彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

9月15日、関ヶ原の戦い

2006年09月15日 | 何の日?
9月15日は、関ケ原の戦いの日です。今から400年以上前に起こった歴史の転換事件。
そこで、今回は歴史を知らない人でも名前くらいは聞いた事があると言われるくらい有名なこの戦いのお話をしてみましょう。
とは言っても、両軍合わせて20万人近くが直接参加した一大事件を普通に書くだけでも小説1冊くらい必要になりますので、彦根に関わりのある人物を含みながら簡単に纏めていくことにします。

実際に戦いが起こる2年前、日本史史上最も出世した男・豊臣秀吉が幼い息子・秀頼を残してこの世を去りました。
この時、秀吉は秀頼の将来を心配して、有力な大名を五大老、有能な官吏を五奉行に任命し、それぞれを監視させながら安定した政治を行なう制度を確立したのでした。
この中で、特に重要な地位に居たのが、五大老筆頭の徳川家康と、次席の前田利家。
家康は、秀吉の君主にあたる織田信長が生きている時から大名として信長と対等に付き合える立場にあり、秀吉ともある程度対等な立場を保っていて、もし豊臣家を滅ぼしても誰からも文句は言われない状況と、天下を取る野心を持って居ました。
前田利家は、秀吉と共に信長の下で働いていた同僚であり、住んでいる所が隣同士でもあった親友で、同じ日に祝言を挙げたという伝説まで残っています。
利家が生きている時は、家康も一人の政治家として力を尽しましたが、秀吉の死の約半年後に前田利家も病で亡くなってしまうのです。
利家が亡くなった日の夜、当時の政治の中心地・大坂では一つの事件が起きます。

石田三成襲撃事件
豊臣家の武断派7名が軍を引き連れて三成の屋敷を包囲したのです。
この時、三成は五奉行次席の地位にいて、豊臣家を守ろうとする前田利家に協力していましたが、政治家として有能な分、政治に必要ない人物を斬り捨てる傾向があり武断派には嫌われていたのです、三成襲撃事件はそんな武断派武将を徳川家康がそそのかして起きたものでした。
この情報を掴んだ三成は、なんと家康の屋敷に逃げ込んで保護を求めました。
この結果、武断派の襲撃は収まりますが、三成は失脚して居城・佐和山城に引き篭もる事になったのです。

三成が失脚した後の家康は、豊臣家を無視した専横が目に付くようになりますが、誰もそれに逆らう事が出来なくなっていたのでした。
ですが、家康に逆らいもせず従いもしなかった大名がいました。
家康と同じ五大老で米沢に領地を持っている上杉景勝で、家康は何度も米沢から大坂に出向くように命令しますが、それに従わなかった為に殆んどの大名を従えて上杉討伐の為に米沢に向かったのです。
これは、大坂を空にする事で石田三成が反乱を起こしやすくするためのデモンストレーションだったと言われています、そして三成はそうと知りながら兵を挙げました。

余談ですが、関ケ原の戦いでの西軍(石田三成軍)の大将は石田三成だと思われていますが、実はこれは間違いです。
西軍の大将は五大老の一人で中国地方全土を支配する毛利輝元で、副将は同じく五大老の一人で秀吉の養子でもあった宇喜多秀家だったのです、関ケ原の戦い当日には毛利輝元は大坂城に居たので直接参戦していませんが、毛利軍は参加しています。

もう一つ余談をするならば、三成挙兵の報告を最初に家康に届けたのは山内一豊の妻・千代でした、そう、大河ドラマ『功名ヶ辻』の主人公のあの人です。
この報告と一緒に千代が一豊に送った指示が山内家を土佐一国の大大名にのし上げる切っ掛けとなり『黄金十枚の馬』と並んで千代の“内助の功”の逸話になるのですが、それに静々と従った一豊の姿を想像すると“内助”と言うより“かかあ天下”ぶりが目に浮びますよね。

さて話を戻して、米沢の寸前まで到着していた家康は、まずは豊臣家に仕えている武断派に三成を憎む気持ちを大きくさせて味方につけ大坂へ向かわせました、そして自分は江戸城に入って準備を整えたのでした。
この時、家康の三男・秀忠に徳川家譜代の家臣を与えて別働隊として中山道から大坂に向かわせています、秀忠に従った家臣に家康の軍師・本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政が居た事からこの軍が徳川本隊とする考え方もあります。
そして家康が江戸城に滞在する間に三成は大垣城を支配下に置いて軍事拠点とします。
こうして、両軍の戦いが大垣近辺で行なわれる状況が出来上がったのでした。

関ヶ原の戦いは「天下分け目の戦い」とも呼ばれていますが、この時点より900年以上前にも「天下分け目の戦い」が行なわれました、それが壬申の乱です。今でも地図を見ると分りますが、この狭い地域に名神や国道・東海道新幹線などなど滋賀県から岐阜県に向かう交通網の全てが集まっていて、それは同時に西と東の区切りの地点となっています。この段階で、関ヶ原は戦いの舞台として当然の場所だったのです。
戦いの前日9月14日に徳川家康がやっと大垣に到着。大垣城に居る石田三成を無視して大坂へ攻め上るという噂を流します、慌てた三成は夜になって大垣城を側近・福原長尭に任せて関ヶ原に移動し陣を構えますが、一晩中動き回った為に兵は疲労しました。そして明け方になって家康も関ヶ原に移動し両軍の準備が整います。
こうして、両軍合わせて約20万人、今の彦根市民の倍に近い武者達が終結したのでした。

