今年も8月26日に井伊直虎命日法要が井伊谷龍潭寺で行われました。
政府からの宣言はなくてもコロナ禍ですので縮小された法要が続いていて、昨年と同じく御霊屋での法要となりました。
暑いなかでしたが、今年も大切な気持ちを示せたと思っています。
個人的なことですが今年も直虎命日法要に合わせて小野但馬守供養塔にも手を合わせました。
井伊谷宮で厄割をするのも恒例になってきましたが、今回は割れるまでに三度も投げました…
もちろん、初代共保公出生の井戸も言ってますよ。
今年も8月26日に井伊直虎命日法要が井伊谷龍潭寺で行われました。
政府からの宣言はなくてもコロナ禍ですので縮小された法要が続いていて、昨年と同じく御霊屋での法要となりました。
個人的なことですが今年も直虎命日法要に合わせて小野但馬守供養塔にも手を合わせました。
もちろん、初代共保公出生の井戸も言ってますよ。
4月1日に、掃部山公園に建つ井伊直弼公の銅像を見てきました。
明治時代に彦根藩士が山を購入し井伊家所有となり明治42年(1909)、横浜開港50年の記念に直弼像が建立されました。
この縁でここは直弼公の官職である「掃部守」に由来する「掃部山」と呼ばれるようになりましたが、訪問時に道に迷って交番で聞いたときは「紅葉山」とおっしゃっておられました。
井伊直弼像に関しては、直弼公が違勅調印を行った(後に氷解)ことや安政の大獄で尊王の志士を罰したことから朝敵とされるイメージを払拭するため武家でありながら公家の衣装である束帯姿で造られる不文律があると言われています。
それでも、昭和18年には金属回収指示により解体され政府に回収されます。
昭和29年(1954)に、開国100年を記念して再建されて現代に至っているのです。
直弼公像は、海を向いていますが、現在は海との間に高いビルが建っています。
これが、直弼公の開国による発展の結果だと考えるならば、直弼公に開国後の報告を行い見守って貰っていると考えても良いかもしれません。
焼津市中里には、彦根藩二代藩主井伊直孝の産湯の井があります。
直孝の出生でよく知られている話は、直政の正室唐梅院(花)の侍女だった印具徳右衛門の娘養賢院(阿古)に直政が手を付けてしまい、阿古は怒った花に追い出されて在野で直孝を産んだというものです。
もちろん、花が実家を頼ったと考えるのが普通ですが、印具氏は相模国内に地縁があるため、焼津市のある駿河国との縁が濃いとは思えず実際にはどうだったのかはまだわかりません。
ただし中里が井伊直孝と無縁だった訳ではなく、寛永6年(1529)に産湯の西にある若宮八幡宮を直孝が再建していることからも直孝と中里に深い繋がりがあったことは注目すべき点だと感じています。