彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『やましろの国いっき祭り2011』

2011年07月31日 | イベント
これは、彦根とは関係ありませんが、管理人が個人的に面白いと思ったイベントの報告です。
7月31日『やましろの国いっき祭り2011』の全国水鉄砲合戦に参加するべく彦根を離れ、京都南部、奈良との県境に近いけいはんな記念公園まで出陣しました。


どんな競技かといえば、4人1チームに分れ竹水鉄砲で撃ち合う競技です。
そして頭の上のポイが破れたり、落としたりしたら失格になります。

これが結構破れにくいですが、落ちやすい。
失格になったら陣地の外に出ますが、外から味方を支援できるシステムなので油断なりません。

ちなみに竹鉄砲は会場でも販売されていました。
手作りの良さがあるいい物でした。

この地域は『竹取物語』伝説があるくらいに、竹が豊富な地域なのだそうです。

東日本大震災復興のための「あるよ」を背負い、管理人はチームあるよの一員として参戦です(この背中はチームリーダー)。


競技が始まる前から、参加者は水鉄砲で楽しんでいます。
お子さんも

若者も楽しそう。

こういう時は、お子さんは無邪気に、大人は大げさすぎるほどのはしゃぎます。
みんなが笑顔になる瞬間がいいですね。

太鼓の演舞のあと競技スタート

最後には、バックの城を落とすイベントもあるのですが、残念ながら今回は時間の都合もあり断念し、途中で帰宅しました。

でも水鉄砲合戦は白熱の参戦と、見学も力が入ります。
かわいい子どもたち

女の子も勇敢に挑みます

大人も真剣

実は、大人より子どもの方が強いなんてこともしばしば(笑)


ゲストに、THE冠のメンバーも参戦されていました
リーダーのマイクパフォーマンスに合わせ

メンバーは戦います


 

 
水を撒いていくので、打ち水のような爽快感とずぶ濡れになる楽しさがありました。
子どもは大はしゃぎ、大人は子ども以上に童心に帰って楽しめる。そんなイベントでしたよ。

非日常の空間が体験できるイベントは、絶対に必要な観光誘致だと思っていますが、こんな遊びを優先した楽しむイベント、もっともっと増えると面白いでしょうね。

彦根ゆかたまつり

2011年07月30日 | イベント
彦根では毎年行われる夏のお祭の一つ「ゆかた祭」が7月30日に行われました。
浴衣を着て会場に行くと、抽選会に参加できたりとお得なことがたくさんあるイベントです。

夜店やイベントを覗くだけでも楽しいですし。



さて、今年は夢京橋あかり館で3月から『三成イレブン』というイベントをしています。ここにも寄ってきました。
何のゲームかはわかりませんが、三成のアイテムという扇も展示されています。

また、あかり館一階には、10月上映の映画『一命』で使用された、井伊家の屋敷に飾られた赤備えという映画小道具が展示されていました。

『一命』は、50年前の映画『切腹』のリメイクで、市川海老蔵さんが主演です。世の中が武骨な時代から文治の時代に変わろうとしていた時、一時的に流行った押しかけ仕官、押しかけ切腹という排他的なブーム。
これを井伊家の屋敷を舞台に語られる映画です。


さて、その後は宗安寺で幽霊画の展示があるとのことで行ってきました。
宗安寺は、石田三成の遺構が多く残っていたり、

木村重成の墓があるお寺でもあります。

そして江戸時代は、親藩以外の藩で唯一徳川家康の位牌が安置されているお寺でした。

お庭の奥に位牌堂があります。本来は本堂に安置されていた物が、ある時にここから奪って彦根城の堀に捨てた不届き者が居て、一時は井伊家に保管されていた位牌を、位牌堂を建立することを提案して、宗安寺への返還を懇願されたのだそうです。
この為に、彦根城が見えるお庭に築山を築き、お堂を建立したのだとか…

位牌が安置されたところも見ることができました。戒名が長いため、二つに分かれていて、普段は院殿号がある右側の位牌だけ開いて念じたそうです。
この位牌があるために、もともと安国寺という寺号だったのを、安国寺恵瓊を連想させるからとの理由で宗安寺に改号したそうです。