9月15日、朝の関ヶ原は霧が出ていたと伝わっています。
明治18年、陸軍大学の軍事教諭としてドイツから招かれたクレメンス・メッケル少佐は関ヶ原の戦いの布陣図を見て「西軍が勝ち」と答えたという話が伝わっていますが、この時メッケル少佐には知らされていなかった情報が幾つかあります。
まずは、すぐ近くの大垣城では徳川家譜代の猛将・水野勝成が城攻めを行っていて、いつでも関ヶ原に軍を送れた事、そして西軍は秀忠が中山道をどこまで進んでいるか知らなかった事です。
つまり、西軍は「もっと敵軍が増えるかもしれない」という疑心暗鬼に襲われていたのです。
さて、当日に徳川軍から戦端を切るのは、家康に従っている豊臣家武断派武将・福島正則に決まっていました、しかし、家康の家臣・井伊直政は「重要な戦いの魁を他家の者にやらせるのは、徳川家臣団の恥」として、午前8時、家康の四男で直政の娘婿だった松平忠吉を連れて勝手に宇喜多秀家軍に対して鉄砲を撃ち込んで戦いを始めてしまいます、慌てた福島正則が井伊直政に続く形で突撃し戦いは一気に激戦となります。

井伊直政がこう言った勝手な行動に出たのは、この時点で秀忠軍が関ヶ原に到着しておらず、家康の主な家臣が井伊直政と本多忠勝しか居なかった為でした。
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭(からのかしら)に本多平八」という言葉がありますが、この唐の頭は旄牛(からうし)と呼ばれる、ヤクという動物の尻尾の毛で飾った兜の呼称で ヤクの尾毛自体は普通“シャクマ”と呼ばれていて、白・黒・赤があり、それぞれ白熊(はぐま)・黒熊(こぐま)・赤熊(しゃくぐま)と呼ばれた貴重品だったのですが、徳川軍に七人も所有者が居てその一人が直政だったそうです。
また本多平八は本多平八郎忠勝を略した言葉でした。
つまり、譜代の家臣は居ないものの、関ヶ原の徳川軍には「家康に過ぎたる者」の二人が揃っていたのです。ここで徳川軍が戦端を切らなければ後で他家の者に大きな顔をされる事を恐れたのでした。

戦況は、大方の予想を裏切って石田軍有利で進みます、石田三成の重臣・島左近が獅子奮迅の働きを見せたためで、戦いに生き残った徳川軍の将兵の中には「眠っている時に島左近の号令を思い出して何度も飛び起きた」と話す者が多く居たそうです。
そんな戦況をひっくり返したのが小早川秀秋の裏切りでした。この為、秀秋は今でも裏切り者の汚名受けていますし、今も便宜上「裏切り」という言葉を使いましたが、実は秀秋は三成からも家康からも「動かないで欲しい」との要請しか受けていなかったので、石田軍に攻め込んだのは自らの意思でした、この決断、本当は裏切りにはならないんですよ。

とにかく、秀秋の動きで戦況は一転し徳川軍は夕方までに勝利を治めます。
しかし、石田軍撤退後も関ヶ原に残る一軍があったのです。それは、鹿児島を治める島津義弘軍1600人でした。
この島津軍はとんでもない撤退戦を展開します、なんと1600人で10万人の徳川軍に正面突入したのです、逃げるために敵に向かって行った例は世界戦史史上でも他に類を見ません。
鉄砲を持つものは座り込んで撃てる限り討ち尽し、将は全て島津義弘を名乗って混乱させました、最後に生き残っていた島津軍は60人余りだったそうです。そしてこれを追った井伊直政は鉄砲をまともに受けてその傷が原因で1年半後に亡くなってしまいます。

島津軍の怒涛の撤退で徳川軍の勝利が決まります。家康は勝利が決まった後に初めて兜を身に付けて言いました「勝って兜の緒を締めよ」と。
こうして、関ヶ原の戦いは終わり、石田三成は捕まって処刑され、やがては豊臣家も滅ぼされて太平の江戸時代がやってくるのです。

関ヶ原の戦いの参加者達はこれが天下分け目の戦いになるとはこの時点で思っていなかった事でしょう。
戦いの前はあくまでも、豊臣家の家臣である徳川家康と石田三成の権力争いでしかなかったからです、つまりどちらが勝っても豊臣家の地位が揺らぐとは思わなかったのです。
だから、加藤清正や福島正則といった秀吉大好き武将も家康に味方したのでした。

しかし、家康はこの機会を100%利用して石田方の武将の領地を没収します、ここには豊臣家が家臣に預けていた土地も含まれていて、この結果、豊臣家は一大名に成り下がってしまったのです。

