彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

ある秋の弁当

2021年09月26日 | テーマ日記
テーマがお弁当だったから…

栗ご飯をメインに、玉子焼き(魚肉ソーセージと刻みネギ)と豚肉と小松菜と太メンマの炒め物です。


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だんだら羽織

2021年09月26日 | イベント

大丸京都店で新撰組のだんだら羽織を復元し展示しているとのことで観てきました。


新撰組のだんだら羽織は、『忠臣蔵』の赤穂浪士の衣装を浅葱色(切腹時に着る裃の色)にしたものだと言われていますが、まだ芹沢鴨存命中に大丸呉服店に発注した物と言われていますので、オリジナルを作った大丸の企画というところに惹かれて観に行きました。










ちなみにこの隊服は汚れが目立つ色なので洗濯と縫い直しが必須だったためにすぐに使用されなくなり現存する物はないとされています。


しかし、渋沢栄一の記録や志士の回顧談などから新撰組には黒い隊服があったのではないか?と言われています。



この展示は、映画『燃えよ剣』のイベントに絡んでいたようで映画衣装も観ることができます。

・沖田総司



・土方歳三



・藤堂平助




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彦根城総構え400年(5)

2021年09月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 前回、彦根城下町は彦根道から始まったと考えられることを記した。これは彦根だけの話ではなく都市計画においては当たり前のことである。しかし、時代の需要によって町の形は変わってくる。
 古代は京都市内に碁盤の目として今でも残るような条里制が主流であり、この形は都市だけではなく日本各地で痕跡を確認することができる。滋賀県内もその例外ではない。対して現代に近い時期の土地計画としては太平洋戦争後の戦後復興ではないだろうか? その象徴的な逸話として名古屋市を例に挙げたい。
 大空襲で名古屋城天守すら失った名古屋市の復興に乗り出した佐藤正俊市長(当時)は、田淵寿郎を技監に招き土木建築業務の全権限を託す。佐藤自身は前後の公職追放で市長職を追われるが田淵の仕事は継続された。まず田淵が行ったことは墓地を一か所に集めることと幅の広い道路を造ることだった。特に道路に関して見てみると、国策として公園整備も兼ねた100メートル道路が立案されていた時代ではあったが、それを除いたとしても道路幅8メートル以上を考慮した200万人都市を念頭に置いた道路計画が実行された。まだ高度経済成長期など夢にも思っていない時期に将来の車社会を見据えた道路計画は無駄とされ、田淵や佐藤は冷笑された。しかし、現在は先見の深さを高く評価されている。これに対し空襲の被害をあまり受けず江戸時代の街並みを残す彦根市では人口は名古屋市の20分の一ほどだが車の渋滞状況は場合によって酷いとも感じる(私見)。
 名古屋市は例外だが、現在の都市形成は江戸時代に遡ることができ、各都市が持つ役割が組み込まれている。彦根は譜代大名筆頭井伊家の城下町であるため物流が活発な大規模地方都市であり、旅人を監視する監視機関であり、軍事都市でもあった。
 物流は城下を通る道さえ整備できれば自然に商人がやってくる。監視に関しては「彦根城は道を通る人の顔が判別できるように道とは並行せず斜め向きに計算して築城されている」との眉唾な話を耳にするが、城下町には門や木戸を設置していて役人が常駐しているためわざわざ彦根城から監視する必要がない。絵図などを観ると城下町にも多くの門が作られていたことが確認できる。
 そして軍事都市としての痕跡は、城下の中の細い道や「どんつき」と呼ばれる急な行き止まりと「食い違い」と呼ばれるクランクの多様であった。これら全ての道が敷かれたのちに町作りが始まった訳ではなく町作りの中で必要に応じて配備されて行くのだが常に重視されていたことは間違いない。
 第一期の築城で現在の内堀より内側の築城が行われ、その堅城さは現在の城ブームでも語られる。しかし防御に適した城を戦いに使わないために城下町で敵を防ぐ工夫が考えられたのである。

彦根城下町の食い違い(彦根市本町二丁目)
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摩免渡市杵島弁財天 訪問

2021年09月16日 | 史跡
前渡不動尊から下山すると道向かいの麓に摩免渡市杵島弁財天がありました。









岩の上にあるお社で気になって寄ってみて由来を読むと浦島太郎伝説のひとつなのですが、その内容を要約すると…

信濃に住む太郎の前に急に美女が現れて、「結婚しましょう」と言われ、太郎は身分違いから断っていたのに押し切られます。
その時に、「結婚式は安芸の宮島でするから、この箱を持って宮島まできて欲しいけど、決して箱の蓋は開けないで下さい」と言われました。
太郎は宮島に着きますが、どれだけ待っても(734年間)美女は現れず失意のうちに戻り、遂に箱の蓋を開けると七晩目に美女が現れ「蓋を開けちゃいましたね、これが閉まっている時はあなたは不老長寿だったのですが…」と言って消えてしまいました。
太郎は感じ入ってその箱(玉手箱)の持ち主であるこの弁財天に感謝を申し上げた。

みたいな内容。
太郎は、結婚も畏れ多いと断ってた上にいざ指定された式場に行っても相手が現れず、待ちに待ったあとで預かった箱の蓋を開けたら待ち人が来て「あーぁ、やっちゃった」と言われたということですよね。

理不尽だ(笑)
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承久の乱供養塔訪問

2021年09月15日 | 史跡
各務原市前渡東町の矢熊山中腹にある承久の乱供養塔に行ってきました。

承久3年(1221)に起こった承久の乱は鎌倉幕府軍が東海道、東山道、北陸道のそれぞれから京都を目指しました。

各地で戦いが行われましたが、あまり遺構は残っていません。
その中で、東海道軍と東山道軍が合流した美濃と尾張の戦いが広範囲での激戦になりました。
6月5日尾張一宮まで進んだ北条時房、泰時らは木曽川沿いに軍を展開する朝廷軍と対峙します。



翌日にかけて、犬山から墨俣まで戦線が拡大しました。
前渡(摩免戸)では6日明け方に幕府軍の北条時氏が木曽川を渡河、朝廷軍の藤原秀康は戦うことなく敗走。
朝廷軍の鏡久綱のみが戦ったのですが「臆病な秀康に従ったために、思う様な戦ができなかった」と嘆き自害したのです。

昭和に入ってからの河川工事で大量の五輪塔が発掘され、承久の乱の犠牲者の墓だろうと推測されて供養塔としてまとめられ前渡不動尊の麓に置かれました。













ただし、墓の形をみると承久の乱よりも後の時代の物だと考えられます。
でも、どんな形でも戦いの犠牲者を供養する気持ちは大切ですね。

供養塔からまだ山を登ると前渡不動尊様にもお参りできます。



上から見る景色も良かったですし、この地で800年も前に戦があったことが信じられないくらいの長閑さでした。





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