位牌開けて下さいました。
右側は葵の紋が入った御簾がありました。

両方とも、戒名まで見せていただきましたが、江戸時代の井伊家の殿さまでも戒名をみてお参りすることはなかったはず。とのお話でしたので、ここまでの写真公開にしておきます。
めちゃくちゃ貴重な体験させていただき、感謝です。

そして幽霊画

上村松園が謡曲『葵の上』に登場する六条御息所を描き、その絵を観て誰かが幽霊にリスペクトして写したものなのだとか…
着物に描かれた蜘蛛の巣や長い髪が怖いです。一緒のタイミングで見ていた小学生が騒いでました。やっぱり怖かったのかな?

『戦国時代の城跡を活用した町づくり』講演聴講記録

2011年07月17日 | イベント
花しょうぶ通り商店街の戦國丸で出前講座『戦国時代の城跡を活用した町づくり』というお話があり、聴講してきました。
講演されたのは、彦根市役所の文化財部文化財課の下高大輔さん。

まずは、戦国時代の城がどのような物だったのかを、とくに山城を中心にお話しされ、土作りの城が大軍での戦いには不向きであることが山中城の戦いで証明されたこと、平城の昔の姿を調べる時は明治時代に描かれた地籍図が参考になること、平城の中心部は建物が建たずに田畑として伝えられた例が多いことなど、現在のお城訪問にも生かせる情報もありました。

また、佐和山城の縄張り図や測量図を資料にしながら、織田・徳川期にお城が消えていく様子も説明があったのです。

そして本来のテーマである城跡を活用した町づくりとして、湖北の上平寺城と鎌刃城の例から、行政が上から言うのではなく、地域住民からの活力こそが本当にお城を活かして町づくりに取り組める成功例になる。とのことでした。佐和山城では、大手にあたる鳥居本の方が活動されておられることも紹介されました。


お城は滋賀のように県内では約1300城あるともいわれていますので、1300通りの活かし方があるとも言えますね。
これは、そこに住んでその城を誰よりも愛する人々がいてこそ、活用できる先人の残した遺産なのかもしれませんね。


さて、講演の後はいしだみつにゃんによるじゃんけん大会でした。
商品は…
こられた方がそれぞれに楽しまれたとして…
グー

チョキ

パー

と身体いっぱいに表現しながらのじゃんけんでした。
殿は最初のうちは策が読まれていましたが、後半は怒涛の勝利(笑)
そんな殿に勝ち、恩賞を手に入れた皆様、おめでとうございます。

殿は、勝者に丁寧に恩賞を渡しておられました。

蛭子田遺跡現地説明会

2011年07月16日 | 史跡
古墳時代後半に乗馬文化があったことを示す、壺鐙が出土したニュースが駆け巡り、現地説明会があるとの話を聴きつけて参加しました。

行ったのは、東近江市木村町。
名神の八日市と竜王のちょうど真ん中辺りで蒲生あかね古墳付近です。

発掘された壺鐙は、国内最古級の5世紀後半から六世紀初めの物で、しかも近畿では初めての発見になるそうです。

この時の馬の規模を訊ねると、今の木曽馬くらいではないかとのことでした。

他にも、発掘された物を見ることができました。
平安時代の墨書の土器なんかもあります。


蛭子田遺跡には4世紀から6世紀の集落が発見されたり、上の写真のような平安時代の墨書土器が見つかるそうです。また近くには古墳時代前中後期のそれぞれを示す古墳や、渡来人系と思われる古墳群、そして木村古墳群などが密集している地域なので、長い期間の集落形成があったことが示されているようです。


その遺跡には、壊されてしまったと思われる木村古墳群の端になると思われる20mほどの規模の円墳の跡

竪穴式住居

方形周溝墓の跡も見つかっています。

面白いところでは、布掘り建物

本来の柱は、一つ一つ穴を空けて立てるのですが、布掘り建物の場合は、まるで反物の布を伸ばしたようにまっすぐに掘って、そこに柱穴を空けていたそうです。
そして、礎板を敷いたのだとか…

