彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

松原内湖遺跡発掘説明会

2015年01月25日 | 史跡
国道8号線のバイパス事業にともなった松原内湖遺跡の発掘調査で、織田信長の佐和山城攻めに関わる鹿垣の遺構と思われる物が出てきたということで見学に行きました。

元々は、発掘しないまま壊して道になる場所だったそうなのですが、堀切のようにくぼんだ場所なので念のためにと思って発掘するとこのような発見になったそうです。
戦国時代は遺構の手前まで内湖やそれに伴った湿地があったと考えられていて、この辺りに戦国期の遺物は出ていないそうです(今回の発掘場所は写真の奥)

しかし、多くの時代の遺物は出ているとのこと
 

 

さて現地

幅7.5m、深さ3.0m、長さ14.0m以上の堅堀が階段状に掘削されています。

上から見るとこんな感じ

その奥には堀切も切られています。
 
人工的な土坑もあります

また、古墳時代の石列も出たそうです。


『信長公記』巻三の元亀元年姉川の戦いの後の記載に
「木下籐吉郎定番として横山に入置かれ、夫より佐和山の城、磯野丹波守楯籠り相□候キ、直に信長公。七月□日、佐和山へ御馬を寄せられ、取詰め、鹿垣結はされ、東百々屋敷御取出仰付けられ、丹波五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取詰めさせ、諸口の通路をとめ。七月六日、御馬廻ばかり召列れられ御上洛」(ネット上の物を転記しました)
との記録があり、ここに出てくる“鹿垣”であろうとされています。

信長の佐和山城攻めは、四つの取出(砦)を築き、その間を鹿垣で結んだ物で、これは羽柴秀吉に踏襲され三木城や鳥取城、高松城そして小田原城攻めの時に陣城を築城してその間も塞ぐ策に使われました。
ちなみに、秀吉以外の使用例はあまり見られないのは、この策には金がかかるのでバブル経済を創り上げる人間でなければなしえない物だからと理解しています。

そして松原のこの遺構から、佐和山城と物生山城の間の大堀切に結ばれていたのではないかと中井均先生は考えられているようです。
松原内湖遺跡から大堀切辺りを見る

大堀切

大堀切から松原内湖遺跡を見る

この線が結ばれると、物生山城から彦根山城への鹿垣ラインがおかしくなるので、もしかしたら磯山城から琵琶湖への鹿垣ではなかったかとの疑問も出てきます。
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小山田遺跡調査報告見学

2015年01月18日 | 史跡
新聞発表で一辺50m超えの方墳である可能性が出てきた小山田遺跡の見学に行ってきました。

場所は、奈良県立明日香擁護学校の敷地内です。

この入り口から、蘇我氏の邸宅跡といわれている甘樫丘はすぐそこです。

むしろ同じ区域に入っていると言ってもいいくらいです。


予定より1時間早く始まった現地説明会。

発掘区域の説明

昭和23年の航空写真を見ると発掘地が甘樫丘の一角であることがよくわかります。

また、今回の発掘地の全体写真も見せてくれました。

そして予想図


さて、今回の発掘成果は、まずは巨大な方墳の堀遺構が出たこと、そこには丁寧な敷石、高い部分で11石の1m近い高さになる貼石が出たこと、そして墓側の部分には板石積が出たことです。


特に板石の遺構は、舒明天皇陵と言われている段ノ塚古墳にしか例がないために、もしかしたら舒明天皇の初葬陵ではないかとの話も出てきています。

しかし、ここは甘樫丘と蘇我入鹿の墓と言われている菖蒲池古墳の間にある為に、蘇我氏と対立した舒明天皇の御陵を造るはずばなく、入鹿の父の蘇我蝦夷の墓ではないかとの説も浮上しています。
今回の説明では、そこは触れないようにとのことでしたので、まだまだ謎が残っていますね。


発掘された板石

板石の使用

南より堀を見る

貼石上辺

発掘現場

墓があったと思われる場所は今は建物が建っています
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幕末の名もなき女性の記録

