彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

相良城跡訪問

2016年04月30日 | 史跡
個人的な話ですが、管理人が日本史上で一番好きな人物は田沼意知です。
高校の教科書にも載っている人物(今は?)なのですが、大概の方は「誰?」という反応をされるか、父親の田沼意次と勘違いされてしまいますが、その意次の居城となっていたのが相良城です。


相良の地にはもともと相良氏が住んでいましたが、徳川家康が関東に入った後に家康の鷹狩りの場となり相良陣屋が作られ、相良藩が立藩しますが石高の低い陣屋大名が続きました。
その相良藩の藩主に田沼意次が着任します。
意次は、十代将軍徳川家治の信任を得て老中にまで出世した人物ですので、相良藩の石高もどんどん上がって行ったのです。そしてついに石高にふさわしい城を築城することとなったのでした。それが相良城です。

三重櫓の天守を持つ城の築城には11年を要したとされていて、近代城郭として申し分のない城でした。
しかし、田沼意次が失脚した後、幕府に公収された相良城は、徹底的に破城されてしまうのです。
本来ならば幕府の財産となる城を破城するという行為には疑問すら感じますが、それほどに田沼意次が嫌われていた証拠かもしれません。

そんな相良城は、今は牧之原市の公共施設や学校に一部の土塁など限られた遺構が見れるのみです。









城跡である学校の中にこんなモニュメントもありました。



・所在地 静岡県牧之原市
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十九首塚

2016年04月23日 | 史跡
掛川市の掛川城の城下町には、平将門とその家臣の十九人の首を埋めたとされている十九首塚があります。

平将門の乱で首を討ち取った藤原秀郷は、十九の首を持って都に凱旋する途中、この地で都からの勅使に出会いその場で首を洗って首実検を行ったのです。
勅使はそのまま首を捨てるように命じたのですが、秀郷はこれを憐れんで丁寧に葬ったとのことでした。
それが天慶3年(939)8月15日の出来事だったので、今でも8月15日にここでは例祭が行われているそうです。




しかし、この地は井伊直親が暗殺された地であるとの話も残っています。
松平元康(徳川家康)に内通していると疑われた井伊直親は、今川氏真に駿府まで呼び出されます。
その道中で、氏真の命を受けた掛川城主・朝比奈泰朝によってこの地で襲われ斬首されたのです。永禄5年(1562)12月14日のことでした。

私見としては、江戸時代に入り直親の孫の井伊直勝とその子の直好が掛川藩主として掛川を治めたときに直親が殺害された地を霊域として守るため、当時の怨霊の代表であった将門伝説を流布してうかつに手を付けられないようにしたのではないでしょうか?
掛川は井伊家にとってあまりよくない地であるようで、直親暗殺以外にも、直勝系井伊家の井伊直朝が改易となった地でもあるのです。


・所在地 静岡県掛川市十九首
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横地城跡と横地太郎の墓

2016年04月21日 | 史跡
遠江東部で大きな持っていたのは横地氏でした。
その横地氏の拠点が菊川市の横地城です。







城の入り口まで行ったのですが、案内板を見てその広大さにびっくり…

他に予定が入っていたので、全体を俯瞰するだけで戻ることになりました。

横地氏は、戦国時代になり駿河今川氏と対立します。
そのために、勝間田氏と共に今川義忠に攻められ、勝間田・横地両城は落城して両氏は滅びたのです。


横地一族の墓は横地城跡の城山の麓にあります。







横地家は、八幡太郎源義家から分かれた一族であるとの家伝も残っていて、井伊家、勝間田家と共に遠江武士として『保元物語』や『吾妻鏡』に並んで登場します。

横地氏はこの城を失ったあと、江戸時代に旗本や彦根藩士として家が残ったのです。


・所在地 静岡県菊川市
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塩買坂古戦場

2016年04月19日 | 史跡
今川義忠の墓が菊川市高橋の正林寺にあります。


文明8年(1476)、遠江守護の座を狙う今川義忠は遠江に出陣し勝間田城と横地城を攻略しました。
横地城落城は夜のことだったのですが、なぜか義忠はその場に留まらず、南東に向かって軍を進めたのです。
軍を戻すなら東に進むはずですし、遠江に深入りするなら西なので南東に進んだ理由も夜に軍を動かした理由もわかりませんが、途中の塩買坂で横地家の残党に襲われ矢を受けて朝になり亡くなったのでした。


義忠の正室は伊勢宗瑞(北条早雲)の妹で、幼い後継は宗瑞の後ろ盾を得て当主となります(今川氏親)。
その氏親が父親の討たれた地に寺と墓を建立したのです。









・所在地 静岡県菊川市
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井伊直虎の御位牌公開

2016年04月17日 | イベント
井伊直虎が晩年を過ごしたと言われている妙雲院で2016年の初めに発見された直虎と南渓和尚の御位牌が浜松市北区引佐町の妙雲院で一般公開されました。

・井伊直虎

・南渓和尚


妙雲院は過去に火事に見舞われたことがあり、その時に以前建っていた場所から現在の地に移築されたそうです。
御位牌は本尊の奥の普段は開かない場所に歴代の住職の位牌と一緒に安置されていて、同じ場所から安土桃山時代の仏像も発見されています。

火事の時に持ち出されて、大切に保管されていたために檀家さんからも存在が伝わっていなかった位牌とのことで、突然の発見に驚いているとのことでした。
御位牌は、土曜と日曜に妙雲院で2017年の大河ドラマが終わるくらいまでは公開してくださると、地元の新聞に紹介されていました。

