彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『大名の一日・一年・一生』

2008年09月27日 | 講演
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彦根の盲学校の歴史

2008年09月14日 | 史跡
2008年は盲導犬が誕生して50年になるという事で、9月13日に日本最初の盲導犬チャンピィのドラマが放送されていました。

これに便乗して今回は彦根での盲学校の話を紹介します。


彦根での盲学校の活動は早く、明治41年(1908)に来彦された山本清一郎さんが3月23日に“彦根訓盲院”を設立したことに始まります(写真)
つまり、彦根の盲人教育の歴史は2008年で100年を迎えているのです。

昭和9年(1934)年には今の市立図書館の場所に移転し県の施設となり“滋賀県立盲学校”と改名、昭和12年にはヘレン・ケラーが立ち寄ったのでした。


昭和32年チャンピィが盲導犬第一号として訓練されるのですが、この訓練を塩屋賢一さん(アイメイト協会創設者)依頼したのが河相洌という方でした。
昭和31年に河相さんは滋賀県立彦根盲学校の教諭として彦根に赴任されます。
チャンピィは昭和34年から河相さんと共に彦根城の麓にある彦根盲学校に通い、護国神社で一日一回の休息を楽しんでいたのです。
このことから彦根は、盲導犬第一号を育てた町ともなっているのです。

昭和35年に河相さんが浜松に転任となった為にチャンピィも彦根を去りました。
その後のチャンピイはドラマにも描かれた通り、通常なら7~8年しかない盲導犬の活躍期間を大幅に越えた10年現役という働きを見せ、昭和42年(1967)8月22日最後は野良犬に噛まれてその命を失ったのです。
しかしチャンピィは日本に盲導犬が活躍できる地盤を作り、河相さんはこの後にローザ、セリッサ、ロイドと盲導犬を家族として大切にしておられるとか。


さて彦根の盲学校の歴史はこのチャンピィが亡くなった年の3月26日に現在の位置(彦根市西今町)に移転して、現在もその歴史を続けているのです。
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『茶湯の会』

2008年09月13日 | イベント
2008年9月13日、ビバシティ彦根2階のビバシティホールで“井伊直弼と開国150年祭”の市民創造事業となる『茶湯の会』が行われ、参加者に石州流の茶が振舞われました。


参加者は、小さなお子さんが約10人残りは様々な年代の方になっていました。
用意された舞台の上でお点前が始まります。その動作は文化的な流れと形式的な動きを合わせたような少し不思議な様子すらもありましたが、それが400年近い歴史に中ではぐぐまれた物だと思うと見えない重みすらありました。
茶の湯は客をおもてなしする心が一番大切なものなのでしょうが、このような作法のどこに直弼が重点を置き、そして宗観流へと変化させていったのかに興味をそそられました。

お茶菓子には、市民でもなかなか口にできない銘菓『益寿糖』が出され、これを食べやすくしたとされる『埋れ木』との違いを口と見た目で学びながら至福の時を過ごしましたよ。
いよいよお茶が登場します。
管理人が我流で点てるお茶に比べると甘味もあり、深みも全然違いました。管理人の勉強不足でどこにどんな違いがあるのかは理解できませんでしたが、美味しいお茶をいただき「結構なお点前でした」
小さいお子さんの表情も様々で、やはり苦味を感じたりする子も居たようですが、それでもニコニコと口を器に運ぶ姿が印象的でした。

そんなお子さんと、お点前をされている方を見て管理人が思ったのは「井伊直弼の娘の弥千代は9歳にして茶会の主人を務めたと聞いているけど、それがどれほど大変なことなのかが伺える」ということでした。


この茶会は定員制ではありましたが、無料で茶の湯を紹介されたことから、今まで茶の湯に触れたことが無い方々や小さなお子さんでも参加しやすいイベントとなり、初めて茶の湯に触れる方にとっては、「茶の湯は敷居が高くて近付き難い」というイメージを消す事ができたのではないでしょうか?
何事も第一歩を知るチャンスがあるか無いかというのは大きな差になってくると思います。
初めからお金を出して体験するというのではなく、参加者は略式になったとしても、招く方はきっちりとした作法を見せてくださる事で雰囲気を体験できたというのはとても素晴らしい取り組みでした。

彦根市内では欠けているモノを補った形に見えたのは管理人だけでしょうか?
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小田全宏さんへのインタビュー

