石が丸く囲われた場所が見つかりました。これは江戸時代の井戸の跡になります。濠があった場所に掘られた井戸なので掘り易く、元々水道が出来ているので水が湧き易いという利点があったのでしょう、このような井戸の遺構も何基も出ています。これらの石に仏様や五輪塔が使われています。
三成の時代には固い岩盤を削って濠を掘っています、それだけの労力をかけて造られた濠だったのです。そしてこの濠の中から桐の紋が入った金具が出てきたり、小柄も出てきました。石臼も非常にたくさん出てきて、土器で多かったのは擂鉢です。
器では、備前や信楽も出ていますが、一番多いには瀬戸です。同じ近江なので信楽が多いと思ったのですが瀬戸の方が圧倒的に多く、当時の経済圏としては東海圏だったと言えるかもしれません。
石臼や擂鉢は、穀類を粉にして食べるという食生活が解るようなものが出ているという特徴かな?と思います。
また、濠の中で特定の場所に固まって石が出てくる場所が数か所あります。これがどういう物なのかは解っていませんが、濠を埋めるためにしては特定の場所に決まっていますので、いつの時代か解りませんが石を捨てた場所とも考えられます。
出てる土器からすると、三成の時代とほぼ変わらない時期だと思いますが、1600年以降に奥の谷の屋敷辺りがどういう扱いになったのかはまだ解りません。ただ燃やした様な跡は濠の中からは出てきていません。
《質疑応答》
(質問者)
燃えた跡はないのですか?
(文化財保護協会)
燃えた跡はないです。燃えた石はよく出てきますが、それは竈と考えられます。
(質問者)
濠の幅はどれくらいですか?
(文化財保護協会)
2~3メートルです、ただその幅では効かないところもありますのでそれ以上の物もあるのだと思います。
ただ掘った中では2m50mから3mの物が多いです。
(管理人)
出てきている石がどこからの石が多いのか? という調査は始まっていますか?
(文化財保護協会)
まだです。
(管理人)
彦根城の石垣が荒神山からの石が多いと聞きましたので、佐和山城から転用しているのなら、ここの石も荒神山が多いと思ったのですが?
(文化財保護協会)
そういう可能性も高いと思います。ただ石垣の石が今回の調査区に落ちているとは考え難いですが、佐和山では拾えない荒神山からの石がかなり出てくるので持ってきた残りがある可能性があります。
(第1調査区 現地案内)
この辺りから出てきた物は16世紀半ばくらいです。
まずは幅40~50㎝位の溝が3本見つかりましたが途中で切れていますので、どこまで使えたのかは疑問です。また丸く掘ってある物が多く見つかりこれが柱穴です、少しですが礎石になると思われるような石も確認できます。
柱その物もいくつも確認できます。こういった訳でここは屋敷であった事は間違いありません。そして屋敷地から道が出ていてその道を行くと土塁が切れて小野川に突き当たります。
ここから山裾の方にも人工的な地形が見えますので、山に向かって屋敷地があったと思われます。これからの調査は彦根市の方で行われるとの事です。
(大手門:彦根市教育委員会・谷口先生)
こちらが武家屋敷が広がっていた場所です。位置関係を体で例えると、頭が本丸で両手を広げる形で尾根があり、その中に武家屋敷があったのです。
ですから敵が攻めてくると領民は尾根に逃げ、その尾根に二の丸・三の丸・法華丸などの曲輪があり、その両側から敵を攻め下れるのです。同じような形は小谷城で清水谷の武家屋敷の両側に尾根が広がったのです。
佐和山に話を戻しますと、大手門に沿った内濠と小野川といわれる外濠さらに山側に行きますと、中山道(かつての東山道)といわれる街道がありました。佐和山城がお城として機能している時には東山道に鳥居本宿はなく、更に大津寄り行った場所に小野という宿場町があったのです。江戸時代に描かれた絵図には、鳥居本宿になる所辺りまで足軽屋敷があったとされています。
イメージしていただきたいのですが、まず武家屋敷がありその外側には本町通り、その向こうには町屋が広がりそして小野川が在って、東山道まで城下が在りその向こう側には足軽屋敷が町を守るようにあった。という城下町です。
佐和山城というと石田三成ですが、実はとても古い歴史を持っています。最初に記録に出てくるのが鎌倉時代です。記録ではその時代からこの辺りに砦か館が存在したのです。
近江という国は元々佐々木一族が治めていたのですが、それが同じ佐々木一族の中で北は京極氏・南は六角氏の中で争いを始めます。やがて浅井氏が台頭し三つ巴の争いが起こります。
ただこの頃までの佐和山城はおそらく土を基本とした城と考えられます。私たちがイメージする石垣があり天守があり瓦がある城は、日本の城の中では安土城を初めと考えるといいと思います。ですから長い城の歴史から考えるとついこの間なのです。それ以前に土で成った城があり、佐和山城もそんな城だったのです。
戦国時代、京極・六角・浅井の三つ巴が続き、南北がぶつかるのが佐和山城であり、この城は“境目の城”として戦った長い歴史があるのです。
そんな時、美濃から京を目指して上洛した織田信長が佐和山を手に入れます。信長は後に安土城を築城しますが、それまでは佐和山城に安土城のような役割を持たせていたのです。ここで大きな船を造ったという記録が『信長公記』にもあり京と美濃を移動する時には長い時で1ヶ月程度も佐和山に滞在して様々な事を行ったのです。
船を造るのは琵琶湖の制海権を握る為ですが、そんな事も琵琶湖でやっているのです。その後、信長・秀吉・家康と替わっても有能な武将が佐和山に入ります。それだけ大事な場所であり続けたという事になるのです。
実は佐和山城の最後の主というのは石田三成ではありません、三成が関ヶ原で敗れた後に家康が佐和山を包囲し、小早川秀秋が汚名返上の意味を込めて佐和山城を攻撃します。
この時は正面から攻めなかったようです。守ったのは石田の残った兵ですが主力部隊は関ヶ原で壊滅的な打撃を受けているので老人や子どもの兵が多かったようです。その佐和山攻めの軍監として井伊直政が裏手から攻めています。その後、論功行賞で井伊直政が佐和山に入ったのです、ですから最後の主は井伊家です。
よく「彦根城があるから佐和山城はあまり整備をしないのだ」といわれますが、そんな事は無く、佐和山城の最後の主は井伊家です。
ただ直政は関ヶ原の合戦で鉄砲の弾を受けて1年半後に亡くなり、直継・直孝という二人の子どもによって約20年かけて彦根城が築かれ、「佐和山城は石田三成の城だった事から廃城されて痕跡が残っていないのではないか?」と言われてきました。しかしいろいろ発掘すると痕跡が非常に残っている事が解りましたので今後国指定も目指して長期の調査をしていきたいと思います。