元亀元年(1570)6月28日、姉川の戦いが行われました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/0a/54884bab4ff76c0f9dcf7711ca4bc964.jpg)
織田信長は、妹・お市を嫁がせて義弟として信頼していた浅井長政に裏切られ(中井均先生はこれを、長政の武将としての当たり前の決断とされています)、その報復として浅井攻めを敢行します。
長政は、同盟している朝倉義景に頼り、これを迎え撃ったのです。
信長も同盟している徳川家康と連合軍を組みました。
この戦いについては明確に記録された資料が少なく、今までの定説は推測の域を出ることはありません。
定説によると、姉川を挟んで対峙した両連合軍。
信長軍に攻め込んだのは長政軍の先鋒・磯野員昌(でも、この時に佐和山城に籠っていたという話もあります)で、彼は信長が構えた13段備えの11段までを切り崩したと言われています。
ここで混乱した信長軍に対し、家康軍が義景軍と戦い、これに勝利。
そのまま長政軍に突入した事から形勢が逆転して、織田・徳川連合軍が勝利したというモノです。
戦の後半、信長のすぐ近くまで寄り、もう少しで信長を討てるという前に織田軍の竹中半兵衛の弟・重矩に見つかって殺された遠藤直経の墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/2c/0632ce286df3319f98a8629258a17984.jpg)
など周辺には数多くの遺跡が残っています。
≪朝倉軍が陣を置いたといわれている三田村氏館≫
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/b7/0fccf23f99fcac7366638d1af37032a4.jpg)
近年、『センゴク』と言うマンガでこの説を覆す新たな説が発表されました。
マンガと言う事で今回も学界には無視されるでしょうが(司馬史観も無視するくらいなので…)、結構納得する説ですので読まれる事をお勧めしますよ。
余談ですが、やはり同じ近江地域の合戦ですので、彦根周辺のお話を少し書きます。
まずは、信長の構えを破った先鋒の中で特に活躍したのが八町城(豊郷町)城主・赤田姓(あかた・かばは)です。赤田は織田軍の首を194級取ったそうです。
また茂賀山城(彦根市)城主・小林宗正は藤堂高虎と共に信長の本陣近くまで攻め入ったといわれてます。宗正の息子が正国と正敏が父の勇猛さから信長に召抱えられ本能寺で信長と共に亡くなります。この正国の子が関ヶ原の戦い後に島津義弘を高宮まで道案内しています。
余談ですが、姉川の戦いという呼び方は、徳川家で使われた呼び方です。
織田家や浅井家では“野村合戦”、朝倉家では“三田村合戦”と呼ばれたのですが、3家が滅び江戸時代になってから、家康の功績を大きく伝えるために、徳川家康が活躍した“姉川”をメインにする呼び名に統一されました。
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織田信長は、妹・お市を嫁がせて義弟として信頼していた浅井長政に裏切られ(中井均先生はこれを、長政の武将としての当たり前の決断とされています)、その報復として浅井攻めを敢行します。
長政は、同盟している朝倉義景に頼り、これを迎え撃ったのです。
信長も同盟している徳川家康と連合軍を組みました。
この戦いについては明確に記録された資料が少なく、今までの定説は推測の域を出ることはありません。
定説によると、姉川を挟んで対峙した両連合軍。
信長軍に攻め込んだのは長政軍の先鋒・磯野員昌(でも、この時に佐和山城に籠っていたという話もあります)で、彼は信長が構えた13段備えの11段までを切り崩したと言われています。
ここで混乱した信長軍に対し、家康軍が義景軍と戦い、これに勝利。
そのまま長政軍に突入した事から形勢が逆転して、織田・徳川連合軍が勝利したというモノです。
戦の後半、信長のすぐ近くまで寄り、もう少しで信長を討てるという前に織田軍の竹中半兵衛の弟・重矩に見つかって殺された遠藤直経の墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/2c/0632ce286df3319f98a8629258a17984.jpg)
など周辺には数多くの遺跡が残っています。
≪朝倉軍が陣を置いたといわれている三田村氏館≫
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/b7/0fccf23f99fcac7366638d1af37032a4.jpg)
近年、『センゴク』と言うマンガでこの説を覆す新たな説が発表されました。
マンガと言う事で今回も学界には無視されるでしょうが(司馬史観も無視するくらいなので…)、結構納得する説ですので読まれる事をお勧めしますよ。
余談ですが、やはり同じ近江地域の合戦ですので、彦根周辺のお話を少し書きます。
まずは、信長の構えを破った先鋒の中で特に活躍したのが八町城(豊郷町)城主・赤田姓(あかた・かばは)です。赤田は織田軍の首を194級取ったそうです。
また茂賀山城(彦根市)城主・小林宗正は藤堂高虎と共に信長の本陣近くまで攻め入ったといわれてます。宗正の息子が正国と正敏が父の勇猛さから信長に召抱えられ本能寺で信長と共に亡くなります。この正国の子が関ヶ原の戦い後に島津義弘を高宮まで道案内しています。
余談ですが、姉川の戦いという呼び方は、徳川家で使われた呼び方です。
織田家や浅井家では“野村合戦”、朝倉家では“三田村合戦”と呼ばれたのですが、3家が滅び江戸時代になってから、家康の功績を大きく伝えるために、徳川家康が活躍した“姉川”をメインにする呼び名に統一されました。