2008年09月08日 | 講演
 平成20年8月27日、東京虎ノ門にある小田全宏さんのオフィスに『どんつき瓦版』編集部の編集長と記者である管理人がお邪魔を致しました。7月19日に彦根で『井伊直弼のリーダーシップ』というタイトルで講演をされた小田さんへのインタビューを行う為の訪問だったのです。

 そんなインタビューの内容をご紹介します。
管理人「一ヶ月ほど前になりますが講演をしていただき、現場で聴いていて楽しい講演で地元では顕彰されていない新たな井伊直弼像をお話していただいたのが印象的でした。では例えば萩などの他の土地で顕彰されている吉田松陰らと、彦根との違いはどの程度差があるものなのでしょうか?」
小田先生「吉田松陰の場合は『松陰先生の時間』というものが小学校にあります。松陰の言葉などを勉強してちゃんと生活の中に入れている訳です、ですから単に『吉田松陰という偉い人が居た』とかではなく、「その言葉を元に勉強しましょうよ」というものですので萩の子どもたちはキチッとしていますよね。
 そう言った意味では吉田松陰を『昔の人で偉い人だった』と顕彰しているよりは、今も吉田松陰は萩の地で教育者として生きているという気がします」
管理人「ずっと教えを受けていると言う?」
小田先生「感じですね。今日の時点ではどうか分りませんが、何年か前に訪問した時の印象はそうでしたね」
管理人「萩での(吉田松陰を処刑した)彦根の印象は?」
小田先生「僕は彦根の出身だけど何かを言われた事が無いので、細かい事は分りませんが、吉田松陰が井伊直弼によって処刑され、直弼が彦根藩で・・・という認識はあるのかどうかは分りませんね。
 萩には松陰神社があるでしょ? 結構ぼろっちい建物ですが吉田松陰の生涯が分るような資料があり、皆さんがバスなどで来てそれを見て行きます。そんな方々がどこまで松陰の遺徳を偲んで来られているかは分りませんけどね」
編集長「今日、ここに来る前に(世田谷の)豪徳寺に行き、そこから松陰神社に行ったのですが『なぜ松陰神社があるのかな?』と思ったんです」
小田先生「近くですものね」
編集長「行ってみて分ったのは、豪徳寺の辺りは彦根藩の所領で、松陰神社の辺りは長州藩(萩藩)の物だったようです。そこに偶々土地が在ったので(松陰を)埋めたそうです。
 何で目と鼻の先に殺した側と殺された側とが祀ってあるのかと思ってね」
小田先生「松陰神社は萩にもありますよ」
管理人「世田谷の松陰神社に行ってみると、(長州藩士の)桂太郎が『松陰先生の近くに埋めて欲しい』と遺言して埋葬されていたり、その他の長州藩士もそこに墓を作っているところを見ると、萩の方は今でもされているように、当時でも吉田松陰を尊敬されていたのがよく分ると感じました」
小田先生「そうですね」

管理人「先日、先生が彦根で講演されていた時に販売されていた著書『日本人の神髄』を読まさせていただいたのですが、あの中でもやはり吉田松陰の人柄や、お話にもありました“無私の精神”を感じさせるようなものがあり、小田先生は吉田松陰が好きなのかな?と思いながら読まさせていただきました」
小田先生「大好きです」
管理人「あの本には全部で8人の人物が紹介されていて、僕は最後の中村天風が好きだったのですが、先生は8人をどのように選ばれたのですか?」
小田先生「気分ですね」
管理人「気分ですか(笑)」
小田先生「僕は毎月一回色んな日本の素晴らしい賢人の足跡を辿って歩いているのですが、その中でも好きな人を選んで書きました」