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13 コメント

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これは初耳 (芳順)
2006-09-20 08:48:28
>実は秀秋は三成からも家康からも「動かないで欲しい」との要請しか受けていなかったので、石田軍に攻め込んだのは自らの意思でした、この決断、本当は裏切りにはならないんですよ。



hikonejou400さん、はじめまして。

この話ははじめて耳(目)にしますが、もう少し詳しくお教えいただけませんか。

よろしくお願いします。



http://geocities.yahoo.co.jp/gl/houjun_ni







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関ヶ原の秀秋について (管理人)
2006-09-20 13:18:27
芳順さん、ようこそ。



小早川秀秋は、関ヶ原の戦いの前の伏見城攻めの時には、西軍の主力部隊として全軍を率いて石田三成に味方したほどでした。

しかし、三成は、秀秋と同じ様に秀吉の跡取りの座を争った事がある宇喜多秀家に総大将を任せたために、ここで

三成と秀秋の関係に亀裂が入ったのです。



そして大垣に向かう途中、秀秋は高宮(彦根市)で病と称して軍を止めました。

この時、三成は秀秋に文を送って「松尾山に陣を張って観ていてくれるだけでいい」と説得して秀秋に松尾山を任せます。



一方、徳川家康も増田長盛からの連絡で三成と秀秋の不仲を知って、秀秋に「そこから動かないで居てくれたら恩賞を約束する」と伝えたのです。



俗説では関ヶ原の戦いの時に、家康が松尾山に向けて鉄砲を放った事になっていますが、当時の鉄砲の射程距離は約50m、家康の本陣から松尾山の秀秋の陣までは狭く見積もっても200m以上はあったと考えられているので、もし家康が松尾山に向けて鉄砲を放っても届かないどころか、銃声自体聞こえたかどうか?

もし、聞こえたとしても、どこの鉄砲隊がどの方向に向かって撃ったかなんて混乱している戦場では判断できなかったんですよ。
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そうなんですか、しかし (芳順)
2006-09-20 14:25:21
ご説明ありがとうございます。

秀秋にはがむしゃらな面があるので、そうかなという思いもしますね。

しかし通説とは随分異なりますが、なんらかの史料をもとにした管理人さんの個人的見解なんでしょうか。

ブログに記述しても、根拠は?と突っ込まれるような気がして逡巡してしまいます。

新説なので、書きたくてうずうずしてますが・・・。
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根拠・・・ (管理人)
2006-09-20 15:20:00
鉄砲の射程距離に関する疑問は以前から歴史学者の間で取り沙汰されていた話ですから、新説という事ではないのですよ。



一部のドラマや小説などでは、この疑問に答えるために鉄砲頭・布施孫兵衛の一隊を松尾山に登らせて鉄砲を撃ちかけるシーンを演出しているものもありますが、戦場で態々鉄砲隊をそこまで登らせる時間的ロスを考えると無理がありますよね。





また、この説を説かれているのは藤原京さんの著書が詳しいかも、です(変な文法になってますね)
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Re:根拠・・・ (芳順)
2006-09-20 16:06:31
藤原京さんの著書ですか。一度調べてみたいと思います。

鉄砲のことは、武具研究家の藤本正行氏も再検討の必要があると書かれているようです。



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お願いします (管理人)
2006-09-21 10:43:25
以前からある疑問が重なると、もしかして・・・



と言う事はありますよね。



関ヶ原とは関係ありませんが、以前から織田信長が両性保有者だったのではないか?

と言う説があり、それを元に書かれた小説や、最近では『女信長』だったか、そんなタイトルの本も売られていました。



信長が両性保有かどうかは謎ですが、声質の高さや安土城の女性的な豪華さ、更年期障害にも似たヒステリーぶりに、女性ホルモンが多かったのではないかとは思えたりします。

こういうちょっとした意外さが面白いのが歴史かも知れませんね。
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「動かないでほしい」 (芳順)
2006-09-22 06:53:06
信長の史実を追っている人には、興味あるお話ですね。光秀、秀吉にもかかわりますからね。



藤原京さん、ある程度調べました。しかし著書のタイトルだけでは内容が見えないので、ちょっと一服です。

こちらのシリーズ、関が原までまだまだ時間がありますので、「動かないで」に関する話題を入手されましたらお願いしますね。

(今日、明日と忙しくてPC開けられませんが)
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了解です (管理人)
2006-09-22 16:29:34
こちらでも、資料を探して見ます。
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よろしくお願いします (芳順)
2006-09-23 06:27:41
出先でPCお貸りして書き込みしております。

それにしても、彦根城=佐和山城ですよね。

三成に肩入れする人ばかりって印象なのに

そうでもないのかなと思ったりしています。
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彦根城と佐和山城 (管理人)
2006-09-24 05:11:32
この二つの城は、位置が違うんですよ。



元々、佐和山にあった城の位置より西の方にある山に築城したのが彦根城です。

彦根城は築城が急がれた為に、近江国内の佐和山・安土・大津・長浜などの城の資材を使っているので、佐和山城から移築されたという伝承が残っている建物も彦根市内各所にありますよ。



ちなみに佐和山城址は徹底的に壊され、江戸時代は廃山となっていたそうです。
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