文治5年(1189)閏4月30日、源義経の住む衣川館を藤原泰衡が襲撃、義経は自害します。

さて、義経の悲しい運命と非業の死は多くの人の涙を誘い、実は義経は生きていて大陸に渡りジンギスカンになったという伝説まで残したほどでした。
ジンギスカンになるならないはまた機会があれば書くとして、義経が生きて逃げ出し北に逃れたという義経北行説にはどこまで真実味があるのでしょうか?
北行説は「英雄不死伝説」の日本で最初の例で、以降は真田幸村や平賀源内、西郷隆盛など頻繁に使用されるようになります。
つまり義経北行説は元々は義経不死説の一つだったのです。
そもそも『義経北行説』がなぜ議論されるのか? という所から始めると一番に首が挙げられるのです。
義経が衣川で首を切られてから鎌倉で首実験が行われるまでに43日を要しています(すぐ後に頼朝は鎌倉~白河間を10日で行軍している)。
季節は夏、戦火で焼け爛れた首なのだから、たとえどんなに保存をしても首が原型をとどめているとは思えないですよね、しかもその首は首実検の後に海岸に捨てられます。
日本人は死体を恐れる民族でそれが非業の死を遂げた人物なら特に丁寧に祭ってきたのに、義経の首は捨てられた…これはこの首が偽物だった疑いをかける大きな要因となりますよね?
それに義経は衣川襲撃を事前に知っていた形跡があり、この辺りの事情から、「義経は藤原泰衡の攻撃を逃れ逃亡したために泰衡はあわてて偽首を仕立てて鎌倉に送ったが、頼朝は既に偽首である事を知っていた。しかし、奥州征伐の大義名分の為にその首を義経の首と認めさせた」と言う説が登場するのです。
この話は多くの人々の興味を惹き、色々議論されましたが、作家の高橋克彦さんがそんな義経伝説を地図上で記録していくと、北海道までは論理的におかしくない行程で進んでいったという事実がはっきりと浮かび上がってきたそうです。
これは普通の生存伝説にはありえない事なのです。
逆説的に考えるなら、歴史的に死んだ筈の義経が北に逃げたという事実があったからこそ、英雄不死伝説が生まれたのかも知れませんね。
そんな、資料を漁るだけのお話だった筈の義経北行説だったのですが、ある日友達からのメールにこんな文章が書いてありました。
「自分の先祖は鎌倉名門の御家人(鎌倉初期の豪族・三浦氏)の一族で、牛若丸を幼少の頃から知っていたために大人になった牛若丸(義経の事)討伐に出た。そして青森で義経を捕まえたけど彼の濡れ衣を知っていたから身代わりを立てて義経を逃がし、自分も逃亡して青森の近くで隠遁生活をした」
その友達は歴史には詳しくなく牛若丸と義経が同じ人である事も知らなくて、この話も先祖の三浦氏の話のついでに出てきた事だったんです。
でも、このメールを読んだ時は震えました…
当人が知らない所で、歴史家が知り得ない情報が出てきたのですから、ただ口伝なので証拠能力はありませんがね。
でも、驚きですよね。
さて、では義経が生きていたとしてその後どうなったのでしょうか?
勿論成文化された公式文書が有るはずがないのですが、こういう時に案外役に立つのが神社の社史なんです。社史は全てを鵜呑みに信じる訳にはいきませんが、その成立の仮定にたくさんの史実を含んでいるもので、近辺の社史を集め時代分けをする事で一つの新しい史実が浮かび上がる事もあるのです。
そうして調べると義経は衣川から宮古(ここに義経の家臣鈴木重家の墓がある)に移動、そして八戸から津軽半島を北上して三厩(ここで義経が三頭の馬を残して行ったのが地名の由来らしい)から海を渡り日高にたどり着きその地で一生を終えたらしいのです。
皆さんは義経北行説、どう思いますか?
そんな歴史ロマンを呼び起こす衣川には多くの著名人も訪れました。
その一人が松尾芭蕉であり『夏草や 兵どもが 夢のあと』の句を読んでいます。
この句には「国破れて山河あり」に似たような響きと共に、そんな地が夏草に覆われた物悲しさも著しています。
芭蕉に遅れること150年ほどで今度は頼三樹三郎もこの地を訪れました。

三樹三郎の父の頼山陽の『日本外史』には
「四月晦。泰衡遣兵襲衣川。弁慶経春等奮戦死。義経手刄妻子而自殺。」

と書かれています。
衣川を訪れた三樹三郎は、「600年経てば藤原四代の栄華は一睡の夢である。義経と頼朝の間柄、そして衣川と鎌倉の佇まいを比べると、いまだに義経に操立をして荒れ果てている衣川は侘びしく、鎌倉になびいた歴史の浮き沈みは儚い」といったような『平泉歌』を読んでいます。
これは、鎌倉を江戸幕府になぞらえた歌とも考えられ、鎌倉の浮き沈みがそのまま徳川家の浮き沈みに重ねたとするのなら、反鎌倉の象徴である義経最後の地を訪れた三樹三郎の決意が感じられる行為でもあります。
そして平泉歌を読んだ12年後に安政の大獄でその命を落とすのです。