管理人「その中で“陽転思考”もありましたね。僕も実はそういう考え方のような事を勉強していて、『自分が笑顔になれれば、周りにも笑顔が与えられる』というような事で、先生が書いておられる陽転思考も理解でき『こういう事が他に広がっていくのが嬉しい』と思いましたが、先生は“陽転思考”について色々な所で講演されているのですか?」
小田先生「そうですね。僕は井伊直弼の専門家ではなく社会教育家という立場が本業です。様々な所で講演やトレーニングをします。
 言葉というだけではなく、誰でも『プラスの意識を持ったら良い』と言われれば『ああ、そうですか』と言われるのは一言で、言われれば反論できないですが分っていてもできないものです。
 でも『自分の中にある素晴らしい力を信じなさい』と言うよりも、例えば『あなたが自転車に乗れる事を信じなさい』という暇があったら自転車に乗れるようにしたら良いのです。すると乗れた人は『自分は自転車に乗れる』と思えるという事です。
 だから、そういう意味で僕が行っているトレーニングは『自分の中に凄い力がある事を信じろ』と言うのではなくて、その力を見せるのです」
管理人「例えばどのような?」
小田先生「元々は松下幸之助さんなどの教えを中心にしながら“陽転思考”と“EQ(心の知能指数)”を伝えています。
 十年くらい前に偶々福岡の先生にリーダーシップのトレーニングをした時に、脳の動きを変える方法を教えたら先生方がビックリされて、それから“アクティブ・ブレイン(絶対記憶)”のセミナーをやってくれと大騒ぎになったのです。
 それは『自分には凄い力がある』でしょ? 『でもね・・・』なのです。
 しかし、実際にその人の能力を目の前で実証する、自転車に乗らせてあげるのです。乗れればそれで自分の能力を理解します。
 人間はみんな、それぞれ生まれながらのコンプレックスがあります。それは種の中に入っている遺伝的コンプレックスもあり、生まれてから『勉強ができなかった』などの人生の中で上手く行かなかった事を経験し自分を抑え付けてしまうコンプレックスも持っています。
 自分が失敗したという明確なものではなくても、色々なマイナスの要因がたくさんありますから、『力がある』という話を聴いて分っていても『はい』とはなかなか言えないのです。ですから『ほら、できるでしょ』と体験させてあげればいいのです。
 言葉ではなかなか伝わらないでしょうが、僕のやっている事はまずは記憶力を10倍にしてしまうのです。おそらく10倍という表現で無理はないと思います。
 先日の講演をしている時でも(原稿などは)何も見ていません、見ていませんが講演が終わった後に言い残した事があったとう後悔は一つもありません。それは何故かと言えば自分の中にその時に話す内容が脳の中で書かれているからなのです。
 僕は30~40分で一冊の本を読んで、中に何が書いてあったかを言う事ができます。これは能力ではなく技術なのです。“脳を使う技術”です」
管理人「先生はイメージしながら脳に記憶するトレーニングについて書かれていましたので、僕も試そうと思ったのですが、絵が頭の中に浮かばずに躓いてしまいました」
小田先生「僕は“絶対記憶”という脳のトレーニングの一番初歩の事を、面白おかしく猿でもできるように書いたのですが、それができない人が多く、いかに本は難しいかという事を経験しました。
 ですからトレーニングを受ける方も『自分にできるだろうか』と不安になられますが、トレーニングをすれば全員できるようになります」
管理人「僕は、まずは富士山をイメージするところから始めたのですが、絵が出てこないのです」
小田先生「根本が間違っているのです。僕から言わせればもう一生できないです。
 なぜかと言えば『出て来ない』から入っていますから・・・」
編集長「出て来ないと決め付けてしまうと?」
小田先生「そう、自分でね。『何とか出さなきゃ』と思っている時点で一生できないのです。
 実は全然違うのです、やり方はあるのです。例えば『こんな形かな?』と思ったとしても『違うかもしれない』と思っちゃうのです。でも僕のトレーニングをすれば目に見えて分ります。
 これはトレーニングをすれば分るのですが、僕は始めはこんな事をするつもりはありませんでした。でも誰でもできる事なのです」
管理人「本では拝見した事があるんです」
小田先生「絶対記憶?」
管理人「はい、でも最初のイメージで躓いて・・・」
小田先生「ですからコレなのです、あの本を書いたら猿でも分る筈だと思って書いたのですが、こういう方(管理人)が居られるのです。それが10人の内9人なのです。もしかしたら9人は大げさかもしれませんが7人や8人は居ます。
 セミナーをしても大半の方が『やっぱり難しい』と言われるのにビックリしました」
管理人「僕は何でも文章にしてしまうので、絵が出てこないというのが頭の中に入り込んでしまっているのです」
小田先生「でも、管理人さんは絶対に大丈夫なのですよ。『開国』のような記録ができるという事はそういう脳になっているんです、それを無理矢理変えようとするから変なのですよ。『それはそれ、コレはコレ』にしたら良いのです。
 自分はバイオリンが弾ける。でもそこにはたて笛がある時に、『バイオリンの弾き方でたて笛に挑む』と考えるのではなく、バイオリンとたて笛とを別に考えたらいいのですよ。バイオリンの要領で笛を弾こうとするからできないのです、ところがなかなかできないのです。
 でも、できてしまえば水が流れる如くです」
管理人「自信が付けば、色んな事に自信が付くのですね」

