彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊家千年の歴史 追補2

2022年08月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2015年8月25日、井伊直虎を主人公とする『おんな城主直虎』の制作発表が行われた。この日は直虎の命日前日でもあり私は知人と共に今後の活動について語り合った。

 私たちが早い段階で行ったことは翌年に井伊直虎命日法要を行う企画を井伊谷龍潭寺に持ち込むことであった。「国宝・彦根城築城400年祭」のとき彦根市が彦根藩主十四代をメインとして井伊家を紹介していたため、その前を知ろうとのことで井伊谷井伊家六百年を集中的に調べ、400年祭の3年後には井伊家初代共保公誕生1000年を迎えることも念頭に置いて活動していたため、大河ドラマ発表時には必要な情報が整理できていた。このことは直虎の命日がすぐにわかったことや私がここで記し続けて書籍化された『井伊家千年紀』にも繋がる。

 こうして私たちの小さな企画を井伊谷の方々がしっかりとした形ある大きな行事に昇華され、大河ドラマ放送前年に1回目の井伊直虎命日法要が行われたのである。

 天正10年(1582)8月26日、3か月弱ほど前に起こった本能寺の変で井伊家が仕える徳川家中だけではなく世の中が大いに混乱している中、井伊直虎は龍潭寺山門近くの松岳院で生涯を閉じた。松岳院は今川氏真の命で井伊家が所領を失ったあとに直虎と母・祐椿尼(新野左馬助の妹)が住んでいて、こののちに直虎が龍潭寺住職で大叔父・南渓和尚と図って井伊家再興を進めた拠点の一つとも言える場所であった。井伊家の娘として生まれ井伊家の滅亡と再興を見続けた直虎の最後には相応しい場所であったかもしれない。その功績は広く語られることはなかったが、『井伊家傳記』など井伊家の伝記に次郎法師の名で記され、少ないながらも井伊家に関わる場所での記録が残ること、また井伊家の後継者である虎松(井伊直政)の教育と仕官について尽力したことなど井伊家には欠かすことができない人物であったことは間違いない。

 しかし母・祐椿尼の死後、「直虎」という男名も「次郎法師」という井伊家総領の名も捨てて「祐圓尼」という尼僧の名を南渓和尚に与えられたことで、直虎は井伊家総領という重責から解放されたのかもしれない。そうならば大河ドラマが放送されるまで、井伊家を救った人物でありながら静かに歴史に埋もれていたことは直虎の意向に適っていたのではないかとも思えてしまう。

さて、7回目を迎える2022年の命日法要は、井伊直虎が亡くなって440年の区切りとなる。この記事が掲載されるときにはすでに命日法要は終わっているが、例年通りであるならば寺内と墓前で手を合わせて焼香をすることができたであろう。10年後には450年を迎える。それまで同じように命日法要に参加できるのか私自身のことはわからないが、でき得る限り8月2日に井伊谷龍潭寺へ行き、直虎を始めとする井伊家の御霊に手を合わせたいと思っている。


2016年1回目命日法要の様子(井伊谷龍潭寺)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井伊直虎命日法要

2022年08月26日 | 井伊家関連

今年も8月26日に井伊直虎命日法要が井伊谷龍潭寺で行われました。




直虎が亡くなった天正10年(1582)8月26日から数えると今年で440年になります。


政府からの宣言はなくてもコロナ禍ですので縮小された法要が続いていて、昨年と同じく御霊屋での法要となりました。



ご住職のお経に合わせて参列者が順番にご焼香させていただきました。



墓所に移動して再びご焼香させていただきました。



暑いなかでしたが、今年も大切な気持ちを示せたと思っています。

個人的なことですが今年も直虎命日法要に合わせて小野但馬守供養塔にも手を合わせました。





そして六年半ぶりに井伊谷城にも登ってきましたが、標高は低いけど坂道が急なので大変です。









井伊谷宮で厄割をするのも恒例になってきましたが、今回は割れるまでに三度も投げました…


もちろん、初代共保公出生の井戸も言ってますよ。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寿福院逆修塔(妙本寺) 訪問

2022年08月19日 | 史跡
寿福院逆修塔(鎌倉市大町1-15-1 妙本寺)

一幡の袖塚の後ろに一際目立つ大きな五輪塔があり、見に行くと「加賀太守宰相卿之御母公壽福院殿日榮逆修」とか「元和第十甲子六月十二日」と言った文字が読めたので写真だけ撮っておきました。