今回の発掘で、この様式が出ているのはここだけで、その意味は何なのかわからないですし、本来は東日本で見る例なのだそうです。
以前、宮田遺跡の現地説明化の時に「今で言う中日新聞圏と京都新聞圏のように彦根の八坂辺りで文化圏が分れる」との話でしたので、東国の文化圏様式が東近江にあるのも不思議ですね。
また、何世紀にもわたって住居などの跡がありながらも、木村古墳群が創られていた時期だけは何の以降も出ていないそうです。
壺鐙が出ても馬を飼育したような施設は出ていないとも聞きました。

布掘り建物、木村古墳群建造時期の空白、そして壺鐙…

色んな妄想を掻き立てる遺跡です。

『盟友・大谷吉継の敦賀統治―その政策と三成の信義―』講演聴講記録

2011年07月14日 | 講演
ひこね市民大学講座 歴史手習塾の セミナー8『関ヶ原!石田三成の志-夢と正義-』
2回目の講演として「盟友・大谷吉継の敦賀統治―その政策と三成の信義―」と題されたお話がありました。
講師は敦賀市立博物館の高早恵美さん。


彦根で聞くお話はほとんどが石田三成であり、その盟友といわれる大谷吉継のしかも敦賀でのあり方を聴くことがができるのはすごく貴重なお話でした。
敦賀の支配がどのように行われ、そこに吉継はどんな立場で入府し、そして治めて行ったのか、興味深い内容でしたよ。

今度はそれを感じるためにまた敦賀に行こうかな?って思うお話でした。


ちょっと質問してみました…
≪質疑応答≫
(管理人)
僕の関ヶ原の勝手な解釈ですが、大谷吉継は、戦略家ではあったのですが戦術家ではなかったと思っています。吉継の采配で北陸や九州などで西軍が立ち、美濃の合戦にすぎなかった関ヶ原が全国に広がります。
ひとつだけ間違えたのは大将を三成にしなかったことだと思います。戦略はその点のみがミスだったとしても、戦術は裏切ると見ていた小早川の背後に軍を置かなかったことです。
戦略大名であり戦術大名ではなかったと思うのですが、戦略大名であるならば長期計画が立てられるということなので、敦賀の町作りでの長期プランは史料から読み取れるのかを教えて下さい。

(高早氏)
史料から見るのは難しいですね。結果的に禁制をだしたり建物を移動したりはしていますが、長期かどうかはを考えていたのをわかる史料はないです。
今でもこの町に統治が生きてると感じる時に思う一市民の感想です。

(管理人)
結果的にはすぐには平和になりませんでしたが、あの時期は平和にするための時期なので、そんな町作りかな?と思いました。

(高早氏)
ものすごく平和や経済を意識していると思います。

第99回高宮納涼花火大会

2011年07月10日 | イベント
滋賀県の花火大会のスタートとなる高宮納涼花火大会が7月9日に行われました。

毎年でしたら、まだ梅雨は明けておらず、梅雨空を心配しながらの開催ですが、今年はその心配もなく行われました。


管理人の自宅からも見ることができますが、少しだけ見やすい場所に移動して見学しました。







今年も琵琶湖の周囲を中心に滋賀県では多くの花火が打ち上げられることでしょうね。

動画もアップしますね
高宮納涼花火大会1

高宮納涼花火大会2

7月9日、京都大地震

2011年07月09日 | 何の日?
元暦2年(1185)7月9日正午ころ、京都で大地震が起こりました。
この地震については鴨長明が『方丈記』の中で触れていますので、その内容を中心に紹介します。

その記事は『方丈記』の真ん中あたりに、「また、同じころかとよ」の出だしで書かれています。

簡単に内容を書きますと、
「すごい大地震があり、山は崩れ、川は埋まって、琵琶湖は傾斜し湖水が陸に上がった。京では寺の建物が倒壊し残った物はなかった。建物が倒れる音は雷と同じだった。家の中にいるとつぶされるので外に出ると亀裂が走る。翼が無いので飛ぶこともできず、人間であることがむなしかった。そして何よりも恐ろしい物は地震だと痛感した。

ある武士の子どもは、遊んでいる時に倒れてきた土塀に潰され、目などは両方とも一寸も飛び出していた、父母は嘆き悲しんでいて、勇敢な武士でも人目を幅まらずに悲しむ姿は気の毒だった。