小田先生「今日はこんな話でいいの?」
管理人「小田先生の様々をお聞きしたいのです」
小田先生「井伊直弼の話ではなくて?」
編集長「井伊直弼の話はこの前お聞きしましたので」
管理人「これらによって小田先生の人柄が分れば、彦根市民の方も先生に興味を持っていただけて、『講演を聴いてみたいな』や『著書を読んでみたいな』などと思っていただけるのが広がりだと思いますので、色んな話を聞かせてください」
小田先生「なるほど。編集長さんは僕が脳のトレーニングを行っているのは知っていましたか?」
編集長「ハード的な本を読むと頭が知恵熱を出してしまうので(笑)」
小田先生「では僕の本を読むと知恵熱が噴火しますよ。ところが噴火すると脳は広がっちゃうのですよ」
編集長「そう言われると、本を読むより聴いた方が楽かな?
 話が違うのですが僕はヒッチハイクをします、(周囲には)『乗せてもらえる?』と訊かれるのですが『4時間5時間待っていれば乗せてもらえるよ』(と答えます)。『4時間5時間も待つの?』と言われるのですが、僕にとっては4時間5時間待つのも面白いんです。
 それで乗せてもらった時にフッと思うのは『あっ僕は偶々5時間前に始めたから5時間待ったんや、10分前に始めていれば10分待っただけで済んだんや』と思えば、『僕はこの人に会う為に5時間早く着いてしまったんや』と思えば御破算になるんです。
 乗せてもらっても『臭いから降りろ』と降ろされたりもするんですが、次また良い人に乗せてもらえれば『あっ、あの人に降ろされたからこの人に会えたんや』と思うようにしてるのです。そうすれば苦でも何でも無いのです。考え方の違いなのですけどね。
 そうすると雨が降ったりしても旅を休んで『雨が降ったから休めた』と思うようにしています。みんなが『雨が降って嫌だね』と言っても『雨が降ったから体力が温存できて、お百姓さんも喜ぶんじゃないかな』と発想を変えてしまえば、何でも“良い”やんかと思います」
小田先生「なるほど」
管理人「僕も結構変で、昨年母親が大腸癌で入院する事になり、母親と僕の二人でお医者さんの宣告を受けた時に、『癌です』と言われると二人で笑顔で『そうですか(笑)』と答えてしまいまして、(お医者さんが)『転移がないかどうか、首から下を全部検査させてもらいます』と言われたので(僕は)『良かったね、全部診てもらえるね、安心できるね、ラッキーやね~』と言ってしまったのです(笑)
 そんな意味ではちょっと変な組織がやっているのが“どんつき瓦版”なのです。『起こった事は起こってしまうので、それをどう自分の中に良くできるかな?』というのが僕や家族の考え方です。それが先生の“陽転思考”にも似てるかな?と思い陽転思考にも興味を持っているのです。
 それでいながらイメージができていないのは、小田先生の話が全部理解できていないのかも知れませんね」
小田先生「それはそれの話ですね。でも人間のあるがままがあるでしょ?あるがままとはいったい何なのか?というのは非常に難しい問題なのです。
 例えば登校拒否をしているお子さんがいたとして、『あるがままでいいじゃないか、行かないのは行かないでいいじゃないか、それが自然だ』と言うのが正しいのかどうか?『勉強なんかできなくていいじゃないか』というのでいいのかどうか?
 僕は全然違うあるがままなのです。
 僕の考え方は、その人は“ひまわりの種”でしたとすると、その“ひまわり”を“チューリップ”にする事はできない、もし“ひまわりの種”があるならそれを地中に蒔いて花を咲かせる義務があるのです。
 だから登校拒否の子どもが『行かなくていいじゃないか』とは言わないのです。僕の考え方で行くと『行かなければいけない』という事は無いけど、もしその子の中で『行きたいけれども行けない』というものがあるとすれば、それを取ってあげれば『行けるものなら行ったほうが良い』という考えなのです。
 人間は二十歳を過ぎれば脳細胞が減っていくのです、実際に減っているとは思いますよ。トレーニングをしていると10代から24・5歳くらいまでは海綿体のようなものです。
 今、“大脳生理学”の大学の先生でもこんなに毎日脳のトレーニングをしている先生は少ないでしょうから、おそらく僕が一番トレーニングをしてるのではないでしょうか?“おそらく”ですが(笑)
 そうすると30代は大丈夫ですが、段々と(脳に)入らなくなっていくわけです。それを『歳をとっているからいいじゃないか』と思い老化防止などをするのは不自然だという考え方もあります。
 でも50代60代70代の人でも、トレーニングをすると開くのです、トレーニングをしている時はしんどいですよ。でも、そうするとこれからそうするか?と考えるわけです。
 僕はみんながみんな大金持ちになる必要はないと思います。健康で周りの人が喜んでくれる状況があればそれで良いと思います。その時に『私なんて』と言ってしまえば、もう『私なんて』なのです。
 できるようになれば、例えば『100mを10秒で走れるように信じろ』というのは信じられないですが走れたらその人は“走れた”なのです。颯爽と走ろうとドタバタと走ろうと走れたら“走れた”でしょ。
 そんな事をやってあげると、人間はマイナスな物が取れてくるのです」
編集長「例えば幕末や井伊直弼の頃などの昔の人は今みたいに情報がありませんが、情報がある事が頭が固まっていく理由なのですか?」
小田先生「情報があるから固まるわけではないのです。情報が入った時に自分が過去に蓄積された情報をどういう化学反応を起こすか?なのです。
 ただ置いておくだけならパソコン上のWikipediaの情報と同じですよ。入った瞬間に十分の中で変化して次の物が生まれてくるというのが情報というものです。情報が入った瞬間に自分の中でどう“感じるか”なのです。ですから僕のトレーニングは“人間の記憶”といえば無味乾燥になりますが何のトレーニングか?といえば“感じる”トレーニングなのです。
 情報は文字からもありますし、『今日は暑いな』というのも情報です。『真っ青だな』『緑が深くなってきたな』とかも情報です。
 道を歩けば色々な情報が無限にあります。でも脳は情報を全部受け止めるのは無くてその中で見たい物を見ているだけなのです」
管理人「選択をしている。とうことですね?」
小田先生「無意識に篩いにかかっているんです。ですから“花屋さんが道を歩いていて見えるもの”と“不動産屋さんが見えるもの”などは同じ道を歩いていても全然違います」
管理人「そんな情報の中から“自分がどう理解するか”という事になってくるわけですね」
小田先生「感じる事です」
編集長「全部見るというのは?」
小田先生「無理です。人間は自分の見たいものだけを見ます。その為に人間はできるだけ色んなものに好奇心を持って感じる心があれば、情報が入り易くなる。というだけの話しなのです」
管理人「僕もよく『マイナス思考を持っている人は何でも悪い所に目が行き、良い所は見えない』と聞きます。
 逆に僕の母親ではありませんが『癌だ』と言われても検査に目が行ってしまう。という感じ方の違いがありますね。それが未来を作っていったりとかするのですね?
 そんな人格が昔も今も揃ってきて、小田先生のおっしゃる直弼公や吉田松陰などの“無私の精神”に育つ人もいれば、それを弾圧する人になっていく場合もあるのですね。
 それは環境になるのでしょうか?」
小田先生「環境と人間の心構えの組み合わせですね」
管理人「僕が歴史を勉強していて特に思うのは、攘夷が当たり前の時代に直弼のような海外の情報が入る人物が開国を唱えるのは当然のように思うのですが、そうではない民間からも開国の声が聞こえるのは何か理由があるのでしょうか?」
小田先生「それはやはり何かの情報です、Oではありません。人間は何かの行動を起こすとき必ず情報があります。それは論理的なこともあれば、例えば“AさんがBさんの事を嫌い”という時にBさんの中身に反対する時もあれば、『Bさんが嫌いだから反対』という事もあるのです。
 はっきり言えば色々なのです、幕末なんてみんなグチャグチャです」
編集長「あの当時は決めればそれを曲げない人が多かったのでしょうね、今は仲良くするために切り替えてしまいますが、昔はこうと決めれば真っ直ぐですよね」
管理人「それを考えれば坂本龍馬は凄かったのですね」
小田先生「天才です」
管理人「今回のインタビューの前に会津若松にも行って来たのですが、あちらでは尊王の方たちというのはあまり良い扱いを受けていませんね、坂本龍馬でも『軽いだけの男だ』とか言われてますし」
小田先生「それは仕方ないね」