で、調べてみると、加賀太守宰相卿は、加賀藩二代藩主前田利常のことでありその母は寿福院こと千代保の方だったのです。


千代保の方は、朝倉家の家臣の出身ですが、芳春院(まつ)の侍女として前田利家に仕えて、利家のお手付きとなり側室になるのです。
日蓮宗に深く帰依していて加賀藩領に日蓮宗の寺を創建します。妙な縁から息子利常が加賀藩主になったため、芳春院に替わり人質として江戸に行きました。
その頃に、妙本寺に逆修塔(生前に建立する自らの墓)を建立したのです。

寿福院は、逆修塔建立の五年後(寛永8年3月6日)に加賀藩江戸藩邸で亡くなり遺灰は金沢に住まう時に帰依していた能登の妙成寺に納められ、この逆修塔は供養塔となりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源媄子之墓(妙本寺) 訪問

2022年08月14日 | 史跡

現在の説では、源頼家には四男一女の子どもがいたと言われています。

男子(一幡、公暁、栄実、禅暁)はすべて北条義時の絡む事件で非業の死を遂げました。残された一女は妙本寺の記録では媄子(よしこ)という名前で記されていますが、歴史的にはその住まいである「竹御所」と呼ばれています。


比企能員の乱の前年である建仁2年(1202)に誕生。

比企一族滅亡と父頼家の死により、北条政子に保護され15歳の時に三代将軍で叔父の源実朝の御台所・坊門信子の猶子となったのです。

この後に、栄実が泉親衡の乱に巻き込まれ、出家し栄西の弟子になるが殺害され、実朝が公暁に暗殺され、頼朝の血を受け継いだ唯一の男子となった禅暁も暗殺されてしまい、媄子は頼朝の血を残す唯一の生き残りとして御家人たちの拠り所となり、北条政子の後を明確な血筋で引き継いだのです。


実朝亡き後、本来なら京都から天皇の子を将軍(鎌倉殿)に迎える予定でしたが叶わず、鎌倉で預かっていた九条道家の子三寅を元服させて藤原頼経と名乗らせ、その正当性を維持する為に媄子が嫁いだのでした。

頼経13歳、媄子29歳だったのです。


四年後、媄子33歳で懐妊。

今でも30代の妊娠は慎重に進められますが、登場では超高齢の初産ということになり、媄子は男児を死産して自身も亡くなってしまったのです。

こうして、頼朝の血を残す者は歴史から消滅したのです(庶子はいると思います)。


媄子の母については諸説語られますが、竹御所は比企谷にあり、墓も比企一族が眠る妙本寺にあることから、母は比企能員の娘・若狭局ではないか?とも言われています。


源媄子之墓







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

比企一族の墓(妙本寺) 訪問

2022年08月13日 | 史跡
比企谷と呼ばれいる、比企能員屋敷跡に建立された妙本寺





ここに比企能員一族の墓があります。



源頼朝の乳母に比企尼という人物がいて、比企尼は頼朝が蛭ヶ小島に流されたあとには自らが20年に渡って援助し、長女・丹後内侍の夫である安達盛長を頼朝に従わせるなどの貢献をしました。
(丹後内侍の前夫との子が島津忠久とも言われています。また盛長との間の娘が源範頼に嫁いでいます)

この功績から、比企尼の甥を比企尼の養子にして比企氏を頼朝の重臣とします。これが比企能員です。
能員自身も頼朝に従って活躍し、頼朝の嫡男頼家の乳母夫にも選ばれたのです。
やがて、能員の娘・若狭局が頼家の側室となり長男・一幡が誕生します。

頼朝の死後、頼家補佐のための十三人の合議制が形成されますが内情は、比企能員と北条時政の権力争いだったのです。

この時点で、北条時政は頼朝の正室の父に過ぎず、比企尼をバックに控えた比企能員の方が実力者であったと考えられます。

やがて頼家が病に倒れ、その隙をついて時政が能員を暗殺しました。
『吾妻鏡』では、仏事の相談に時政の屋敷に呼ばれた能員は、平服で時政邸に入り、武装した天野遠景と仁田忠常に殺害されたとされています。
この話がどこまで本当かはわかりませんが、史実に近いならば、能員にとっては時政は自分より遥か下の存在だったと見ていたのではないでしょうか?

こうして、主を失った比企一族は北条軍に攻められ、一幡の住む小御所に籠って戦いましたが小御所に火を放って自害したのです。この時に若狭局と一幡(数え6歳)もその場で焼死したと言われています、建仁3年(1203)9月2日のことでした。
遺体は発見されず、焼け跡に残った小袖の切れ端を乳母が確認したために、墓代わりの供養塔として後に妙本寺に袖塚が作られました。




しかし『愚管抄』では若狭局と一幡は小御所から逃げていて北条義時に捕まり11月3日に刺し殺されたとも記されています。


妙本寺の御朱印




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする