彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『北斎ー富士を超えてー』

2017年10月29日 | イベント
台風22号が関西に接近しているなかでが、他に行ける日がないかもしれないので大阪まで行ってきました。
目的は、あべのハルカスで行われている『北斎ー富士を超えてー』を観に行くためです。

…とは言っても管理人自身は、フェルメール作品が好きと公言しているように光と陰を表現した作品が好きなので、興味あるのは葛飾北斎よりも娘の葛飾応為の作品でした(ただし、応為の作品はレンブラントに重ねられていてフェルメールとは印象が違いますが…)。

少し早く大阪に着いたので、まずは大阪城を見てみようと思い行ったのですが凄い雨であまりウロウロする気持ちにもなれず…
なんだか、ドリカムのトラックが停まっていたのですがどうも夜に城ホールでドリカムのイベントがあったみたいですね。


そして、あべのハルカスへ…
当日券は20分待ち、会場まで1時間待ち…
台風の中でも、人、人、人。

会場に入っても作品より人を観て、人に酔いそうでしたから全てを観るよりも観たい作品と空いている作品を狙って観る方法にしました。
有名な富士に絡む『富嶽三十六景』や『諸国滝廻』そして肉筆画は混んでいても観ました。
この辺りは、展示会場前半の山場になりそうな展示でしたが、後半には期待していた応為の作品も並んでいました。
残念ながら一番観たかった「吉原格子先之図」は後半しか展示されないので観れませんでしたが、応為が描く美女や、関羽も観ることができました。
応為の作品の前はあまり混んでいなかったのでゆっくり鑑賞もできました。



人には酔いますが、行っていい内容でした。

ついでにあべのハルカスの展望階へ
登るだけで1,500円は高い…と思い躊躇ったのですが、「この天気なので白くて展望はあまり望めませんよ」とスタッフさんに言われたので、逆にレア感があり見に行きました(笑)

だって、基本的に高い所怖いもん…
でも、上から見る茶臼山(大坂の陣で、徳川家康や真田信繁が陣を張った場所)

また、北斎展に合わせた物が貼ってもいました。




雨の風景
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井伊家千年の歴史(21)

2017年10月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 1つの家を1年のドラマにするとき、それまでは知られることもなかった人物が登場し活躍することがある。井伊直政の姉である高瀬姫もその1人ではないだろうか?
 「直政に姉がいたことなんて知らなかった」と、彦根の中でもよく耳にする。また「高瀬が架空の人物ではないか?」との質問もよく受けたが、高瀬は正真正銘直政の姉である。しかし、高瀬の生涯はその誕生から謎に包まれている。
 彦根に伝えられた話では高瀬は直政の二歳年上の姉とされているが、高瀬と直政の父直親は信州亡命から井伊谷に帰国した後に奥山朝利の娘を正室に迎え、5年間後継ぎに恵まれなかった為、龍潭寺で祈願した世継観音のご利益で子どもを授かったとの話がある。つまり最低でも直親夫妻に五年間は子どもがいなかったことになり、そこから高瀬は直親が信州で産ませた子どもとも考えられており、直政よりも6歳以上年上との説もある。または直親が井伊谷に帰ってきてから正室以外の女性に子どもを産ませたと考えても良いのだが、果たして真実はどこにあるのだろうか? 本稿では彦根藩の記録である二歳年上説でこの先の話を進める。余談ではあるが、今年になり世継観音の厨子から天正3年に井伊次郎法師が世継観音を大藤寺の本尊にした記録が出てきた。今まで「井伊次郎直虎」と「次郎法師」の名前は出ていたが、井伊家と次郎法師を直接繋ぐ物が『井伊家傳記』であったために「井伊次郎法師」という名が出てきたことの意味は大きい。
 さて高瀬の話に戻ると、直虎生存中の人生はよくわからない。直虎死後、直政が元服し井伊家当主となると家臣団の団結も重要になってきた。新野家の娘を木俣守勝に嫁がせるなど、井伊家と主要家臣を政略結婚で結ぶ一つとして高瀬も川手(河手)主水良則に嫁いだ。このとき高瀬は当時としては晩婚となる24歳であり良則も51歳、すでに前妻との間に息子も居た。実情もわからないが良則は直政の居城で留守居を任される存在となる。
 彦根城築城後、川手家は現在の玄宮園辺りに屋敷を構えていたが、良則の跡を継いだ良利は大坂夏の陣において討死。良則と高瀬の間に誕生した娘に婿を迎えて家の存続を図るも若くして亡くなってしまい川手家は三代で家が滅びたのだった。
 高瀬は川手家が断絶した後も長寿を保ち、寛永11年(1634)に亡くなった。享年76歳。江戸後期に記された『近江古説』では高瀬(ここでは馬瀬姫になっている)を京鳥辺野に葬ったと記されているがその埋葬地はわかっていない。供養墓は佐和町長純寺に五輪塔が残っている。
 川手主水は現在の南川瀬町にも屋敷があり、その地に墓所も残っている。またその家名は新野家や貫名家と同じく江戸後期に再興されている。

高瀬姫供養塔
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彦根城のご朱印

2017年10月09日 | 彦根城
彦根城のご朱印が10月9日より新しくなったとの噂を聞いてさっそく貰いにいきました。

よい感じになってますね。
今年の410年祭を記念して作られたご朱印なのですが、以前のものはA5サイズで、ご朱印帳に貼ることができない大きさでした。
・通常サイズのご朱印帳との比較

悪く言えば、「大きければいい」や「多ければいい」と安直に考えてしまう過去の彦根の失敗事例と同じ道を進んでいるようなものでした。

でも、今回は大きさも見直されました。
そして井伊の赤備えを意識したような赤い紙が採用されています。
・こちらもご朱印帳との比較。

・二枚を並べてみた。

前回は無料でしたが、今回は300円となりますが、ご朱印のほとんどは同じ値段ですので値段は問題ないですし、いいのではないでしょうかね。

このご朱印は、表門から博物館に入るところの券場所と同じ並びにある管理事務所で入手できます。


関連地 彦根市 彦根城
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150年前:大政奉還の建白書(10月3日)

2017年10月03日 | 何の日?
慶応3年(1867)10月3日、後藤象二郎が幕府に大政奉還の建白書を提出しました。

幕末も押し迫った頃、江戸幕府は大きな選択に迫られていました。薩長と戦うか戦わないかです。
よく誤解されがちなのですが、この時の江戸幕府は薩長より弱かったという事実はありません。むしろ世界で最先端の椎の実型砲弾を実戦的に作れる理論が確定されていたので、実は火器に限定すれば世界最強の武装集団でした。
しかも、黒船来航から14年が経過していたために、ひ弱な幕臣ではなく戦うことを念頭に置いた武士としての幕臣も若い世代から登場してきていたので、白兵戦においても日本でトップクラスのレベルを持っていたのです。
もし、幕府が本気で結束して戦ったなら、長州征伐で敗北してもその後の敗北は無かったと考えられます。

しかし、この本気の結束を行えない大きな理由が一番の責任者である将軍徳川慶喜でした。周囲の期待に押される形で将軍に就任しましたが、その期待に多くの人々が裏切られます。慶喜は朝廷との戦いから逃げることだけを考えていたのです。
そんな慶喜に対して大名や幕臣たちの心は離れます。その隙に付け入るように、薩長は討幕の旗を挙げたのです。

そんな高まる討幕熱に対して、出遅れた感があったのが土佐藩でした。
文久年間は、武市半平太の土佐勤皇党が京都で活躍していたこともあり、世情の最先端を進んでいたのですが、武市らを切腹させたことによって、土佐藩は藩としての活動は停止し、脱藩した志士たちが多く犠牲になっていたのです。
土佐藩が、また世情の注目を浴びる窮余の策を思案した時に浮上したのが大政奉還でした。

一説には坂本龍馬が後藤象二郎に献策し、後藤が山内容堂を説き、幕府に提出したとされていますが、現在はここに坂本龍馬が関わることに疑問を投げかける人も多くいます。歴史的にわかっていることは、後藤が容堂に献策し、容堂が幕府に持ちかけたということです。


徳川慶喜は、この策を受け入れ、10月14日の二条城での大政奉還の宣言に繋がるのです。
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