管理人「やはり場所によって見かたが違う事を感じます。直弼公についても彦根の人ですら『悪人だから』と話もしないですね」
小田先生「非常に可哀相な人です、今回の『篤姫』でも微妙な扱いでしたね」
編集長「でも面白いですよね」
小田先生「微妙に面白い。決して超悪人でもなく」
編集長「ですね。また最後にお茶を飲みながら篤姫と対話するというシーンは直弼の“一期一会”をよく表していて、『敵対するあなたに美味しいと言われたのは・・・』のシーンなどは凄く勉強しておられますね」
小田先生「かなりのものです」
管理人「桜田門外の変の回が放送された後は、彦根城のお客さんが多かったと聞いています。あぁ描いていただいて多少は直弼公のイメージが変わったとは思うのですが、そのままいてくれれば良いのですが、2年後の大河ドラマは坂本龍馬ですから、もしかしたら・・・」
小田先生「坂本龍馬的には井伊直弼とはそれほど絡まないのですよ、篤姫の場合はからみますがね」
管理人「少し調べましたら水戸浪士たちが仲間を募った時に、浪士の一人が龍馬と会っていると言う話も聞いています。土佐の国境辺りらしいです。その時は反井伊派だったのかな?と・・・」
小田先生「そんな事はないのです、おそらく坂本龍馬も勝海舟の門弟ですから『しょうもない事に関わってられん』と言うのではないですか?始めの内は馬鹿ですからね(笑)」
管理人「そうですね、そして途中で学問に目覚めて誰も思いつかないような事をするのでうから・・・」
小田先生「それはその人の持って生まれた天賦もありますね」
編集長「今回の『篤姫』で井伊直弼を中村梅雀さんがされると決まった時に、『どんつき瓦版』では号外を出して市内で話をしていると、『直弼を悪く描かないように言っておいて』という意見をたくさん聞きました。そんな時に『直弼は悪役だから、それも第一級の悪役。ヒーローが居れば悪役も居るわけで、その悪役は“助演男優賞”を獲るくらいの悪役なわけなので思いっきり悪役にすればいいじゃないか』と言っていたのです。
 かといって『悪役にせんといて』と言っている人に言わしても直弼が何をやったのかはよく知っていないという人が多いのです。
 その点、萩の吉田松陰の時間や会津若松の歴史を見たり、鹿児島でもそうだとは思いますが、それに比べると直弼は外だけではなく中からも『知らん』いうものがありますね。
 しかも、彦根城があり井伊家は譜代大名筆頭だという割には直政・直弼しか知らないというのはどうなのでしょうかね」
小田先生「そんなものですね」

