井伊直弼が亡くなる年の1月に自ら正四位左近衛中将の正装をして狩野永岳に描かせたという肖像画が彦根に残って居ます。
この肖像画は、描かれた本人の生前に書かれた物としても珍しく、また直弼自身による『あうみの海』の和歌が書かれているのも歴史的価値をあげています。
さて、この肖像画が公家風の正装だった事から、直弼の銅像などが束帯の姿をしていても何も疑問に感じない方が多いですが、実は直弼の像は束帯である事が偶然ではなくて必然として考えて作られているのです。
井伊直弼といえば、無勅許で日米修好通商条約の調印を行い反対派の尊皇攘夷派を安政の大獄で処罰した“朝敵”という歴史的評価がなされてきました。
しかし、彦根藩はどこよりも厚い勤皇の藩であり藩主はその先導に立っていましたので、朝敵の汚名は冤罪とも言えたのです。
明治になって横浜や彦根に直弼の像が作られる時、旧彦根藩士たちはそんな直弼の評価を変えるために敢えて裃ではなく束帯の直弼像が作られたのでした。
束帯の直弼像は旧彦根藩士たちの直弼に対する想いが詰っているんですよ。
この肖像画は、描かれた本人の生前に書かれた物としても珍しく、また直弼自身による『あうみの海』の和歌が書かれているのも歴史的価値をあげています。
さて、この肖像画が公家風の正装だった事から、直弼の銅像などが束帯の姿をしていても何も疑問に感じない方が多いですが、実は直弼の像は束帯である事が偶然ではなくて必然として考えて作られているのです。
井伊直弼といえば、無勅許で日米修好通商条約の調印を行い反対派の尊皇攘夷派を安政の大獄で処罰した“朝敵”という歴史的評価がなされてきました。
しかし、彦根藩はどこよりも厚い勤皇の藩であり藩主はその先導に立っていましたので、朝敵の汚名は冤罪とも言えたのです。
明治になって横浜や彦根に直弼の像が作られる時、旧彦根藩士たちはそんな直弼の評価を変えるために敢えて裃ではなく束帯の直弼像が作られたのでした。
束帯の直弼像は旧彦根藩士たちの直弼に対する想いが詰っているんですよ。