さて、義経の悲しい運命と非業の死は多くの人の涙を誘い、実は義経は生きていて大陸に渡りジンギスカンになったという伝説まで残したほどでした。
ジンギスカンになるならないはまた機会があれば書くとして、義経が生きて逃げ出し北に逃れたという義経北行説にはどこまで真実味があるのでしょうか?
北行説は「英雄不死伝説」の日本で最初の例で、以降は真田幸村や平賀源内、西郷隆盛など頻繁に使用されるようになります。
つまり義経北行説は元々は義経不死説の一つだったのです。
そもそも『義経北行説』がなぜ議論されるのか? という所から始めると一番に首が挙げられるのです。
義経が衣川で首を切られてから鎌倉で首実験が行われるまでに43日を要しています(すぐ後に頼朝は鎌倉~白河間を10日で行軍している)。
季節は夏、戦火で焼け爛れた首なのだから、たとえどんなに保存をしても首が原型をとどめているとは思えないですよね、しかもその首は首実検の後に海岸に捨てられます。
日本人は死体を恐れる民族でそれが非業の死を遂げた人物なら特に丁寧に祭ってきたのに、義経の首は捨てられた…これはこの首が偽物だった疑いをかける大きな要因となりますよね?
それに義経は衣川襲撃を事前に知っていた形跡があり、この辺りの事情から、「義経は藤原泰衡の攻撃を逃れ逃亡したために泰衡はあわてて偽首を仕立てて鎌倉に送ったが、頼朝は既に偽首である事を知っていた。しかし、奥州征伐の大義名分の為にその首を義経の首と認めさせた」と言う説が登場するのです。
この話は多くの人々の興味を惹き、色々議論されましたが、作家の高橋克彦さんがそんな義経伝説を地図上で記録していくと、北海道までは論理的におかしくない行程で進んでいったという事実がはっきりと浮かび上がってきたそうです。
これは普通の生存伝説にはありえない事なのです。
逆説的に考えるなら、歴史的に死んだ筈の義経が北に逃げたという事実があったからこそ、英雄不死伝説が生まれたのかも知れませんね。
そんな、資料を漁るだけのお話だった筈の義経北行説だったのですが、ある日友達からのメールにこんな文章が書いてありました。
「自分の先祖は鎌倉名門の御家人(鎌倉初期の豪族・三浦氏)の一族で、牛若丸を幼少の頃から知っていたために大人になった牛若丸(義経の事)討伐に出た。そして青森で義経を捕まえたけど彼の濡れ衣を知っていたから身代わりを立てて義経を逃がし、自分も逃亡して青森の近くで隠遁生活をした」
その友達は歴史には詳しくなく牛若丸と義経が同じ人である事も知らなくて、この話も先祖の三浦氏の話のついでに出てきた事だったんです。
でも、このメールを読んだ時は震えました…
当人が知らない所で、歴史家が知り得ない情報が出てきたのですから、ただ口伝なので証拠能力はありませんがね。
でも、驚きですよね。
さて、では義経が生きていたとしてその後どうなったのでしょうか?
勿論成文化された公式文書が有るはずがないのですが、こういう時に案外役に立つのが神社の社史なんです。社史は全てを鵜呑みに信じる訳にはいきませんが、その成立の仮定にたくさんの史実を含んでいるもので、近辺の社史を集め時代分けをする事で一つの新しい史実が浮かび上がる事もあるのです。
そうして調べると義経は衣川から宮古(ここに義経の家臣鈴木重家の墓がある)に移動、そして八戸から津軽半島を北上して三厩(ここで義経が三頭の馬を残して行ったのが地名の由来らしい)から海を渡り日高にたどり着きその地で一生を終えたらしいのです。
皆さんは義経北行説、どう思いますか?
そんな歴史ロマンを呼び起こす衣川には多くの著名人も訪れました。
その一人が松尾芭蕉であり『夏草や 兵どもが 夢のあと』の句を読んでいます。
この句には「国破れて山河あり」に似たような響きと共に、そんな地が夏草に覆われた物悲しさも著しています。
芭蕉に遅れること150年ほどで今度は頼三樹三郎もこの地を訪れました。

三樹三郎の父の頼山陽の『日本外史』には
「四月晦。泰衡遣兵襲衣川。弁慶経春等奮戦死。義経手刄妻子而自殺。」

と書かれています。
衣川を訪れた三樹三郎は、「600年経てば藤原四代の栄華は一睡の夢である。義経と頼朝の間柄、そして衣川と鎌倉の佇まいを比べると、いまだに義経に操立をして荒れ果てている衣川は侘びしく、鎌倉になびいた歴史の浮き沈みは儚い」といったような『平泉歌』を読んでいます。
これは、鎌倉を江戸幕府になぞらえた歌とも考えられ、鎌倉の浮き沈みがそのまま徳川家の浮き沈みに重ねたとするのなら、反鎌倉の象徴である義経最後の地を訪れた三樹三郎の決意が感じられる行為でもあります。
そして平泉歌を読んだ12年後に安政の大獄でその命を落とすのです。