管理人「僕は、小田先生に彦根で先日の講演をしていただいて良かったと思います。150年祭の企画であのようなお話を聴く事ができたので、これから彦根の人間が作る新しい直弼像を瓦版でも作っていきたいと思っています。
 小田先生にもまた来ていただいてお話をいただければ嬉しいと思います」
小田先生「直弼は実際安政の大獄もしていますので決して100と0ではありませんが、非常に悪い奴で血も涙もないだけではないです。大変な文化人で施策を持っていた人物ですから、変な奴ではないです。
 吉田松陰を殺さなかったらどうか?という事もありますが、吉田松陰もどう考えても殺されますよね」
管理人「講演の後に興味を持って松陰の『留魂録』を全文読んだのですが、最初は別件で捕まったのに老中暗殺を自分で言った。と書かれていましたね」
小田先生「そうですよ、松陰は強情で『こんなのいかん!老中を殺せ!』とい言うわけですよ。もう何を考えてるの?ですよね」
編集長「牢で大人しくしてれば良かったのに」
小田先生「そうですよ、牢内でも弟子に向かって『立ち上がらんか、腰抜け』と言って血気盛んな高杉晋作が止めても『うるさい馬鹿ヤロ!』です」
管理人「確かに役人の立場なら、いきなり要人殺すと言われたら『こらアカン』と思いますね」
小田先生「そうですよ、でも唯一の幸いは、このおかげで吉田松陰は『留魂録』を残し、刑場の露と消えたので魂は受け継がれて行くわけです。歴史とはそういうものです。
 でもそれをもって『松陰は殺されて良かったやん』といえば萩の人に怒られますがね。でも深い意味において吉田松陰は殺されてある種の神になり、それが一つの運命の巡りあいになったという気もしますね」
編集長「歴史の話をする時に『坂本龍馬が死ななければ良かったのに』との話も聞くのですが、僕に言わせるとあの時に坂本龍馬が死んだから新しい時代が来たのではないかと思います」
小田先生「とも言えますね。あのままほっておけば坂本龍馬は大海運時代の中で一発儲けて会社を設立して変な事をやっていた可能性もありますから」
編集長「三菱財閥は無かったかもしれませんね」
小田先生「その辺りの表現は難しいところがあります」
編集長「会津に行った時に会津の人に言われたのですが『彦根藩がもっと頑張ってやってくれたらウチらはああならなかったのに・・・』と。もし彦根藩がしっかりしていて直弼が生き残っていたら京都守護は彦根藩で、京都守護職の役職はできなかった。との事なのですが、もしそうなっていたら、幕末の戦争は会津戦争もあったかもしれませんが、その前に彦根戦争があったかもしれないのす。
 もし、彦根戦争で彦根藩が敗れていたら『戦っても仕方が無い』と奥羽越列藩同盟も無かったかもしれませんね。それは『彦根がそうなってくれたらこっちはならなかった』ということ?とも思いますね(笑)」
小田先生「どこに視点を置くかですね、歴史は同じ事を見ていても全然違うことになってきますね」
編集長・管理人「本日はお忙しいところをありがとうございました、歴史の話だけではなく脳のお話も聞けて充実した時間となりました」
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『江戸時代の医療』

