地域外からの友人を彦根に招いたとき、「彦根名物を食べさせて欲しい」と言われると私は大いに悩んでしまう。紹介できない名物がない訳ではないがそのほとんどは彦根藩領で収穫されたものを使った名物であり現在の彦根市域から考えると近隣地域の食材を使用した料理ではないだろうか?
私はこれを踏まえて「彦根城下は今でこそ情緒ある地方都市だが、江戸期は現在の名古屋のような大都市であったため、生産地ではなく消費都市だった。そのため彦根藩領内外から運ばれた材料を使って消費される形になっている」と話すことが多い。もちろん城下町から離れれば農業も行われているが、譜代大名筆頭である彦根藩が最初に求められる生産は米であったことも忘れてはならない。これを踏まえて彦根藩領の特産物を元禄期の『淡海録』(滋賀県地方史研究家連絡会 翻刻)から読むと「多賀牛房・佐和山松茸・彦根長曽根おくて餅米・ひこね京橋うなぎ・松原海老・磯山うづら・中藪芹・米原小豆・醒ヶ井餅・摺針峠餅・ほうづき村大根・浅妻はす魚・平田瓜・青山せんちゃ・太平寺そば・神田上々黒大豆・伊吹からみ大根(常ノ大根二非ズ蕪ノナリに似テ)・独活(ウド)・山葵・小谷山松茸・雨森納大豆」などが記されている。佐和山や小谷山といった古城址で松茸が収穫できたのが偶然なのか籠城に備えてアカマツを植えていたのか? と、新たな疑問も頭をよぎったがそれは機会があれば調べてみたい。ただこれらの自然の恵みが彦根城下の人々の食卓にのぼることもあったのだろう。また湖魚や鮒寿司、八坂鴨も彦根名物として挙げられる。しかし、ここに牛肉と小泉紅蕪や彦根りんごを加える程度で彦根名物は明治維新まであまり変わらない。
江戸後期から明治維新にかけて西国の外様大名が大きな活躍をする。その要因として潤沢な資金力があったことを忘れてはならない。教科書などでは外様大名らが謀反を起こさないように辺境地に転封させ幕命で普請などをさせたり参勤交代をさせたりして資金難に陥らせていたと言われてきた。ただし幕府が基準とした収穫量を表す石高は関ヶ原の戦いの頃から変わっていない。京都に近い地域での新田開発はほとんど終わっているが薩摩藩や長州藩などの辺境地域は未開発の地も残っていた。彦根藩など譜代大名の領国は藩政期の収穫に大差はないが地方には新田開発の余力はある。そして石高に似合った収穫さえ望めれば後の土地は何を作っても良いのである。米以外の風土に合わせた特産品の栽培が各藩で密かに推奨されると、食べ物が増え人口も増え、農作物以外の産業を行う余裕も生まれる。日本各地の伝統工業の殆どが江戸中期以降に発展し日本中に広がって行った。その資金が藩の経済を支えたのであった。その面では江戸初期から大きく石高が変わらず消費都市だった彦根藩を地方の大名が200年以上かけて追い抜いて行き、現在に繋がっているとも考えられるのだ。
彦根りんご(令和3年7月撮影)
私はこれを踏まえて「彦根城下は今でこそ情緒ある地方都市だが、江戸期は現在の名古屋のような大都市であったため、生産地ではなく消費都市だった。そのため彦根藩領内外から運ばれた材料を使って消費される形になっている」と話すことが多い。もちろん城下町から離れれば農業も行われているが、譜代大名筆頭である彦根藩が最初に求められる生産は米であったことも忘れてはならない。これを踏まえて彦根藩領の特産物を元禄期の『淡海録』(滋賀県地方史研究家連絡会 翻刻)から読むと「多賀牛房・佐和山松茸・彦根長曽根おくて餅米・ひこね京橋うなぎ・松原海老・磯山うづら・中藪芹・米原小豆・醒ヶ井餅・摺針峠餅・ほうづき村大根・浅妻はす魚・平田瓜・青山せんちゃ・太平寺そば・神田上々黒大豆・伊吹からみ大根(常ノ大根二非ズ蕪ノナリに似テ)・独活(ウド)・山葵・小谷山松茸・雨森納大豆」などが記されている。佐和山や小谷山といった古城址で松茸が収穫できたのが偶然なのか籠城に備えてアカマツを植えていたのか? と、新たな疑問も頭をよぎったがそれは機会があれば調べてみたい。ただこれらの自然の恵みが彦根城下の人々の食卓にのぼることもあったのだろう。また湖魚や鮒寿司、八坂鴨も彦根名物として挙げられる。しかし、ここに牛肉と小泉紅蕪や彦根りんごを加える程度で彦根名物は明治維新まであまり変わらない。
江戸後期から明治維新にかけて西国の外様大名が大きな活躍をする。その要因として潤沢な資金力があったことを忘れてはならない。教科書などでは外様大名らが謀反を起こさないように辺境地に転封させ幕命で普請などをさせたり参勤交代をさせたりして資金難に陥らせていたと言われてきた。ただし幕府が基準とした収穫量を表す石高は関ヶ原の戦いの頃から変わっていない。京都に近い地域での新田開発はほとんど終わっているが薩摩藩や長州藩などの辺境地域は未開発の地も残っていた。彦根藩など譜代大名の領国は藩政期の収穫に大差はないが地方には新田開発の余力はある。そして石高に似合った収穫さえ望めれば後の土地は何を作っても良いのである。米以外の風土に合わせた特産品の栽培が各藩で密かに推奨されると、食べ物が増え人口も増え、農作物以外の産業を行う余裕も生まれる。日本各地の伝統工業の殆どが江戸中期以降に発展し日本中に広がって行った。その資金が藩の経済を支えたのであった。その面では江戸初期から大きく石高が変わらず消費都市だった彦根藩を地方の大名が200年以上かけて追い抜いて行き、現在に繋がっているとも考えられるのだ。
彦根りんご(令和3年7月撮影)