・妙雲院で拝見した直虎像



・所在地 静岡県浜松市北区引佐町
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新野左馬助公献茶式

2016年04月16日 | イベント
御前崎市新野で行われた新野左馬助公献茶式に参加してきました。

今年で29回目を迎えるイベントとのことで、地域の方々が新野左馬助を祀った新野左馬武神社の前で神事を行われます。




昔ながらの手揉みで初収穫のお茶を奉納されました。

そして参加者にも振舞って下さいました。

新野左馬助公顕彰会の方々や、県議、市議、教育関係の方、自治会の役員さん、茶業の方などの地元の皆さんや、龍潭寺の関連の方々などが集まっておられる地元の熱意を感じるイベントでした。
お土産にお茶とお饅頭をいただきました。



新野左馬武神社は幕末に長野主膳の調査によって発見された新野氏の墓石を祀るお社です。










お社の後ろの洞穴から墓石が発見されたそうで、昔から触ると祟りがあると伝わっていたのだとか…


茶畑を見下ろす小高い所にあります。




今回の献茶式に際して肖像画もできたそうで、一般に披露されました。凛々しいですね。




井伊直虎の伯父(直虎の母の兄)にあたり、命の危機にあった直政を救い、今川氏真の命で井伊家のために引馬城の飯尾連龍と戦って東海道沿いの安間橋で討ち死にしたと伝わっている人物です。
・現在の安間橋

大河ドラマ『おんな城主 直虎』でどのように描かれるか楽しみでもありますね。


・所在地 静岡県御前崎市新野
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ひこにゃん10歳

2016年04月13日 | 何の日?
2016年4月13日で彦根市のゆるきゃらである、ひこにゃんが10歳の誕生日を迎えました。

残念ながら平日のため、管理人はお祝いに行けず昔のひこにゃんの写真をアップします。

ひこにゃん誕生の翌年には『国宝彦根城築城400年祭』で大活躍し、その可愛さからゆるキャラの代名詞ともなったひこにゃん。
先日紹介しました地域通貨のデザインなど、彦根市内の多くの場所で活躍してくれています。

今後の活躍にも期待します。
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地域通貨「彦」交付

2016年04月10日 | その他
今年も、地域通貨「彦」が交付されました。

美しい彦根創造事業で、年間最大で1300彦交付されます。
500彦でエコバックと交換できます。
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井伊家千年の歴史(6)

2016年04月10日 | ふることふみ(DADAjournal)
 鎌倉時代前期『吾妻鏡』の記載で近江に井伊直綱という人物が佐々木庄に居たこと、承久の乱(もしくは三日平氏の乱)で幕府に逆らった貫名重忠という井伊家に連なる武将が居てその息子が日蓮上人であることなど多面的な井伊家の姿が歴史の断片に見えるようになってきた。
 日吉社宮仕法師刃傷事件から4年後の建久6年(1195)、『吾妻鏡』は源頼朝が奈良東大寺供養のために各地の武士を供に連れたことを記している。2月14日に鎌倉を出発した頼朝一家と250騎を超える供奉人の武士の一行は、3月4日に江州鏡駅を発ち瀬田の唐橋を渡り上洛した。
 この鏡は源義経元服の地であり、峠を越えると平宗盛が斬首された平家終焉の地である。そのような地で夜を過ごした頼朝が何を考えたのか? 歴史に語られない想像をしてみたくなるがそれは別の話である。ただこの四年後に亡くなる頼朝が、晩年に義経や平家一門などの亡霊に夜な夜な悩まされたという伝承はこの地に眠る霊を起こしてしまったのではないかとも勘ぐってしまう。
 鏡から都を経て一行は10日に奈良東南院に入る。この行列の真ん中辺りで三騎ずつ並んだ御随兵の中に伊井介・横地太郎・勝田玄番助の『保元物語』で遠江武士として紹介された三家が記されているのだ(伊井と井伊は同じと考えて問題はない)。
 この後、井伊家の名前は寛元3年(1245)正月9日の鶴岡八幡宮で行われた御弓始の儀で三番目に弓を引いた人物として井伊介が登場している。
 東大寺供養の頃の井伊家当主は7代良直(もしくは8代彌直)、御弓始の儀の時は9代泰直(もしくは10代行直)とも考えられているがこれを一致させる資料は他に見つかっていない。
 さて、鎌倉時代の井伊家について最後に「井伊介」について紹介したい。「介」という一文字には身分が表現されている。律令制の中で国を治める身分は、上から守(頭)・介(助)・掾(丞や尉)・目と段階があり、これは四等官と呼ばれていた。例えば近江国ならば現在の県知事にあたる近江守、副知事にあたる近江介、以下近江掾、近江目となる。ただここで難しいのは当時の守は公家や幕府官僚が任官されることが多く、任地ではそれぞれの地方の有力者が介として実質的な支配体制を確立した。これは遠江でも同じであった。井伊家が遠江介を世襲した家であり、これが「井伊介」と称される所以になった可能性が高い。江戸時代になり伊勢貞丈が『貞丈雑記』という有識故実書を著しその中で「八介」について説明している。八介とは秋田城介・三浦介・大内介・井伊介など八家のことで侍の面目とする官也と書かれている。鎌倉時代の終わり頃に日本の八名家のひとつに井伊家が入っていたと考えられるのだ。

鏡の宿。本陣の隣、義経宿泊地
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