2008年09月06日 | 博物館展示
『江戸時代の医療』

彦根城博物館学芸員 渡辺恒一さん

9月4日~29日まで彦根城博物館では【人権学習シリーズ9 『江戸時代の医療』】の展示が行われています。


これに際して、博物館学芸員さんによるギャラリートークが行われましたので、その内容の一部をご紹介します。

人権学習シリーズは平成2年から行われていて今回で9回目になります。このシリーズは歴史を材料に人権の問題を考えようという試みです。
では、医療と人権はどういう風に繋がるのでしょうか?

あまり繋がるようには思えませんよね。
近年は医療技術が発達して延命治療などができるわけで、心臓が動いていても脳死など臓器移植の問題にもなるような話もあります。それを巡ってお医者さんと患者さんとの関係や家族との関係、そして例えば死に直面している人の人権をどう考えるか?などの問題があると思います。
また、患者さんが病気になったときに自分の病気についてどこまで知れるか?お医者さんがどこまで告知するのか?
なども権利の問題になりますね。
そんな現代医療の問題につきましては人権の問題も結びつきますね。

ただ今回の江戸時代の医療とした時には、今のように医療が発達していない時の人権問題というのは現代のような問題ではなく少し違った問題になります。

今回の展示で取り上げた問題は「人の生存権」
生存権は憲法でも「文化的で最低限度の生活」を国民は法律で保障されています。その重要な物として安心で安全な生活があり、それの一つに医療があります。
これは基本的な生存権を支えている部分です。

今回の展示で医療技術がどういう風に発達してきたかをもう一度確認します。
医療は今は社会的地位もお医者さんの信頼も高いですが、江戸時代はそれ程高くありませんでした。
それ程高くないという事は「医者に行けば何とかなる」という発想も無かったことになります。今の医術が科学的で客観性を帯びて居ますが、そうではない時代は極端に言えば医学もお祈りも変わらないという事もあります。ですから医学が高い信頼に上っていく行程があるのです。
その辺りが江戸時代においてどうなっているのかも考えます。


また江戸時代の衣料の発展において、お医者さんと患者さんの相互の関わりも重要になります。
江戸時代は現代にあうような医療制度もありませんし、飛躍的に医療が発展する事もありませんが、江戸時代の最初と終わりを比べれば確実にステップアップしています。
そんな時間は掛かったが頑張った人々の鋭意も紹介しています。

あと患者さんの視線から見れば、江戸時代は民間の世界が成熟していく時代で、近代の市民社会が準備されていて近代に繋がる町社会が成熟されていきます。
医療の事を考えると、それもよくわかります。
彦根藩領ではお医者さんは村(大字くらい)の単位で考えると5~6ヶ村に一人くらいのお医者さんが居ました。だから材村のお医者さんがかなり居たのですが、江戸時代の記録を見ると、患者がお医者さんを選んでいるという意外な事が分ってきます。
長浜の辺りに居ると思われるお医者さんの診断記録では余呉・浅井・坂田からも患者さんが日々きていた事も読み取れます。

これはどういうことかといえば、患者側がより腕の良いお医者さんや名声などの情報によって、お医者さんを求めて努力していたのがわかります。これは医療発展の上でとても大切だと思います。

医療の発展で、現在はまた複雑な問題が起こったりもして居ますが、江戸時代の医療の発展を裏付け、またどういう人々によって起こったかという事。
今は様々な制度問題で大変な事になって居ますが、社会の制度に限らずより良い物を作るには当事者がいかに関わっていくか?
それをどう解決し、作り上げていくか?というそれぞれの人々の主体的な鋭意にかかっていると思うので、江戸時代の医療のあり方を見る事によって今後の我々の社会をどう作っていくかを考える機会にしていただければ・・・と思います。