この激しい揺れはすぐに止まったが、その後も何度も揺れた。これは普段なら驚くくらいの地震だった。大地震の直後は1日に2.30回くらい揺れた。10日、20日と過ぎると1日に4.5回、2.3回と減り、1日おきになり、2.3日に1回となったが3ヶ月は揺れが続いた。

仏教では、火水風はいつも災害を起こすが、地は変化しないと思っていた。昔、斉衡年間(854~857)に大地震があって東大寺の大仏の首が落ちるということがあったそうだが、その地震も今回の激しさには敵わないだろう(斉衡2年に地震で落下、原因は首の重み)。
今回の地震を体験した人々は、みんなあじなきこと(「つまらない」と訳すそうですが、ちょっと疑問が…)と話し合ったので、煩悩は薄れるかと思ったけれど、月日が流れると大地震のことや、それによって世を儚いと思ったことを言う人はいなくなった」
と、記されています。


最近の研究では、この地震は琵琶湖西岸断層によって堅田辺りを震源とした地震とされていてマグニチュード7.4と推定されています。
記録にあるように、延暦寺の建物や法勝寺、南大門などが倒壊し、宇治川の宇治橋が落ちて1人が溺れ死んだそうです。

滋賀県教育委員会が行った平成20年塩津港遺跡の発掘調査で、琵琶湖の北部に位置する塩津港遺跡から5体の木像神仏が見つかりました。
その後の調査で、この木像神仏は、海運の安全を願って琵琶湖に向かって建てられていた神社がこの地震で流されて、その時に埋まった物だとわかったのです。
堅田辺りを震源とした地震によって、琵琶湖を南北に横断する津波が起こり、それによって神社が倒壊したことを示す災害の目撃者でもあったのでした。


鴨長明は、それほどの大地震で余震が3ヶ月も続いた大惨事でありながら、時間が過ぎると人々の話題になることが無くなったと嘆いています。
京都地震が1185年、この地震の3ヶ月前に壇ノ浦で平家が滅亡し安徳天皇が非業の死を迎えたために、平家の怨霊とも騒がれた地震でしたが、『方丈記』が書かれた建暦2年(1212)ではそんな状態だったのです。
30年も満たない間に記憶から薄れてしまう大震災。これをどのような教訓として生かすかも大きな課題のように思えますね。

7月8日、『刀狩令』

2011年07月08日 | 何の日?
天正16年(1588)7月8日、豊臣秀吉が『刀狩令』を発布しました。

その内容は三か条からなります。
一、諸国百姓刀・わきさし・弓・鑓・てつはう其外武具の類所持候事、堅御停止候…(以下、略)
一、右とりおかるへき刀・脇指ついゑニさせらるへき偽にあらす候条、今度大仏御建立の釘・かすかいに可被仰付、然者今生之偽者不及申、来世まても百姓たすかる偽に候事
一、百姓ハ農具さへ持、耕作専に仕候へハ、子々孫々まで長久二候、百姓御あわれミを以、如此被仰出候、諸国土安全万民快楽之基也…(以下、略)
右道具急度取集、可致進上候、不可由断候也
 天正十六年七月八日


簡単いいいえば

一、百姓から刀などの武器を取り上げること
一、取り上げた物は大仏建立の釘や鎹に使うので、百姓の方が来世までも救われるのですよ
一、百姓は農具を持って耕作をすることこそが、国のとっても安全で、百姓にとってもしあわせなことなのです。

と書かれています。


この法令は、秀吉のこの瞬間をもって始まったとされていて、これが農兵分離を加速させ職業軍人と生産者の住み分けに繋がります。
こうして、武士は農村から出てしまう形になり、城の周りに屋敷を構えて城下町が発達し、そこに商売人が集まるのです。

逆に「農村で武士を見かけるのはほとんどなくなった」と先日の講演で太田浩司先生は仰ってました(これが記憶に新しいので、今回紹介しました)。
ちなみに、豊臣政権の画期的な政策である刀狩は、実は柴田勝家が既に行っていたとの話もあり、秀吉自身もこの法令より3年前に根来雑賀一揆の処理として紀伊で行った実績があるのです。