2015年01月11日 | ふることふみ(DADAjournal)
 今回は、場所ではなく一枚の古文書から話を進めていきたいと思う。
 江戸時代も安定した時期になると、日本人は思った以上に文化的な生活を送っていた。読み書きそろばんと言われる基礎的な知識は現代のヨーロッパに並ぶくらいに当たり前の物となっていた。また現在の戸籍に近い制度も確立している。この制度を俗に「人別」とも呼び、人別を記録した正式な書面『宗門人別改帳』によって、民衆の宗門や所在地、家族構成などが残されていた。
 この『宗門人別改帳』は、人間の移動も記録され、例えば旅行に出るときに関所で見せて身分を保証する手形の発行にも大いに関わってくる。村の寺が管理を行い役人や庄屋・横目(監察官)が今の役場の窓口のような仕事をしながら管理していたのだ。つまりは記載の移動にはこれらの役人たちによって報告されていたことになる。

 さて、今稿で紹介する古文書は、そんな『宗門人別改帳』の移動に関わる物で、私の書斎に積まれている。
 嘉永7年正月なので、ペリー率いる黒船が浦賀沖に来航した半年後になり、再来航する月だ。このとき、愛知郡中下村(現在の彦根市金沢町)に住む太蔵の娘まさが嫁いでゆくことになった。
 残念ながら私は古文書を読むことを専門としていないので、文章を正確に表すことができない。しかし、このような物はある程度形式化された雛形があり、それに沿った形で書かれているので大まかな内容は理解できる。この文中には「まさがそちらの村に縁付いて嫁ぎます。こちらの宗門人別改帳からまさを削除したので、そちらで記載していただきますように念の為に切手(書面)を送ります」と、書かれている。
 まさの嫁ぎ先は愛知郡田原村(現在の彦根市田原町)なので、地図を見てもそれほど離れた場所ではないが、まさはこの『人別送り切手』と題される文書によって正式に田原村の住民となったのだ。
 この頃の両村の『宗門人別改帳』を拝見できれば、まさが何歳で嫁ぎ、どの年齢まで生きていたのか調べることも不可能ではない、平均的な寿命を迎えていたならば明治という時代を生きていた可能性が高く、この村で暮らし続けたならばまだ彦根市役所の除籍謄本にも名前が出てくるかもしれない。それほど遠くはない時代を生きた女性なのだ。嘉永7年(1854)に結婚したときの年齢が、当時の適齢期である十代後半であったとするならば、大河ドラマ『八重の桜』の山本八重や『花燃ゆ』の杉文と同世代の女性である。桜田門外の変や文久の上知で彦根藩領が大きく騒いだとき、また、戊辰戦争から続く明治維新で日本が変わったときをその目で見て何かに関わっていたかもしれない。
 しかし、歴史はまさという人物に大きな舞台は与えなかった。その代りに160年が過ぎようとする頃に、一枚の古文書として地元の歴史好きに結婚した事実を知らせ、今稿で読者に知られる人となった。もしかしたらまさの子孫の方が、ご先祖様の話とは気が付かないままこの文章を読まれているかもしれない。そう思うと、何気ない一枚の古文書すらも大切な歴史遺産に見えてくる。

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羊神社訪問記

2015年01月10日 | 史跡
1月2日の事ですが、名古屋市の羊神社にお詣りに行ってきました。
5年前の卯年の時から、こじつけでも干支に絡む神社に新年のお参りに行くようにしていたのですが、羊に絡む神社が滋賀県内には十二支全部を祀った佐々木神社のような全員集合しかなかったので、名古屋まで行くことになりました。

普段ならばそれほど人出が無いそうなのですが、12年に一度だけ大繁盛するとのことなので、朝早くに行きました。
2日の朝9時だったからか、警備の方の人数に対して参拝者は少なかったように思います。
 

由緒を読む限りでは、奈良時代に羊太夫という方が、火の神を祭ったのが最初とされ、平安時代には延喜式に記載されたれっきとした式内社です。中途半端な歴史ではありません。


境内に入るといたるところで羊が見れます。
手水鉢の置物
 

本殿前の隠し塀の彫り物


社務所前の像

正面から見るとちょっとリアル…


ご朱印と羊の絵馬も受けてきました。


名古屋市にありながら空襲でも焼けなかった火の神様というだけでも、その霊験は素晴らしいと思います。
火の神様で辻町にあったことから、「火辻」で「ひつじ」神社になったという言い伝えもあり、ユーモア―にも溢れている場所だと思います。
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