35件の展示のうちの一部をご紹介します。
江戸時代は初期に中国の漢方が中心で一部オランダから外科の技術が入ってきました。中期になると西洋医術が発展しますが、それで和漢漢方が無くなった訳ではなく、ベースは和漢が大きかったのです。
幕末でも漢方医の方が多かったくらいです。

江戸時代は、印刷技術によって医学書が広がりました。これは社会機能が潤滑に作用しているという江戸時代の特徴を顕著にあらわしています。
『傷寒論』
古くは中国の後漢時代に張仲景が書いた熱病の臨床書が江戸時代でも広がっていました。
『薬徴』
薬の特徴が書かれています。
『大和本草』
貝原益軒が記した本草学(今の博物学)の本、植物の図と薬としての効用が書かれています。
『解体新書』
杉田玄白らが訳した歴史的にも有名な本の印刷物です。
『蘭訳手引草』
西洋の薬が紹介されていますが、キツイので飲み過ぎないようにとの注意がされています。
『産論翼』
彦根藩士の子どもとして生まれた賀川玄悦は、産科の医者となり、妊娠中は赤ちゃんの頭が下にある事が正常な位置だということを初めて証明した人でした。
この玄悦の養子が記した書です。
『医者由緒書』
彦根藩に抱えられた医者は幕末に31家、平均的に30家があったそうで、その藩医となる彦根藩士たちの由緒をまとめた本。
石高ごとに並べられるので、時代によって順番が変わったりしてその度に並び替えられました。
『稽古館古記』
藩校・稽古館に医学寮を創り、藩医の子に医学を教えていました。
民間からここには居る人は居ませんが、政治機関が医療に携わっていた大切な証拠となる資料。
『こころの茎』
彦根藩領に住む者が日々のいろんな事を書いています、ここには妙薬や薬の情報が多く、民間でも薬が作られていました。
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彦根藩の支藩:彦根新田藩

2008年09月05日 | 井伊家関連
先日、彦根藩の支藩があったのか?
というご質問をいただく事がありました。

ちょうど別件で調べていて他にも載せた原稿がありましたので、そのままご紹介します。


『彦根新田藩』
彦根新田藩は、彦根藩の歴史の中でで唯一立藩された支藩ですが、その期間は正徳4年(1714)~享保19年(1734)のたった20年間のみで藩主も後に彦根藩八代藩主となる井伊直定の一代限りだったのです。


彦根新田藩ができた理由は、
彦根藩四代藩主の井伊直興には33人の子どもが居たのですが、直興が政治の舞台から身を引く時に生存していた男子は三人しか居なかったことに起因します。
この三人のうち、
・四男の井伊直矩は与板藩主
・十三男の井伊直惟は彦根藩主
になっていたので、十四男の直定のみ藩主になれないのは哀れだとの理由で支藩ができたのでした。

本来なら一万石くらいならば「彦根藩領内のいずれか」という形で限定した知行地を決めない者なのですが、直興は「井伊家の将軍家に対するご恩に報いる為には禄が必要なので、新田が増えた訳ではないが分地をしてほしい」と述べているのです。


しかし、その知行地が定まる事が無く、直定が幕府内で奏者番に就くなどで知行地の事が問題となり幕府が彦根藩に対し質問をして交渉に当ったのですが、結局は知行地は渡さないままに知行分の支給という形がとられたのです。

そこまで様々に揉めた彦根新田藩の知行地問題だったのですが、井伊直惟の発病による直定の世子相続が決定した為に、与板藩主・井伊直員立ち合いの元で彦根新田藩の廃藩と知行地一万石の彦根藩接収が確定し、彦根新田藩は短い歴史に幕を閉じたのです。


たった20年で一代限りの支藩だったのですが、井伊直定が奏者番になっていた事は注目すべき点とも言えます。
この役職は、幕府内での出世コースのスタートとも言えるモノで、ここから順調に出世を重ねると若年寄や老中にもなる事ができるのです。
支藩の藩主で1万石ならば老中の条件は満たしませんが、若年寄まで出世した後に知行地が増えて老中というコースも井伊家なら考えられたのです。

この彦根新田藩がそのまま残っていたら、この後にどんな運命を辿っていたのか?
歴史に「もし・・・」はありませんが、だからこそ妄想してみたい夢が広がる藩だったのです。
コメント
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